真っ赤なトマト

小鳥 薊

やってやった。

『やってやった。』


 それは、八月の最終水曜日、夜の八時きっかりに送られてきた友人ハナコのメールだった。

 私は、寝室にある充電器にケータイを差したまま、同棲中の彼氏との休日をのんびりと過ごしている最中で、実際にハナコのメールを開いたのは九時頃だった。だからハナコの身に置きた事件から既に一時間も経過していたことになる。


 ハナコは、私の高校時代の親友で、今でもたまに食事に行ったりする仲だ。最近、ずっと付き合っていた彼氏とついに破局するとかしないとか、愚痴をこぼして泣いていたハナコ。今は夏休みを利用してスペインへ旅行中と噂で聞いた。


(そういえば、旅行は誰と行ったんだろう……)


 私は、ハナコが極度の寂しがり屋で一人旅などできない質だということを知っていたから、旅行は職場の同僚か、はたまた彼氏と仲直りして行ったんだろうと見込んだ。


 晩食後の珈琲を落とし、カップに注ぐ。それからいつものソファに腰を下ろして、映画を一本見て眠る。それが私たちカップルの休日の過ごし方だ。彼の経営する美容店で勤務する私の休日は水曜日と決まっていた。

 今日の映画は私が選んだホラーサスペンスものだ。その前に、そろそろ充電も終わった頃だろうと寝室にケータイを取りに行った私は、ハナコのメールにすぐに気付いた。その直後、一気に血の気が引いていく感覚を味わいながら彼の元へ走った。


「ねえ、ちょっとちょっと! これ見て!」

 貼付されていた写真を彼に見せる。

「え……なにコレ!」

「ヤバくない?」

「これ、本物か?」

「わかんないよ、でもハナコのメッセージに『やってやった。』って書いてる」

「待て待て、まず落ち着こう」

「ハナコ、今スペインにいるはずなんだよね」

「え、じゃあ後ろの景色ってスペインか」

 スペインは日本と八時間の時差があり、今はお昼だ。確かに、メールに貼付されている写真は、眩しい太陽光に焦がされたようなハナコの彼氏のものだった。

 私はこの写真を一目見て、「あ、旅行は彼氏と行ったんだね、じゃあ仲直りしたんだ良かった良かった」とはならなかった。だって、そこに写っていた彼氏さんは、全身が血だらけで、目を瞑りもたれ掛かっている後ろの石垣も真っ赤で、血の海もできている……白昼堂々の地獄絵みたいだったから。

「まずさ、メッセージ送ってみたら?」

「う、うん、そうだね」

 私は、震える手でハナコへ短いメッセージを送った。そのメッセージはすぐに既読マークがつき、返信も来た。


『ハナコ、これって彼氏の松野くんだよね?』

『そうだよ^^』

『やってやったって、どういう意味?』

『そういう意味だよ。このためにスペインまで来たんだもの』

『松野くんは無事なの?』

『今も私のそばにいるよ。私、ちょっとやり過ぎちゃったみたい』

『やり過ぎたも何も、一体何をしたの? 何があったの?』

『マツノ、浮気してたんだよ。これで四回目! もう怒りに任せてあんな風にしちゃったよ^^ でもマツノはごめんって受けとめてくれた』


(受けとめてくれたっていうか、こんなにボコボコにしたらさ……もうやり過ぎっていうレベルを超えているよ。どうかしてるよ!)


『警察は?』

『え、警察? なんで?』

『なんでって、そこに死体があるんでしょ』

『死体? マツノは生きているよ』

『まだ息あるの? じゃあ早く病院に連れていって!』

『なんで?』

『なんでじゃないでしょ、ハナコも人生を踏み外さないで、お願いだから』

『そうだね、人生を踏み外さないためにもマツノとはここで終わりにして新しい自分になるって決めたんだ。そのためのお別れ旅行なんだもの』


 ハナコは、どうしてしまったんだろう。私の説得にも、何だか会話が噛み合っていないようだ。


『凶器は、何?』

『トマトだよん。』

(トマト……???)

『トマトって、鈍器?』

『思い切り投げつけると結構痛いもんだわ^^ 私ったら、マツノが許しを請うまでぶつけてやったわ! 最高だった!!』





〜〜〜〜〜〜〜〜



「ハナコ、俺たちもう無理だよ」

「分かってる、それ以上言わないで。あんたの浮気性も治らないでしょ、私はもうこの恋愛に決別するの」

「だからってどうして最後にスペインまで来なくちゃならないんだよ。俺と別れるんならこの旅行に何の意味があるっていうんだ。昨夜だって、することもさせてくれないし、スペインで堂々と浮気でもさせてくれるっていうのかよ」

「あんたって本当最低、クズ! 脳みそが精子でできてるんじゃないの?」

「上手いこと言うな、ハナコ」

「うるせーよ、今日これからここで何が行われるか知ってる?」

「え、トマトを死ぬほど食べられるお祭りなんでしょ?」

「そうね、死ぬほど食べられるわ……」

 その直後、片田舎の賑やかな広場には激しい号砲が鳴り響き、それを皮切りに人々は狂ったように互いにトマトをぶつけ合った。憎き相手、大好きな人、見ず知らずの人……見境なく手当たり次第に――。けれどもハナコの標的はただ一人。目の前のこの男のみである……。

「食らえーー!! クズが!!」

――ベチャ!

「い、痛え、けっこう痛いな。てか、もったいないぞ!」

「もったいないなら死ぬほど食え! てかいっぺん死ね! 食う前に死ね!」 

――ボコ、ベチャベチャ!

「ハナコ、やめろって」

「私はあんたを……死ぬほど好きだったのにぃ……。今日はあんたの死に顔を絶対に写メって帰るって決めたんだから!」

「ハナコ、ハナコーー!」



 ものの一時間で、そのお祭りは終わった。ハナコは、血の海に倒れ込む元カレの無惨な姿をしっかりと目に焼き付けて、そしてこの様を写真におさめることを見事にやってのけた。あたりには、松野と同じ有様の人達で溢れかえっており、それでも狂ったような歓喜で湧いている。この異国の地でハナコも例外ではなく、自分を誰一人知らない人達とともに笑い合い、感情を爆発させ、表現し合った後の達成感はきっとここでしか味わえない未知のものだった。

 楽しかったお祭りはあっという間に終わり、ハナコは今、腹ごしらえに近くのバルへ立ち寄っていた。もちろん、死に損ないの松野も一緒である。松野はしぶとく、トマト弾では死ななかった。けれども、一つ、二つと松野の白いワイシャツが真っ赤に染まる度、不思議とハナコの気持ちが昇華されていくのを、ハナコは感じていた。

 松野はやっぱりいいヤツで、ハナコの突然の襲撃やサプライズの祭りに逆ギレすることもなく、ハナコの復讐を最後まで受けとめ、仕舞いには地元の人達とトマトをぶつけ合って騒いでいた。こういうところが、好きだったんだよなとハナコはしみじみと思った。


「おや、みーちゃんから返事が来た。うふふ、驚いてるみたいだな」

「なになに?」

「あんたの写真、これ送ったの、みーちゃんに」

「えー、俺死んでんじゃん、あっちは日本だ、変な誤解されるぞ」

「そうだねー、」

「そうだねー、っておい」



〜〜〜〜〜〜〜〜



 それはスペイン東部・バレンシア州の、ブニョールという田舎町。

 毎年八月最終週の水曜日に開催される収穫祭「ラ・トマティーナ」は、互いに熟したトマトをぶつけ合う「トマト戦争」とも言える。

 起源ははっきりしていないが、今から七、八十年前、たまたま野菜売りの屋台前で起きた喧嘩でトマトを投げつけ合ったとされており、階級闘争や、政治批判でトマトが投げられた等、諸説ある。

 ラ・トマティーナで使われるトマトの量は百トンに及び、ものの一時間で参加した群衆も町一体もトマトまみれになり、地面には真っ赤な湖ができるほどであるという。

 現在は、全国各地から参加者が集まる盛大なお祭りとして広く一般に知られている。






 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真っ赤なトマト 小鳥 薊 @k_azami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ