第50話 東山亮は (7)


 来た道を戻るようにして、学校の正門前を通って俺の家に向かう。中天付近の太陽から淵注ぐ日差しはじりじりと肌を焼いて、シャツに汗が滲んでいく。


「ここ、か」


 アパートの一室。そのドアを見つめながら、ミササギは感慨深そうにつぶやいた。


「じゃあ、行くぞ」 


 言って、彼女が頷くのを確認してからドアを開ける。親父は休みの日なので、一日中家にいるはずだ。案の定、クーラーの冷たい風が流れ出てきた。


「ミササギ、そういえばクーラー大丈夫か?」

「ん、ああ。短時間なら大丈夫だ」

「そっか」


 ミササギは何やらすーはーと深呼吸している。それを尻目に靴を脱いで家に入る。


「ただいま」

「お、お邪魔します!」


 ガタゴットンバンゴテッ………なにやら変な音がした。まさか浮気だろうかとも思ったが、どうやら違ったらしい。転がり出るようにしてリビングから顔をのぞかせた父親の顔には、ひどく動揺の色が浮かんでいた。


「お、おかえり……?」

 

・・・


「…………いや、はは。ホントに出来の悪い息子で、はは」

「いえ、そんなとんでもない」

「はは、そりゃ、どうも」


 あんたらちょっと黙ろうか。


 まるで結婚前のあいさつみたいな雰囲気の会話が繰り広げられる。どうして謙譲表現を自分の子供に使うんですかね、別個の自我を有するんだから、それはただ自分の子を貶しているだけなんじゃないの。謙譲するのは自分に対してだけにしようね。


 そんなことを思いつつ、麦茶を出す。カランコロンと氷のぶつかり合う音が心地いい。


 ダイニングテーブルを挟んで向かい合うミササギと親父。俺はミササギの隣の椅子に座ると、麦茶のグラスに口をつけて一息。親父とミササギの視線がこちらに向くのを感じてから話し始める。


「……話がある」

「どうした」

「その、なんだ。……俺と、智咲と、ミササギで一緒に暮らしたい」


 は、と親父の目が見開かれるも、すぐに眉間に皺が寄る。一言も発したわけではないが、確実に空気が親父に掴まれて、クーラーの冷風がやけに刺さってくる。時々、この人はとてつもない威圧感を放ってくるのだ。父親という生き物はみんなオーラコミュニケーションが出来るのかもしれない。


「智咲は、母さんの再婚相手からDVを受けてる。だから、再婚相手から引き離さないといけない」


「……それならうちでいいだろう。母さんはどうなんだ」


 威圧感が一層強まる。けれどここで引くわけにはいかない。


「母さんは……入院してる。再婚相手の暴力で重傷らしい」

「……………………そうか」


 親父はそれ以上何かを継ぐ意思を見せるわけでもなく、机上に沈黙が降りる。


「……うちじゃ、ダメなんだ」


 もちろん、うちで親父と智咲、三人で暮らすことも考えた。むしろそちらの方が良いだろうとも思う。

 だけど、違うんだ。


「智咲は、もっと年の近い人が周りに必要なんだ。友達はいるだろうけど、それより少しだけ年の離れた人が。理想となってくれるような人が」


 彼女は、大人に傷付けられてきた。母親にも、再婚相手にも、……年上というくくりなら、俺にも。だから彼女は諦めた。


 傷つくのは仕方がない、抗っても仕方がない、望んでも仕方がない、そうして何も望めなくなった。

 

 根底にあるのは人生に対する諦観だ。

 

 だから、せめて傷つけられずに生きて欲しい。


 これは傲岸な願いなのは分かっている。智咲の幸せを俺が断ずるなんて思い上がりもいいところだ。それでも、選択肢を作り出すことが出来るのなら。


「……私からも、お願いします」


 ミササギはそう言って、机に額が触れそうなほど頭を深く下げる。


「智咲さんの面倒はきちんと見ます。それに、亮君は……いい人です。誰かの痛み

を理解できる人です。だから……私と、亮君に、智咲さんを任せてくれませんか……?」


 まとまり切らない言葉を、丁寧に紡いでいくミササギ。俺もそれに続くように頭を下げて、親父を説得するに足る言葉を探す。けれどどうにも出てこなくて、


「……お願い、します」


 そう呟くだけで精いっぱいだった。

 今まで自分の人生で考えてきたのは「正論」だった。物事をひたすらに見つめ、分析し、本質を理解してようやく組み立てられる「正論」。けれど、今は違う。


――ただ、智咲とミササギを幸せにしたい。


 今は、そんな曖昧模糊とした「感情論」に身を任せて行動している。自分の中で

生まれる「正論」と「感情論」がせめぎ合って、自己矛盾に陥っている。言い訳じみたことを言いたくはなかったから、ただ頭を下げた。


 カラン、と氷が崩れる音がした。その残響がクーラーの唸るような音に塗り重ねられていく。


「……ダメだ」

「…………っ」


 重苦しい沈黙の後に、ただそう告げられた。

 まあ、普通はそうだろう。ミササギの父親が許してくれたのが不思議なくらいだ。


 けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。

 これは正論でも何でもない、ただの感情論だ。俺がそうしたいからそうするというただそれだけの、我欲に身を任せた「思考放棄」と言ってもいい。


 それでも。


 俺は、彼女たちを幸せにしたい。


 「幸せでいて欲しい」ではなく「幸せにしたい」と願う。こんな傲岸で、独りよがりな願いを叶えたい。



「…………ここまで育ててくれて、感謝してます。それでも、どうか。ここから先は、俺自身に選ばせてください」


 育ててくれたことには感謝している。だがそれは、俺を産んだことに対する感謝とは違う。生まれたくなかったという思いが払拭できたわけではないし、払拭できる気もしない。


 だから、なのかもしれない。


 俺は、生まれてきた意味が欲しい。生きていく理由が欲しい。生きてきた成果が欲しい。


 目を背けることが出来ないほど鮮烈な渇望に、心臓が引きちぎられそうだ。


「お願いします。父さん」


 顔を上げて、瞳を見据えて、確固たる意志を示す。

 諦観まみれの人生の中で、手放したくないとようやく心の底から思えた願いだ。そう簡単には引き下がれない。


「高校生二人、智咲にいたってはまだ中学生だ。そんなんで生きていけるわけないだろう。社会を舐めるな」


「……それ、で……も」


 継ぐ言葉を見失って、視線が揺らぐ。


 大人は、強い。この場において、親父と俺の立場の差は明白だ。育ててきた人間と、育てられてきた人間。その圧倒的なまでの差は、どうすることもできない壁として目の前に立ちふさがる。




「……それでも、お願いします」



 だから。

 この場において、その差を飛び越えることが出来るのは、


「……亮君は、社会を舐めてなんかないです。誰よりもきちんと向き合ってます」



 隣で、毅然とした表情で親父に向き合う、ミササギだけだ。


「……」 


 親父は不意を突かれたように硬直。その意識の間隙を見逃さずに、ミササギは言葉を継いだ。


「尊敬、してるんです。亮を。私だけじゃなくて、ほかの人も。亮は誰よりも現実に向き合っていて、そのせいで見えなくていいものも見えてしまうのに、それでも目をそらさないんです」


 途中で数度つかえながら、彼女は言葉を紡いでいく。その懸命な横顔にかかる長い黒髪と、理知的な印象を与える静謐さを湛えた瞳。夏も始まったというのに、その流麗な線を描くうなじは雪さえ欺く白さだ。


 その姿に、ふと見惚れている自分がいた。


「だから――私と、亮に、智咲さんを任せてください。お願いします」

「……父さん」


 そう前置きして、少しだけ目を見開いた親父に向き直る。

 隣からはささやかな吐息が漏れ聞こえて、膝の上に置いた俺の手に、不意に暖かい感触が重なる。柔らかな指は俺の無骨な指に絡められ、一瞬だけ強く握られた。


 俺は、彼女に対して何が出来たのだろうか。


 きっと、何もできていない。


「俺と、――凪に、智咲を任せてください。お願いします」


 だから、何かしなければいけない。

 だがそれは、これからの話だ。


「…………」


 親父は、額を押さえるようにして黙考する。重々しく吐かれる吐息。グラスの氷は、もう溶けきっていた。クーラーは効いているはずなのに、首筋を伝う汗が妙に意識に引っかかる。


 はぁ、と一つ大きく息をついて、親父は口を開いた。


「…………わかった」


 その声を聴いた瞬間、左手を握る力が一瞬強まる。俺はそれを静かに握り返した。


「ありがとう、親父」


 言って、ようやく視線をミササギに向けた時に、身体が強張るのを感じた。

 彼女の理知的な瞳の端には涙が浮かんでいて、その様子がたまらなく綺麗だった。涙が頬を伝うよりも前に、彼女がふっと破顔する。


「……やったな、亮」

「……あぁ」



 そう応えて、俺は彼女の瞳の端を拭った。

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