第9話 閉会

 離れの中は真っ暗になった。

 暗闇に目が慣れてきたと思っていたのに、あのわずかな光源が絶えてしまうと、僕には自分の手の輪郭すら見えなくなった。

 誰も声を出さない。クーラーの稼働音だけがやけにうるさく聞こえる。今、一緒に暗闇の中にいるのが、本当に僕の父や友人たちなのかどうか、それすら判然としない。

 時間が経つのが異様に遅い。かつてこんなに長い1分間があっただろうか。こうしている間に、また例の女のため息が、僕の耳元で聞こえるのではないだろうか。

 僕の頭の中ではなぜか、その女は母ではない、見知らぬ誰かになっていた。そいつはたった今、暗闇の中で僕の顔に顔を近づけ、目を見開いて、こちらをじっと見つめているのかもしれない。

 僕は膝の上でこぶしを握り、叫びだしたくなるのをこらえた。

 あと何秒あるのだろうか……いよいよ耐えられないと思ったとき、ピピピ……と電子音が鳴った。

 タッチ式のライトがひとつ、ポンと明るく灯った。

「お疲れ様でしたー!」

 三浦の声がした。急に部屋全体が明るくなった。誰かが電灯のスイッチを入れたのだ。目がくらくらしたが、僕は深い安堵を覚えていた。

 きっと闇の中には何もいなかったのだ。母も、見知らぬ誰かも。

「いやー! 皆さんお疲れです! 最高でした!」

 三浦が明るく言って、アンケート用紙と筆記用具を配り始めた。

 皆がざわざわと言葉を交わし始める。和気あいあいとした会話と笑い声、緊張から解放された笑顔が離れに満ちていった。

 井上がポケットからICレコーダーを取り出し、録音を停止した。

「しっかし、オバケ出なかったすね! うーん残念!」

 あっけらかんとした声で言う。すると、小泉さんがそれに応えるように声をかけた。

「あのー、気のせいかもしれないんだけど。私、途中で誰かに何度か腕を引っ張られたんだけど……」

「私も!」と赤池さん。「肩をポンポンって叩かれたの。誰もそんなことしてないよね?」

 僕たちは目を交わしあった。井上は人間離れした笑みを浮かべ、再びICレコーダーの録音ボタンを押した。

「俺も実はその……」遠藤さんが、僕の後ろの障子を指さした。

「そこの障子の向こうを通り過ぎる影が見えたんだよね。障子の向こうは真っ暗なはずだから、誰かの影が映るのはおかしいと思うんだけど……」

「お、俺も妙にトイレの方が気になって」と加藤が手を挙げた。

「時々、ドアが少しだけ開いてるように見えてて……」

「あっ、俺もそれありました! トイレのドア、ちゃんと閉まってたはずなんですけど」

 我妻が加藤に加勢した。僕も「実は……」と口を開きかけたその時、突然バン! という物凄い音がした。

 振り返ると、閉まっていたはずのトイレのドアが全開になっていた。

 誰も彼も、話している途中の表情はそのままにトイレの方を向き、凍り付いたように動きを止めていた。

 三浦がいち早く動いた。トイレに駆け寄って、中を改める。

「誰もいない……」

 そのとき僕は、とっさに右を見た。父と目が合った。

 ひび割れたような声で父は、

「母さんじゃなかったな。

 うん、母さんじゃなかった」

 と繰り返し呟いていた。


 こうして、百物語の会は終わった。


「でもさぁ、井上のICレコーダーにも、我妻に撮らせた写真にも、何にも記録されてなかったんだよな」

 夏休みの終盤、呼び出された三浦のアパートで、僕はそんな報告を受けた。三浦の隣では、井上がだいぶ伸びた坊主頭をうんうん頷かせている。

「あのとき、何にも見たり聞いたりしてないの、俺だけっすよ! いや、トイレのドアが開いたのだけは見ましたけど」

 井上は不平を訴えた。彼は怪異を愛してはいるが、それらをキャッチするセンスには恵まれていないようだった。

「お前、お化けへの愛が重くてうっとうしいんじゃない? だからお前の前には出てこなかったのと違うか?」

「それ猫に嫌われる理屈と同じじゃないすか! 勘弁してくださいよ~」

「でもよ、わかりやすい怪奇現象が起こったのって、結局深沢んちでやった会だけだったな」

 あとはイマイチだな、と三浦が溜息混じりに呟いた。結局あの後、三浦は夏休み中に3回も百物語を企画・実行したのだという。この行動力には僕も恐れ入った。

「同じ方法でやったはずなんだけどなぁ。深沢んち、場所がよかったのかな」

「また深沢さんちの離れ、貸してくださいよ!」

「冗談じゃないよ」

 僕は両手を振って断った。どっちみち、怪異が起きたのは僕の家のせいではない気がするし……。

 実は、皆に内緒にしていることがひとつある。「百物語の最中にトイレの窓を開けた」ということだ。

 あの夜の後、しばらくしてふと思い出したのだ。三浦は百物語を始める前、冗談ぽくはあったが、「入ってくるお化けがいないように玄関や窓は閉めた」と言った。

 遠藤さんが障子を気にしたのは前半、つまり僕がトイレの窓を開ける前だ。そして後半、加藤や我妻はトイレを気にしていた。

 もしも、離れの周りをうろついていた何かが、トイレの窓からするりと入り込んだのだとしたら、怪奇現象が起きたのは僕のせいということになる。もちろんそれは、僕の思い過ごしという可能性もあるのだが……。

「正直グダグダになっちゃった回もあったからなぁ。もう一回やりてーわ」

「夏休み終わっちゃうだろ、それ」

 笑いながら、僕は(やっぱり秘密にしておこう)と思った。百物語のルールを破ったことがばれたら三浦に叱られそうだし、そうでなかったら「再度検証するから、次はお前も参加しろ」と言われる気がする。

 僕はああいうことは、一度やれば十分だ。


 最後に、僕には気になっていることがひとつある。

 あの夜、何をもって「母さんじゃなかった」と断言するに至ったのか、父は今でも教えてくれないのだ。

 僕は未だにあの夜のことを思い出すと、知りたくてたまらなくなる。父はあのとき、何を見聞きしていたのか……。

 ともかく、僕の話はこれでおしまいだ。よければあなたの部屋の明かりを、1分間消してみてほしい。

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へたれ怪談 第100話 百物語の会 尾八原ジュージ @zi-yon

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