第45話 東山亮は (2)


 走り続けて、自分の輪郭が分からなくなった。


 肌を穿つ雨の勢いは衰える気配がない。両足の感覚はもうなく、腕は千切れた肉塊のようにぶらぶらと歩みに合わせて揺れる。一度でも立ち止まったら、もうきっと踏み出せない。


 体温が雨と混ざり合って、身体から溶け出していく感覚がどこか心地いい。一歩地面を蹴るごとに自分の概念が希薄になっていく。大腿部を貫く鋭い痛みが脳天を衝くも、どうでもいい。

 目に刺さる髪が鬱陶しくて掻きあげた。クリアになった視界が雨に煙る街並みを捉える。


 ここから、どう行けばいいんだ。

 バスも電車も、待つ時間がもどかしくて走ることにした。佐山から送られてきた住所は俺の住んでいる地域のすぐ近く。隣町というヤツだ。


――ああ、やっぱり俺はクソなんじゃないか。


 あの日、智咲が座り込んでいた場所を尻目にそんな思考が浮かび上がる。

 近いとは言え隣町。理由もなく来るところではない。だとしたら、彼女の理由は何か。


 簡単だ――戻ってこようとしたのだ。俺と親父の住む、元の家に。


 雨の日、彼女は傘も持たずにここにいた。

 雨、広く概念をとれば水だ。

 海は生命の始まり。であれば、それを構成する水は生命の始点に位置するものだ。だから、俺や智咲のように「生まれたくなかった」という始点からの否定をする人間にとっては心地よく感じるのかもしれない。生まれていない状態の薄片を感じることが出来るから。

 少しだけ深い水たまりを踏んで、気を取られたせいで大きくよろめいた。歩道脇の塀に強かに肩を打ち付ける。


「っあ……」


 口の端から情けない声が漏れた。

 同時、四肢から力が抜けていき、がらんどうの塊は脆くも地面に崩れ落ちる。視界が地面で阻まれて、自分が倒れているのだと悟るのに数秒。自分が起き上がれないと分かるまで、さらに数秒。


 贖罪、なんて、意味があるのだろうか。


 生きていけば罪を重ねる。贖罪なんて到底追い付かない速度で。

 生きていくのは罰であり罪だろうか。間隙にある「楽しい」という感情がそれを紛らわせてはくれるが、終局的には横たわる虚無感の前に崩れ去る。


「――――――――で、も」


 ようやく発した声は、ひどく枯れていた。


「――――――――――――――――――それ、で、も」


 アスファルトの地面を引っ掻いて、指先に血が滲む。腕から肩までの筋肉はもう役には立たない。体をひねって歩道脇の塀に肩を当て、支えにしながらなんとか立ち上がる。もはや痛覚さえ感じない。大腿部が悲鳴を上げるのを気づけずに、途中で二度膝をついた。でも、まだ立てる。


「――――それでも」


 呟く声は、俺の耳にすら届かない。



 それでも、と。

 まだ立てる。まだ歩ける。まだ走れる。

 彼女を救うことが出来るなら、なんだってする。

 ミササギにも、久瀬先輩にも、佐山にも出来ない。これは俺の贖罪だ。


 一歩。


 踏み出す足は、今度こそ誰かを傷つけない道にあるだろうか。


 一歩。


 開かれた手は、今度こそ彼女を守るために動くだろうか。


 一歩。一歩。一歩。

 俺の人生の根底にあるのは、きっと諦観だ。

 自分自身というものに諦めている。恋愛だってそうだ。未来だってそうだ。だからこそミササギを愛することを許容した。彼女が愛してくれることに甘んじた。全部、元をたどれば諦観に行きつく。


 それでも。

 彼女を救うことができたなら、本当の意味で踏み出せるのだろうか。

 たとえ、それが僅かでも。マイナスがゼロになっただけだとしても、それで十分だ。


 この期に及んでまだ自分の人生に期待したいと思っている自分がバカらしくて、ずぶ濡れの顔で嘲笑ってみた。どうだよ、人生、悲しいことだらけだ。


「…………本当、悲しいな」


 俺が、ここまで生き長らえた意味。

 死ぬ意味が「生きていたくなかったから」じゃあまりにも寂しくて、生きる意味が「死にたくなかったから」じゃあまりにも虚しい。

 そんな自分も、悪くはなかったけれど。


 生きる意味は分からないけど、生きた意味なら、いつかの残照でその輪郭が照らし出されていく。それは、きっと渇望していたもので、諦観だらけの人生でようやく手にしたもの。


――――俺は。


 ミササギのように、誰かと共に立って何かに立ち向かえるような人間になりたい。生きづらい少数派が、それでも胸を張って自分を叫べるような在り方を、共に作り出す人間。常に味方でいてくれて、理解者以上の人間。


「――俺はっ……!」




――私と、リア充に――この世すべてに、立ち向かってくれないか?




「――――智咲と、この世すべてに立ち向かいたい」


 共に肩を並べて、理不尽な世の中に立ち向かう。いつか変わるときが来て、それらを肯定できるようになるとしても、彼女がそれらを肯定できるようになる日まで共に立ち向かう。


 たとえ、それが一瞬でも、刹那でも、構わない。

 俺は、一度彼女を傷つけてしまったから。今度こそは。

 ミササギがしてくれたように、俺は智咲を助ける。


 頬を打つ雨の間隙に、ふと一陣の風が吹いた。曖昧な視界におぼろげながらも光のようなものを感じる。わずかな雲の合間から夏の日差しが漏れ差して、不意にがらんどうだった四肢に血液が巡り、体温が戻っていく感覚。


 心臓が確かに脈打つ。 


 地面に残る雨の残滓に、かすかに照り付ける日差しが反射する。踏み込んだ足が水面を揺らして、光も揺れるが、それでもそこにあり続けた。

 佐山の送ってくれた住所まであと少し。



 二、三度よろめくが、もう、倒れはしない。

  

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