第49話 東山亮は (6)


「…………そうか、」



 理事長は、ただそう言って応接用の椅子に腰かける。

 ミササギに同棲の了承を得た後、俺たちは理事長室に来た。俺たちはあくまで未成年だ。保護者の許可なしに一人暮らしを、ましてや同棲など出来るものではない。


 拳の数発は覚悟していたが、それは覚悟だけで終わった。

 理事長は深い息をついて、緩く瞑目する。


「君、名前はなんといったかな」

「……東山です。東山亮」

「……そう簡単に、他人の家庭事情に踏み込んでいいものではないよ」


 彼は瞑目したまま、諭すように言う。


「はい。わかっています」

「君はまだ高校生だ。誰かの人生を背負えるだけの責任があるわけではない。責任に不相応な行動をとるのは、賢明とは言えないな」


 そんなことぐらい、知っている。

 だが、果たして大人には、誰かの人生を背負えるだけの責任があるのだろうか。


「はい」

「………………そうか」

 

 彼は言葉を継ごうと口を開いたが、逡巡の後に噤んだ。


「父さん」


 言って、隣に立っていたミササギは一歩前へ出る。ふわりと鼻腔を掠めた香りと、その確固たる意志を秘めた横顔に思わず視線が吸い寄せられた。


「なんだ」


 瞑目したまま応じる理事長。ミササギは毅然とした態度で理事長に話しかける。


「……ここまで育ててくれたことに、感謝はしています」


 普段とは違う、夏の暑ささえ忘れさせる冷たい声音。冷たくはあるものの、どこかその声音は暖かさも孕んでいた。その声の異質さに気が付いたのか、理事長の視線が彼女に向けられる。


「ですが、……ここから先は自分で選択させてください」


 理事長の瞳は揺るがず、ただ彼女の瞳を見据えていた。彼の脳裏では、どんな像が結ばれているのだろうか。


 はあ、と一つ息を吐いて、彼は窓際の机に戻る。

 俺の覚悟も、彼女の覚悟も、果たして伝わったのだろうか。それを察することはできず、ただ理事長の言葉を待った。オーラコミュニケーションできるように勉強しようかな。


「……選択が出来るのは、その選択肢を作り出した人間がいるからだ。それを忘れるな」


 理事長はそう言って、手を払うように動かした。どうやら退室しろということらしい。


 ミササギがくるりとこちらを向いて、その喜々とした表情がまぶしくて目を細めた。スカートがふわりと舞い、それを追従するように艶やかな黒髪が踊る。


「その……ありがとう、ございました!」


 理事長に礼を言って、その場を後にする。

 これでミササギの問題は解決。あとは智咲をどう連れ戻すかだ。

 涼し気なリノリウムの廊下に、二人分の足音が反響する。


「部屋とか決めてあるのか?」

「まだだ」

「食費と家賃、光熱費は折半するとして……なあ、寝室とかどうするんだ?」

「一緒のベッドがいい?」

「………………やっぱこの話は」

「ちょまマジで勘弁してくださいごめんなさい愛してるからゆるして」

「ふふっ」


 同棲前にしてイニシアチブを取られた。こんなんで同棲生活は本当に大丈夫なんだろうか。女子二対男子一だと、どうにも肩身が狭くなる気がする。


「そういえば、なんで妹さんも同棲するんだ? 亮の監視ってだけじゃないだろう」


 ああ、まだ話してなかったな。


「……ほれ」


 シャツの裾を握って、捲り上げる。


「うわっ⁉ 何を見せ……って、どうし、たんだ……それ」

「めっちゃ割れてるだろ?」


 得意げに言う俺を、ミササギは睨みつける。彼女と出会ってから、俺に見せたことのないような冷たい、されど動揺を隠しきれない瞳で。


「そうじゃ、なくて」

「最近の主流、細マッチョなんだとよ。どう、惚れた?」

「そうじゃ、ない!」 


 そう言って、ミササギは俺の胸元を掴んだ。細い指が今にも崩れてしまうんじゃないかと思うほどの強さで、シャツを握りしめる。その綺麗な瞳の端に、静かに夏の日差しが輝いた。


「何があった! その、痣だらけの体!」


 その勢いに、思わず彼女から視線を逸らしてしまった。

 別に、特別なことは何もない。母さんの再婚相手に殴られた、っていうそれだけだ。基本的に背中で蹴りを受けたが、何発かは腹にくらったのだ。彼女をこれ以上不安にさせないようにシャツを戻す。


「まあ、アレだ。智咲がDV受けててな。助けに行ったら、こうなった」


 努めて、なるべく軽い声音で言った。

 彼女はそれを聞いて、次第に顔を俯かせる。シャツを握りしめる手が力なく緩められ、ついには解かれた。


「どうして、私に……言ってくれなかったんだ」


 俯きがちなその表情は、見えない。


「……ごめん。こうするしか――」


 言いかけて、やめた。あの手段以外にもとれる手段はあったし、そちらなら間違

いなく俺は傷つかなかっただろう。結局、俺は自分の贖罪がしたかっただけだ。

 自分の未熟さに、辟易するよ、まったく。


「――ごめん」


 居心地が悪くなって、そう言った。ここ最近謝ってばっかりだな。

 それに応える声はない。俺たちは二人、ただ無言で歩いた。下駄箱を抜けて、正門を過ぎてもなお無言だった。蝉時雨が耳に痛い。


「あの、さ」


 ようやく沈黙を破ったのはミササギの方だった。視線は合わず、校門を出て右手を見据えているものの、その声はきちんとこちらに向いている。

 俺は彼女の前を横切って、校門を出て右手に進む。普段なら通らない道だから少しだけ新鮮だ。バス停までは少しの距離があるが、なに、昨日走った距離よりも圧倒的に短い。


 ミササギも俺の行動を察したのか、横に立って歩き始める。その歩調に合わせるように、俺は少しだけスピードを落とした。


「私のお母さんの話ってしたことあったか?」

「……ないな」

「そうか……話しても、いいか?」


 首肯して、彼女に話の続きを促す。


「私の母さんは……自殺、したんだ」


 ふと、先日の理事長とミササギの会話を思い出した。「母さんの信じたものが間違いじゃない」と、そんなことを言っていた気がする。


「母さんは、いい人だったよ。うん。あれはいい人だった。優しくて、いい人だった」


 そう、どこか追懐交じりで零す彼女の横顔に、一条の夏空が映る。夏の日差しはこれでもかと降り注ぎ、坂を下る一本道の先に入道雲が浮かんでいた。


「だから、なんだ」


 そう言った彼女の言葉の続きを待つ。ふう、と一つ息をついて、彼女は言葉を継いだ。


「私と母さんが、小学生の頃に仲良くしていた親子がいたんだ。うん。名前はもう、忘れちゃったな」


 彼女は目を細めながら、少しだけ顔を上げた。


「それで、彼女らの家は自由業でな。父さんが理事長だと知って、金持ちだとでも思ったのかお金を借りに来た。そこまではいいんだ。金持ちとまではいかなくても貯金はあったからな、けど」


 そこで、不自然な間が開いた。怪訝に思って彼女の方に視線を向けるも、少し歩調を早めた彼女の顔は見えなかった。彼女の声音が、少しだけ湿り気を帯びる。 


「それに続くようにして、いろんな人がお金を借りに来た」


 この言い方は、少し不謹慎かとも思うが、あえて例えるなら一人にお菓子をあげると、いろんな人にあげないと気まずくなるあの現象に近いのかもしれない。


「最初は知り合い。次は同じ学校。次は知り合いの知り合い。そうして借りに来る人は増え、とうとう処理が追い付かなくなった。それもそうだ、母さんは全部自分のポケットマネーから出してたんだ。『父さんや私に迷惑をかけるのはいやだ』って言ってさ。でも、ついに返さない人間が出てきたんだ」


「……」



 彼女の言葉の続きを待つ。鼻をすする音がして、深く息をつく音が続いた。蝉時雨はどこか遠く、近所の公園であそぶ子供たちのはしゃぎ声が響いている。


「それでも、母さんはお金を貸すのをやめなかったんだ。『友達が困っているなら』って。無利子で、返済期限もなく、ただお金を貸したんだ」


 ふと、彼女の歩調が遅くなったのを感じて、俺もそれに合わせて減速する。次第に落とされていく速度に合わせているうちに、とうとう彼女の足が止まった。




 横に並び立った俺の裾に、不意に触れるものがあった。

 細い、今にも折れてしまいそうな指。緩く裾を握りしめるその指を、そっと俺の指で包む。夏の暑さの中にあって、けれど互いの体温ははっきりと感じ取れた。


「そうしているうちに、私に対する周囲の態度が変わっていった」


 きゅ、と少しだけ彼女の指に力が入る。


「いじめなんてさ、簡単に起こるんだ。金をばらまいている人間だ、って言われたよ。さすがは小学生の語彙力だな……でも、母さんが傷つくにはそれで十分だった。母さんはそれきりお金を貸すのはやめた」



 そう言うも、彼女に歩き出す気配はない。緩められた手が裾から離れていく。俺の指も自然と解かれて、彼女の体温が抜けていった。――義務感に駆られて、離された彼女の手を俺の手でつかんだ。



「っ!」


 ミササギの目が見開かれ、顔が挙げられて視線が交錯する。決して逸らさず、ひたすらに彼女の瞳を見つめる。




 空白。 




 たとえ見えなくても、輪郭を与えなくても、証左などなくても、確かにそこにある空白。



 彼女の目が細められて、静かに続く言葉は紡がれていく。


「そうして、母に掛けられた言葉は『あんたが金を貸してくれなかったから、潰れたじゃない』だったんだよ、亮。それが、流布してからは私への、いじめがエスカレートして、母は気に病んで――最初に、見つけたのは、私、っで……首、吊ってた、んだ……」


 途切れ途切れになる言葉を、それでも話そうとしているのを見て、御しがたい衝動にかられた。そのまま彼女を抱き寄せると、腕の中で彼女の体が強張るのを感じた。彼女は抵抗することもなく、俺は一層強く彼女を抱きしめる。


「――なあ、悲しく、ないか? いい人ほどっ、生きづらいんだ、……嫌だよ、

亮。こんなのは、悲しいよ」


「ああ……あぁ、本当に、そうだな」

「………………亮?」


 ふと、抱きしめた彼女の顔が、俺の方を見る。けれどその顔を俺は認識できなくて、ようやく自分が泣いているのだと気づいた。ミササギの手が俺の後頭部に回されて、肩に引き寄せられるのに身を任せる。


「……ごめ、ん……辛いのは、凪、なのに――あぁ、もう。なんでだ……」


 汗が滲む俺の後頭部を、彼女はそっと撫で続ける。彼女になら、言える気がした。彼女にだからこそ、言わないといけない気がした。


「……俺、さ。智咲を――妹を、殴った、んだ……小学生の頃さ、母親があんまり

いいひとじゃなくてさ、たまに、智咲を殴ってたから、どうしても、そうしちゃい

けないって、思ってたはずなのに、なぁ……」


 彼女は、傷つけられたことを嘆いた。彼女はきっと、誰かの感情を理解できる良い人だ。優しくて、恋愛が出来ない俺が惚れてしまうくらい、いい人なのだ。


 対して、俺は、傷つけたことを嘆いた。


「――ああ、悲しいこと、ばっかりだ」


 彼女の肩に顔を埋めたまま、そう言った。


 悲しいことだらけだ。世の中なんて、そんなものなんだ。

世界平和も、全人類の幸福も、全部理想の話で、現実はひどく悲しいものなんだろう。そうやって諦観して、折り合いをつけて生きていくのが正しい生き方だ。

 

 でも。


 そんな悲しい世の中で、まだ、傲慢にも何かを望むことが出来るなら。


 俺は――――――――――。




「――なあ、凪」

「うん?」




「この後、俺の家に来てくれ。――親父と、話し合いたい」

 

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