第46話 東山亮は (3)


 街を行きかう人々の間を縫って、ひたすら走った。

 

 すれ違うたびに好奇の視線が向けられる。カップルたちは時に腕を組み、時に指を絡ませ、時に視線を交錯させては微笑み合っていて、俺なんかを気に留める時間さえ惜しいと思ったのか視線は外された。

 

 それから二つほど角を曲がって、閑静な住宅街の外れに出た。

 目の前にそびえ立っているのは、この地域でも一際目の引く巨大なマンション。上を見上げると足がすくむほどのそれは、眺めるだけで心臓が潰されてしまいそうだ。ただの肉塊のようになった足で地面を踏ん張るのがやっと。


 そうして、はたと気が付いた。


「……どうやって、突入するかな」


 最近の防犯意識はなかなか高く、マンションもオートロックを採用する建物が増えてきている。そもそもエントランスのドアすら突破できるか怪しい。通り抜けフープが切実に欲しくなる。


 母と智咲、母の再婚相手が住むのは十三階。流石に外壁を上っていくのは不可能だろう。


 では、どうすればいいのか。


 雨に打たれすぎたせいで熱を帯びた頭で考える。


「……結局、シンプルイズザベストか」


 マンションの横にあったゴミ置き場から、段ボールを拝借して組み立てる。かなりの大きさのそれは、持っていれば顔を隠してくれるはずだ。段ボールの表面には「折り畳み式ベッド」と書いてある。二人で使ったらへし折れるレベルの欠陥ベッドだといいな


 再びエントランスに戻り、荒れた呼吸を整えてから、部屋番号を入力して住人を呼び出す。運が良ければ佐山の連絡を受けた智咲が出てくれるだろうが、残念、そうはいかなかった。


「はい」


 短く発せられた声は、ごく普通の男性のものだった。むしろ優しさすら感じるその声音の主が新しい父親なのだろうか。


「お届け物です」


 インターホンで見られないように、段ボールで顔を隠しながら、少し低めの声音で言う。


「あ、どぞ」


 滑らかな駆動音と共にドアが開く。流石というべきか、新築ということもあって内装は豪奢だ。外観を裏切らないそのロビーには、どこか高級ホテルさえ思わせるシャンデリアや革張りのソファが置いてある。


「おわっ」


 じ、地面が沈んだ……。と思ったら赤いカーペットだった。内壁に使われた大理石のオフホワイトとのコントラストが美しい。けれど、内装に感動している場合ではない。


 脱出経路は、多分この正面エントランスしかない。探せば裏口もありそうだが、なにせ規模が規模だ。縦だけではなく横にも広いこのマンションで裏口を探すのは、かなりのタイムロスになる。時間が惜しい。いざとなったら救出した後にでも智咲に聞こう。 


 一番近いエレベーターホールからエレベーターに乗り、十三階に向かう。

 途中、誰かが乗ってこないか心配だったが、どうやら杞憂だった。少しの浮遊感のあとにエレベーターは止まり、無事に十三回に出る。なるほど、高級マンションって廊下も室内にあるのか。


 非常階段の位置を確認しつつ、怪しまれないように堂々と歩く。一応は制服を着ている身だ、この高級感の中にあって浮いてはいるものの、TPOに真っ向勝負を挑んでるわけでもない。


 端の見えない廊下を歩くことしばらく、ふと右ポケットからスマホを取り出す。見れば、佐山からのメッセージが来ていた。


【智咲ちゃんに連絡しておきました。十三時ちょうどに部屋から出てきます】


「……ありがとな、佐山」


 本当に、あいつには……あいつにも、足を向けて寝られないな。

 どうやら、彼女が智咲と作戦を組んでくれたらしい。十三時ちょうどに部屋から出てきた智咲を、あとは俺が回収すればいいだけ。単純明快。あれ、これって中に入った意味あったのか。


――――バチン。


 瞬間、思考が霧散。その空白を埋めるように続く激しい物音。人が何かを喚いている音。意味をなさない音の断片。脳裏をよぎるのは――

 その思考が輪郭を帯びるより早く、二部屋先のそこに駆ける。


「――――お届け物でーす」


 佐山から教えられた部屋番号と、目の前にある部屋番号は一致している。


 全身を引き千切るような痛覚も、オーバーワークで破裂しそうな心臓も、熱を帯びて働かない思考も、無駄な感覚は全て途絶えていた。ただひたすらに、智咲の無事を祈ること数秒。

 ドアの解錠音がしたときに、途方もない規模の感情が沸いた。


 それでも、どこか歓喜している自分がいる。ようやく智咲を助けることが出来ると。智咲に、ようやく贖罪が出来ると、そう歓喜した。心情の脈動を感じる。秒針の音さえもどかしいその時間の片隅に、開かれかけたドアの間隙から、


「はい」

「――――おい」


 地面に崩れるように横たわる、彼女を見た。

 刹那より早く、段ボールを離した手が、そのまま男性の頬を捉える。無骨な骨と骨がぶつかる感覚。痛覚より早く、倒れこむように突撃した俺の肩が彼のみぞおちを穿つ。体格差はある、けれど押し込んでしまえば変わらない。


 力のままに男性を押し込んで、足を滑らせたか、彼は後頭部から仰向けに倒れる。その一瞬の間隙をついて、横に崩れていた智咲を抱き起す。


「おい、智咲、智咲ッ! 起きろ!」

「…………」   


 反応がないのを確認して、胸元に耳を当てる。薄手のTシャツ越しに、とくん、とくん、と小さな拍動が聞こえて、ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間――その視界の端に。


「――母、さん?」


 玄関からリビングに続く廊下の、リビングの入り口。智咲と同じように横たわる、女性の姿があった。顔にはいくつかの皺が刻まれ、苦悶に歪められたはずながらも、どこか安らかとさえ言えるその表情。閉じられた瞼の上からはその理由は察せない。


 体が硬直した。

 どう、すれば、いいんだ。

 智咲を救うつもりで来た。そのために死にかけながらも走った。だから、最低限のものしか持ってきていない。――二人も救出する準備は、できていない。


 あれだけ憎んだはずの母親なのに、こんな状況になると救うという選択肢が出てくるのかと、どこか冷静な自分が驚いている。


 逡巡。

 智咲の膝の裏に手を入れ、左手で肩の裏を支える。――ごめん、母さん。


 心の中で謝罪の言葉を述べ、立ち上がってまだ明けられているドアから出ようとする。薄暗い部屋の廊下は、外のわずかな光でさえ輝いて見えた。濡れたズボンが足にまとわりつくのを感じながら、力を込めて立ち上がる。


――あ、


 不意に。


 痛みはなかった。衝撃もなかった。感覚さえなかった。

 とうに限界を迎えていた足が、ほんの刹那だけ折れて膝が地面に着く。刹那。ただそれだけの時間に、けれどその十分な時間に、意識が抉り取られそうになる衝撃。


 転瞬。


 されど開かれた眼は何かを捉えることはできない。像を結ぶ対象がないのだ。目の前にあるただひたすらに暗いだけの空間を眺めている。


「クソ、ガキがッ!」


 腹部に衝撃、次いで背部に鈍痛が走る。


「ぐッ」


 苦悶に歪められた顔から脂汗が噴き出す。それでもなお智咲を抱いた両腕は解かない。部屋の廊下、その壁と俺の間に智咲を挟むように態勢を移動させ、何とか智咲に危害が及ばないよう暴行のすべてを背中で受け止める。


 次第に痛覚も漂白されて、ただ鈍い音が響く。毒づく男の声が降る。抵抗をする隙もない、隙を見つける機会もない、機会を作る体力もない。熱を帯びて鈍重な思考を、それでも必死に巡らすが、出てきた答えは悉く不可能を突き付けてくる。


「大人に盾突いてんじゃねぇよクソガキがァ!」

「――がっ」 


 声ですらない、ただ蹴り飛ばされた衝撃で漏れ出た息。ふと、酷使された脳によぎる考えがあった。

 ずっと、大人は愛の証明のためか、快楽のために子供を作るのだと思っていた。

 けれどもしかしたら、大人は自分を大人だと思いたいが為に子供を作るのかもしれない。相手を子供だと断ずることで、自分を大人だと誤認する。自分と子供を相対的に見ることで、自分が大人だと錯覚する。なるほど、未熟さの棚上げが発生するわけだ。


「ッあぁ……!」


 深い海の底から引き上げられるように戻ってきた痛覚。悶絶さえ許さぬその激烈な痛みに体が硬直し、同時、智咲を抱きしめる腕も硬直。


 そうして。

 ふと、涙が出た。


「――お兄、ちゃん?」


 緩く閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いていく。瞳の端には涙を湛えたまま、俺を認識すると同時に少し見開かれた。その様子に何か声をかけようとするも、息は声にならないまま吐き出された。


「チッ」


 上から、一つ舌打ちが降る。

 立ち上がることも叶わない。こうなったら、どうにかして智咲だけでもドアの外へ出す。あとは彼女が逃げ延びるまでの時間を稼げばいい。もっとも、それが能う状況ではないけれど。


「なァ、お前さ、なんなの? 急に来たと思ったら俺を殴ってさ? ざけんなよ」

「――ぐぅッ」


 答える間隙さえ与えずに、男は蹴り続ける。しかしそれも飽きたのか、男は智咲の髪の毛を掴んで引っ張り上げた。固く拘束していたはずの腕があっけなく解かれ、俺の腕から智咲が奪われる。


 周囲から、体温が無くなった。


 縋るべきものを失った。体は動かなくて、視線だけ男の方に向ける。


「やッ……やめ、て……!」


 長身の男に、片手で持ち上げられてもがく智咲。それでも男は意に介す様子もなく、冷徹な視線を突き付けてくる。先ほどまでの怒りに任せた様子ではない。ただ、自分の優位性を、勝利を確信した瞳。


「なあ、お前、誰なの? 人んち勝手に入ってきていいと思ってんの?」

「……は」


 言って、その言葉が意味を成していないことに気づく。ならば、もう一度言えばいいだけのこと。


「――俺、は」


 少し、男の瞳が開かれた気がする。


「俺は智咲の……兄、だ」


 そうして、しばしの沈黙が訪れる。けれどそれは情報の途絶ではない。いわば、武士が相手の間合いを測るような、あるいはガンマンが相手のタイミングを見切るような、そんな沈黙。


 ふと、男の口の端に嗜虐的な笑みが滲む。侮蔑を孕みながら、嘲笑を抑えながら、ただ死を待つだけの虫でも見るかのような余裕。


「はッ、笑えるな。イキって助けに来てこれかよ。おい智咲ちゃん、見てみ、お兄ちゃんがくたばってるトコを、よッ!」


 顔面を蹴られると同時に、身体が少し浮き上がる。そう思ったのもつかの間、重力に抗いきれずに地面にたたきつけられた。


「やめ、てっ」


 智咲の必死の抵抗も、意味はない。男は彼女の長い黒髪を握ると、より一層高くに持ち上げた。智咲が向けてきた縋るような視線に、なにも返せない自分が情けない。


――ふと。


 その縋るような視線に、いつかの彼女の面影を見た。俺の人生がようやく動き出したあの日。夕暮れ過ぎの残照の中で、彼女と視線交わしたあの。

 もしかしたら、俺はミササギを智咲と重ね合わせていたのかもしれない。


「…………離せ、よ」

「ああ?」


 男の意識が、再びこちらに向けられる。


「離せって――言ってんだよ!」

 

 足はもはや動かない、手でフローリングを這うように移動する。


「はァ? 死ねよ」

「――ぐッ」

 

 再び、高速の蹴りが俺の顔を直撃。けれど今度は、両手でしっかりと男の足を握る。


「おい! ざけん、なっ!」


 動揺した男が数回蹴りを入れてくる。しかし、予備動作がない分威力は劣る。同時に、片足を塞がれた男はバランスが取れずにぐらついた。

 力の入らない足で、それでもフローリングを蹴る。大きく体勢を崩した男の手から智咲が離れるのを尻目に確認しながら、一層の力を込めてリビングまで突き進む。


「う、ぉぉおおおおッ!」


 長身の男に、低い体勢からのタックル。重心の都合でバランスを崩しやすい長身の男は、抵抗する態勢を整えるまでもなく豪華なソファに激突。「ぐぁ」という情けない呻き声を残してその場に倒れる。


「よく、も……! 智咲を……ッ!」


 攻勢は止めない、意趣返しとばかりに男の上に馬乗りになって、小奇麗な顔面目掛けて拳を振り下ろす。骨と骨がぶつかる鈍い音の断続。衝動のままに殴りつける。ささやかにひげを蓄えた男の顔面が変色していく。意識がなくなるまで殴り続けてやる。 


 恩情も、慈悲も、呵責も、全部どうだっていい。抵抗にと男が数発俺の背中に拳を当てたが、今更背中に痛みなど感じない。



「ふざけんな……ふざけんな、ふざけんなふざけんな、ふざけんなッ!」


 自分の声だと認識できないほどに枯れた、どす黒い声。鈍い音が部屋に響く度に、どこか優越感が募っていく。一発、もう一発。そうだ、今度は鼻をつまんでへし折ったらどうだろうか。


「――――て」 


 いや、このままだと脱出するのに不便だから拘束した方が良いのか。それより殴って気絶の方が早いか。くたばれ、死ね、死ね、お前みたいな人間、生きる価値ないだろ。生きる価値のない人間のせいで、生きる価値のある人間が汚されてたまるか。クソが。


「ふざけんなよ! クソが!」



「――――――――――――やめて!」


「………………あ、」


 思考を途絶させたのは、智咲の声だった。衝動に任せて振り下ろされていた拳は細い指で掴まれて制止している。驚いて、声の方に視線を向けた。


「……もう、いいよ。お兄ちゃん」


 彼女が送る視線はの対象は、俺ではない。彼女の視線をたどり、自分が馬乗りになっている男の、その顔を見やる。青白く、あるいは赤く変色した彼の顔。

 それは、ごく一般的な成人男性の顔だ。


 変色した部分もある。血の滲んだ部分もある。けれど、それを除けば普通の顔。普通、なのだ。街ですれ違おうと、電車で隣に座ろうと、あるいは日常会話をしようとも違和感を抱かないであろう普通の顔。


 優越感は消滅し、それがあった場所には、慙愧と、虚脱感だけが流れ込む。


 見れば、智咲は目に涙を浮かべていた。


「いいん、だよ、お兄ちゃん……助けてくれたのは嬉しいけど、でも……それじゃあ……」
















――やってることは、この男と何も変わらない。




 そう、心の中で言葉を継いだ。 

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