第5章 夏の入り口、あるいは

第34話 夏の始まりは、どうか美しく


 眠るというのは、一時的に死ぬことなんじゃないだろうか。


 昔、国民的漫画のアニメで言っていた「全人類が昼寝をすれば戦争は起こらない」という言葉を、ふと思い出す。

 昼寝を一時的に死ぬことだと解釈すると、全人類が死ねば戦争は起こらない、と言える。まぁ、そうだろう。あたりまえか。

 では、戦争を「他人を傷つけること」と言い換えるとどうだろうか。

 全人類が死ねば、傷つく人がいなくなる。

 ただの言葉遊びに過ぎないだろうか。

 きっと、そうなのだろう。こんな面倒くさい考え方する人間、――くらいしか知らない。


 ふと、そこに奇妙な空間を見た。

 俺は、その空間に当てはまるものを知っている。知っているのだけれど、思い出そうとすればするほど不確かになっていく。時折、鮮烈なまでの渇望が胸を衝くこともあるが、ことごとく一瞬のうちに霧散していった。

 そうして、ただ茫漠とした思考の砂漠を彷徨う。

 何かを思い出そうとしているのかもしれないし、何も思い出したくないのかもしれない。


「………………山?」


 遠く、声がした。甘いようで、涼し気で、不思議とその声は耳に馴染んでいる。

 懐かしさと新鮮さが同居していて、ともすれば手を伸ばしてしまいたくなるような、そんな声。


「……東山」


 停止していた思考が、鈍重ではあるが動き出す。もしも、俺が恋愛できる人間であったならば。そう何度も考えたことがある。

 朝、一緒に登校するのだろうか?

 授業中、相手のことで頭がいっぱいになるのだろうか?

 放課後、手を繋いで制服デートでもするのだろうか?

 夜、電話をしながら眠りに落ちるのだろうか?

 そしていずれ、別れるのだろうか。

 あるいは、結婚して現実を知って、愛想を尽かされて離婚するのだろうか。

 こんなことを考えたことを、後悔する。仮定は仮定だ、現実じゃない。こんなしょうもない妄想をしたところで、俺が変わるわけじゃない、そう唾棄する。


「東山」


 鈍重だった思考が、クリアになったのが分かった。心地よい浮遊感と、頬にあたる穏やかな風を感じる。前髪が瞼をくすぐって、次第に自分の輪郭がはっきりしていく。


「…………保健室?」


 言って、ようやく自分がベッドで寝ていたのだと理解した。陽は落ちかけているらしく部屋は全体的に薄暗く、つんと消毒液のにおいが鼻腔を刺激する。


「……起きたか?」

「あ――――」


 あぁ、と言おうとして、されど後に言葉は続かない。

 俺に問うた彼女の顔を見た時に、何も言えなくなってしまった。柔らかな視線が向けられて、口の端には笑みの気配。右手には団扇が握られている。けれど瞳の端から、頬を伝って零れ落ちたのだろう一条の痕。


「軽い熱中症だそうだ。……うん、もうしばらく、そうしているといい」

「……わかった」


 その言葉の裏に、何かを隠している。そんな確信めいたものがあった。けれど、それ以上問うことはできない。これ以上立ち入ってしまえば、きっと傷つけてしまう。

 沈黙から逃げるように、窓の外に目をやる。特別棟の西端一階にある保健室からは、遠く山々の稜線にかぶさるように黄金色に輝く空が見える。秒針の音が響くごとにその景色は変わっていき、ついに太陽が稜線に消えて残照だけが西の空を照らしている。細く、されど確かな質感を伴ってたなびく雲に、陽の残滓が茜色を塗る。


 昼間の熱狂は、もう聞こえない。

 花火大会は一時間後。それまで、生徒は思い思いの暇つぶしをすることになる。

 グラウンドに残って準備の様子を見守る生徒、教室でくだらない話をして盛り上がる生徒、飯を食いに出かける生徒、しかし、喧騒の残滓はここまで届かない。

 永劫のような時間が過ぎて、ふと思い出した。


「……佐山は、どうなったんだ?」

「彼女は……正式に脱退を申し出てきた」

「そうか」


 彼女の瞳に、悲しさは見えない。

 その瞳に何か言わないといけない気がして、同時に言ってはならない気もした。そもそも、言う資格なんてないだろう。

 佐山あかねの脱退の原因は、俺なんだから。


「ごめんな、東山」

「………………え、」


 なんで、ミササギが謝るんだよ。そう言う前に、彼女の涙を見た。

 流麗なまでの涙が、彼女の透き通るような肌の上を滑る。ふと、夕焼けの残滓が紺藍に流されて、夜の帳が街に降りていくのを感じた。色彩が失われて、モノトーンの部屋。

 そこに、極彩色の涙が一つ。


「リア充撲滅同盟は、これで解散だ」


 刹那の漂白。

 それでも、どこか受け入れている自分がいる。 

 最初から、どうにもならなかった人生だ。元の状態に戻っただけ。

 だから、どうだっていい。

 ミササギの顔は伏せられたまま、視線が交差することはない。きっと、途方もなく美しいのであろうその顔を見たいとも思ったが、そんな欲求は霧散した。


「……そっか」


 胸の隅に、ささやかな寂寥感が去来する。

 それきり、俺とミササギの間に沈黙の緞帳が降りて、秒針の刻む音だけが俺たちに輪郭を与えていた。それも次第に曖昧になって、時間の概念が認識できなくなる。


 いつか、終わりは来る。

 諸行無常というヤツだ。始まりがあれば終わりがあって、みんな少しずつ変わっていくのだと、それが当然のこと。自然の摂理なのだ。

 組織も、人も、感情も、少しずつ変わって、いずれ終わる。


 だから、始めなければいい。

 因果律の通りに、起点を無くす。そうすれば後に続く結果は消える。

 失いたくないなら、最初から掴まない。

 それなのに。


――俺は。


 遥か、遠雷のように花火は輝く。

 臓腑を震わせる音に、ミササギと視線が交錯。吸い込まれそうなほど綺麗なその瞳に、僅かに滲む涙がどこか幻想的で、ふとあの春の日を思い出す。

 郷愁、渇望、思慕、悄然、衝動。


 そうして、刹那のうちに心が輪郭を帯びた。


――――ミササギのことが。



「東山――――私、は」

 ミササギ、俺は。














「………………君のことが、好きだ」

 君のことが、好きだ。
























「――――――――――――ごめん」

 

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