第35話 夜の出口は、されど遠く


 眠りにつこうとしたけれど、眠れなかった。


 昼間、熱中症とはいえ、少し寝すぎたのかもしれない。

 冷蔵庫から炭酸水を取って、適当なコップに注いで飲む。小腹が減ったから、食パンにハムを乗せて焼いた。

 食べ終えてしまうと、やることが無くなった。不意に散歩に出たくなって、適当なシャツに着替えて外に出る。昼間のような暑さはなく、まとわりつくような熱気の名残があるだけ。


 そうして、歩く。


 夜風にあたりながら歩いていると、次第に思考がクリアになっていく。



 無駄なものが削ぎ落とされていって、最後に残ったのは諦観だった。



 昔、世界史の大宮先生が言っていた。

 古代ギリシアから続く「悲劇」の定義は、主人公が死ぬことなのだと。

 だったら、人生全部、悲劇じゃないか。

 未来には絶望しかない。希望があっても、希望があることすら絶望だ。

 そもそも、望みなんて抱いていないから、小四以来絶望はしたことがない。

 だから、これは諦観だ。

 俺の人生は、行き止まりだった。大人になんてなりたくない、生きていくのがひどく恐ろしい。そもそも、どうしてここまで生きてしまったのか。


 生まれたくなかった。


 断片的な思考の中に、ふとそんな言葉がよぎる。

 中学二年の秋、クラスでいじめみたいなものに遭った。

 何度か自殺しようとした。

 それだけだ。

 この世には、想像できないほどの理不尽なことに満ち溢れている。

 だって、そうだろ。 


 望んでもないのに生まれてしまった時点で、途方もない理不尽じゃないか。

 



 歩いていくと、海が見えた。

 離れたところに江ノ島があった。どうやら鎌倉まで来てしまったらしい。

 水平線の向こうから、夜の出口が顔をのぞかせていた。黎明の中で、一歩一歩、確実に踏み出していく。まだ暗い砂浜は、どこか不気味さと美しさが同居していて、ささやかな満足を与えてくれる。

 波の音が近づいてくる。 

 砂を踏むたびに、沈み込む感覚が面白い。

 頬を撫でる風は、潮の香りがした。


 恋愛が出来ない。

 家庭が作れない。

 子供が作れない。


 そんなのって、自然なんじゃないのか。

 こんな理不尽な世の中に、子供産み落として、満足か?

 一歩。

 俺は、嫌だ。

 一歩。

 そんな俺を、両親が産んだ。

 親父はいい人だったから、あんな人でも思考放棄して子供作るんだな、と思った。

 一歩。

 妹の太腿に痣を見つけた時、人間はどうしようもないのだと悟った。

 一歩。

 久瀬先輩を助けることが出来た時、過去の自分に対する贖罪ができた気がした。

 一歩。

 佐山あかねを傷つけてしまった時、自分はどうしようもないのだと悟った。

 一歩。

 ミササギに告白されたとき、たまらなく嬉しくて。悲しかった。

 一歩。

 冷たい感覚が、思考を研ぎ澄ませていく。

 一歩。

 視界の端に、朝焼けを捉える。橙色と鈍浅葱色の混ざる空に、こんな世界も悪くないんじゃないかと思った。

 一歩。

 何も見えなくなって、同時にすべてが見えた。

 空白。

 誰も傷つけたくないし、誰にも傷つけられたくない。

 理不尽をする側にも、理不尽を受ける側にも立ちたくはない。

 虚無。

 大賢者になるとか変な言い訳をして、ここまで生き長らえてしまった。

 もっと早く、こうしていれば良かったのかもしれない。

 でも。

 それでも。

 最後に、ミササギの顔が浮かんだ。

 どうしようもなく、好きなのだと思った。

 そんな自分が、許せない。

 なぁ、ミササギ、思わないか。

 自分が一番嫌っていた思考を、自分がしてるんだ。

 ともすれば縋ってしまいたくなるような、甘美な思考に身を委ねそうになってるんだ。

 このまま生きてたら、ミササギと結婚して、子供作って、幸せに生きていくのもいいんじゃないかと思える日が来そうで、怖いよ。

 そこに、幸せなんてないのに。

 そんな思考が芽生える前に、終わらせたかった。

 次第に意識が漂白されていく。

 それでも、最後に。

 




 


 彼女の顔を、思い浮かべていた。

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