会社員、田中

 そんなに時間は経っていない。



 テラス席に来たひとがいた。コーヒーの大きな紙コップをもって、きょろきょろとあたりを見渡している。わたしたちのテーブルに気がつくと、柔らかく微笑んだ。わたしも、微笑み返す。このくらいの芸当ならばお手のもの。


 男性。黒いスーツを着ていて、サラリーマンらしい風貌。片手には大きなサイズの紙コップ。


 彼は照れ笑いのような表情を浮かべながら、遠慮がちにこちらに歩み寄ってきた。


「あの。すみません、ひと違いだったら申しわけないんですが。もしかして、その……なんといったらいいのかな。……とある夢の、集まりですか?」

「そうですよ。変態天使の集いです」


 彼はふふっと笑った。


「よかった、違ったらどうしようかと。女子高生に声をかけたなんて、評判になったら大変ですよ。しかも、こんなにきれいなお嬢さんに。……ああいけない、いまはこういうのもセクハラなんでしたっけ。いやあ、いけないいけない。立ち話もなんですし……お隣よろしいですか?」

「はい、どうぞ」


 椅子を引く。わたしと高橋くんのあいだの椅子だ。ちなみに高橋くんはゲームを続けていて、目を上げることすらしない。


「いやいやいや、すみません。高校生の女の子に椅子を引かせてしまうなんて。僕も社会人失格ですねえ、いえすみません」


 彼は小刻みに頭を下げながら、それでもちゃっかりわたしの引いた椅子に座った。所作はきれいだ。背筋も伸びているし足を広げすぎることもない。……高橋くんは、みごとにそうなのだけれど。


 おとなの年齢ってよくわからないけれど、二十代前半か、半ばか……三十代ってことはないと、思う。にこにこと笑っていて、近所のお兄さんといった感じだ。


 切り揃えられた黒髪に、黒縁眼鏡。黒いスーツには皺ひとつない。……ネクタイがすこし、派手、な気がする。ピンクの地に金色の文字。なにかのブランドだろうか。


「はじめまして。僕、こういう者です。会社のしかなくってすみません」


 名刺が差し出されたので、両手で受け取る。ありがとうございます、と言うのはもちろん忘れずに。

 名刺には、このような情報が書いてあった。

 田中英一。システムエンジニア。連絡先はメールと会社の電話とこのひとの携帯電話番号。わたしでも知っている大きな会社の名前も、書いてあった。


「……システムエンジニア、ですか」

「まあ、情報というか、そういうのを管理する仕事です。大学の専攻がそちらじゃなかったもので、苦労の連続ですよ」


 わたしは軽く頭を下げ、名刺をとりあえず定期入れにしまった。


 高橋くんはまだゲームをしている。よくまあこの状況でできるものだ。……よく考えると、このひともぜんぜん高橋くんのことを突っ込まない。

 いちおう言っとくか、と思い口を開く。


「……なんか、ゲームが好きなみたいで」

「そうなんですか、ちょっと意外だな。ゲームをするようには見えなかったです、いえ、悪い意味でなく。お気を悪くしないでくださいね。しっかりとされたお嬢さんですし、その制服、いのち女子学園のものでしょう? 優秀なんだ」


 そこで、やっと気がついた。


「いえ、彼が。高橋くんっていうんですけど」

 田中さんは一瞥する。高橋くんは視線も上げない。

「……ああ。なるほど。そうですね。さいきんの若いひとというのは、そういうひとも多いみたいですね。貴重な青春とはいえ、時間の使いかたはそれぞれですし、僕がとやかく言えることではないな」



 ――すごく、醒めてる。

 高橋くんも顔くらい上げればいいのに。



 とりあえずわたしは、切り出した。


「わたし、王子姫子です。いのち女子学園の三年で、演劇やってます」

「へえ、王子姫子ちゃんっていうんだ。王子が苗字で姫子っていうのが名前?」

「そうです。小さいころとかけっこうからかわれたんですけど、逆にやり返せるようになったっていうか」

「ははは、姫子ちゃんって強いんだ。参っちゃうなあ。……演劇、か。アイドルになりたいとか?」

「いえ、そういうふうには思ってないです。演劇が好きで。アイドルは夢を与えてすてきだなって思うんですけど、わたしは芸術演劇に進みたくって」

「――厳しいぞぉ?」



 茶化すように言っているけれど、目が笑っていないことに気がついた。



 田中さんはコーヒーを飲んだ。


「僕の友だちにもいたんだよね、大学の同期なんだけど、演劇やるって言って仕事辞めちゃったもんだからさあ。……まぁ覚悟があってやってるんだろうし、ひとの価値観はそれぞれだから。まあだいたい客も入らないような小さい劇場で、身内ノリで打ち上げとかやってるだけだけどね。でももったいないよね。姫子ちゃん、すごくすてきな女の子だから、アイドルなんかいいと思うけどな」

「そうですか、そう言ってもらえると嬉しいです。でも私の夢ってちょっと違うんです」

「……ふーん、そっか」


 どこか粘り気のある視線で私を見ると、すこしうつむいてポケットをさぐる。次にこちらを見たときには、その粘り気は消えていた。


「世界救済の前に、僕たちサラリーマンの生活水準上げてほしいもんですよねぇ。あっ、そっか、姫子ちゃんもいるし、学校のこと語るかあ。経済をどうにかするなら、学費も安くしろよってなぁ、姫子ちゃん、思わない? だいたいいまの日本ってさぁ、」



 話は続く。

 ――時刻は十二時五十六分。

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