第19話 予言の儀

 イトゥス暦一一八六年 冬


 一年近くの闘病生活の末にヴルグラル帝国皇帝メトディオス四世がその生涯を終えたのは、年が明けてひと月ほど経った日の夜も更けた頃だった。

 皇帝崩御の知らせは瞬く間にカルコリスを始め帝国中に行き渡り、やがてひと月もしないうちに諸外国へも知れ渡った。国を挙げての葬儀が行われ、その遺体が皇族専用の霊廟に納められると、カルコリスの街は一か月間喪に服した。そして忌が明けるとすぐさまカハディーンの即位の儀が行われた。御年三十一歳の逞しく見目のよい皇帝の即位は、冬の服喪ですっかり陰鬱になっていたカルコリスの民に、新たな喜びと希望をもたらすこととなったのであった。



 ***



 カルコリス南部の、トゥリエル湾を望む丘の上に鎮座する白亜のイルモニア神殿。冬の青空に美しく照り輝く神殿は、予言と神託の女神イルモニアを祀る神聖なる場所だ。神殿前の広場からは白く輝く階が伸びており、最上段まで昇ると、大木のような柱が立ち並ぶ柱廊が建物をぐるりと取り囲んでいる。

 

 通常の神殿であれば神像が鎮座している礼拝所最奥の祭壇に安置されているのは、イルモニア女神の依り代となる〈イルモニアの鏡〉。その供物台には女神への捧げ物であるミルラの香炉と麻の葉が置かれている。礼拝所と祭壇を仕切る薄衣の帳は全て取り払われ、人の背丈の倍ほどもある大きな〈イルモニアの鏡〉が礼拝所から露になっていた。

 鏡の前では年若く見目のよい巫女が五人、イルモニアの聖樹である麻の葉を捧げ持ちながら優美に舞っている。少女たちの舞を先導するのは、十二弦琴キンダールの旋律と打ち物の音色。空気を震わせるような楽の音が、神殿内に妙なる調べを響かせる。馥郁ふくいくと漂うのは甘いミルラの香り。それは、神殿に集まった人々をまるで神々の住まう天高き宮殿の庭へと誘われたかのように錯覚させた。


 予言と神託の女神、そして運命と縁の神としての一面をも持つイルモニア女神。

 ヴルグラル帝国歴代の皇帝とその一族、そして帝都の民にとっては指針と言ってもよい存在だ。その予言と神託は人々の生活を支え、皇帝の治世を導き、国に繁栄をもたらしてきた。

 代々の皇帝は、即位に際してイルモニア女神から神託を授かるのが古来からの習わしである。この度皇帝の座を得たカハディーンも例外ではない。〈予言の儀〉と称されるその儀式は、雲一つない快晴のこの日、神聖なるイルモニア神殿でしめやかに行われようとしていた。



***



 巫女たちの舞が終わると、中肉中背の丸い顔をした巫女が、幼い見習い二人を伴って現れた。年の頃は三十半ばほど。膝まである栗色の長い髪を左右で娘のように編んで垂らし、その上から金糸の刺繍が施された濃紫のベールを被っている。白い長衣は他の巫女たちと比べても一段と豪華で、その袖口と裾に描かれた金糸の意匠が一際目を引く。

 おそらくこの巫女が、イルモニア神殿の当代巫女長シビラだろう。

 エウリアスは、年嵩の巫女を観察しながらそう見当をつけた。

 巫女は堂々たる態度で皇帝とその一族に礼をしてみせると、二人の見習いを下がらせ大鏡の前に立った。やはり、彼女が巫女長シビラのようだ。〈予言の儀〉は当代の巫女長が執り行うものと古来より決められているのだ。

 ようやく始まった予言の魔術に、神殿内は緊張感と期待に満たされた。礼拝所の最前列ではカハディーンが、その後ろには皇太后、そして付き添いの魔術師や家臣たちが、〈イルモニアの鏡〉に洋々たる未来の予言が映し出されるのを心待ちにしている。一方で、兄の背後に控えるエウリアスの心中は決して穏やかではなかった。


 ――イズメイルは国を滅ぼす存在になるやもしれない。


 ナシードの魔術によって見せられた不穏な予言がちらつく。

 復讐と破壊の女神ネムニス。頭を潰された孔雀の死体。燃え盛る炎。そして、底知れぬ闇と深淵。

 それらの記憶はエウリアスを苛み、焦燥と不安を煽る。


 まさか、あのようなおぞましい予言が事実になろうはずがない。きっとあの時の予言は何かの間違いだったのだ。だがもし、あれと全く同じものが今この〈イルモニアの鏡〉に映し出されたら? そうなればこの場は、兄は――イズメイルは、いったいどうなるのだろう。


 イズメイルは今、皇帝の背後に控えるように静かに佇んでいる。エウリアスはちらりとその姿を窺い見るが、友はまんじりともせずに前を見据えている。

 無意識に握り締められた手に爪が食い込む。毛皮の長靴で包まれているはずの爪先がいやに冷たく感じられた。


 鏡の前に立つシビラの大きく広げられた手が、かつてナシードがやってみせたようにシャロン文字を綴り始めた。

 鏡に神託を下ろす手順自体は、エゼルキウスの邸でナシードが行った予言の魔術とさほど変わらない。違うのは呪文の内容のみ。〈予言の儀〉では女神の神託を乞う特別な呪文を使用するのだという。

 シビラの口から紡ぎ出される古代語の呪文が歌のように神殿内に響き渡り、香の香りと共に礼拝所を満たした。

 ミルラの香りは麻の葉と共に捧げられる予言の女神への供物だ。最高級のその香りが、イルモニア女神への最大の敬意の現れとなるのだ。


 呪文はしばらく続き、そろそろ予言の解が現れるのではないかと思われた矢先のことだった。

 ふと空気が動いたように、エウリアスには感じられた。纏わりつくような甘い香りが一段と強くなる。突如、シビラの呪文を唱える声が止まった。文字を綴る手も硬直したように固まっている。表面が泡立ち始めていた鏡は、熱せられた鉄が急激に冷やされるように、注ぎ込まれた魔力を失ってゆく。

 儀式を見守る大臣や魔術師たちが思いがけぬ事態に困惑し、ざわめき始めた時。シビラがよろめきながら三歩程後ずさりし、身を折り曲げ苦しげに咳き込みながらその場に膝をついた。口元を押さえた手指の間から滴り落ちるのは不吉な赤い血――。


「シビラ様!」


 巫女の一人が悲鳴のような声を上げたのを皮切りに、その場は騒然となった。


 予言の魔術は高度でかつ複雑な魔術だ。その理由は二つの言語を同時に操る複雑な工程にもあったが、それだけではない。予言の魔術は、術者の魔力とそれを注ぎ込む鏡の持つ魔力を調和させなければならない。魔道具としての鏡の魔力が弱ければ、術者の魔力に耐えきれず鏡は破壊され、二度と予言の解を映さない。逆に術者の力が弱く鏡の魔力が強すぎた場合、術者は鏡から受ける魔力で心身を苛まれる。

 この国で最も権威ある神託を司る巫女長が、鏡の魔力に呆気なく敗北した。新たな治世が始まるこの門出の日に起こった不吉な事態に、動揺が波紋のように広がり始めた。


「まさか、イルモニア神殿の巫女長ともあろう方が……」

「シビラ殿が予言の魔術に耐えられぬなど……」

「〈予言の儀〉はどうするのだ? シビラ殿にできぬとあれば他にいったい誰ができる?」


 突然の事態を飲み込めない宮廷魔術師や廷臣たちが、不安げに顔を見合わせながら囁き合う。カハディーンはといえば両手を組み、苛立ちを隠そうともせずに足を踏み鳴らしている。眇められたその目は、祭壇に置かれた鏡の前でのたうち回るシビラに静かに向けられているが、そこに重症を負った巫女への労りの気持ちは見受けられない。あるのは、己の未来を占う儀式をしくじったことに対する激しい怒りと侮蔑だけだ。


「何をしているのです。早くシビラ殿を連れてお行き! イルモニア神殿の巫女長を死なせてはならぬ!」


 痺れを切らした皇太后ポリュメニアが、息子であるカハディーンの傍らで声を張り上げた。新皇帝と皇太后の顔色を窺い、恐る恐るといった様子で進み出てきた三人の若い巫女が、泡のような血を口から溢れさせながら苦悶に呻く巫女長を抱え上げ、奥の部屋へと運び出していった。


 気味の悪いほどに静まり返った〈イルモニアの鏡〉。そして、鏡の前に広がる血痕。それらを見比べながら、エウリアスは信じられない思いでいっぱいだった。

 イルモニア神殿の巫女長と言えば、代々皇帝の予言の儀を執り行い、イルモニア女神の神託を下してきた栄誉ある地位だ。それ故、神殿に集められた娘たちの中から厳正なる試験を経て、その資質を要した人物が選出される。そこに身分や年齢は関係ない。シビラもそうやって選び抜かれた当代の巫女長だったはずだ。それなのに、よりによってカハディーンの〈予言の儀〉でこのような失態を犯すなんて。


 エウリアスが呆然と立ち尽くしていると、その視界の端を白い塊が横切った。我に返って目を向けてみれば、その白い塊は巫女の装束を纏った黒髪の若い娘だった。青ざめた顔の娘は、震えながらカハディーンとポリュメニアの前に平伏する。


「突然のご無礼をお許しくださいませ、我らが皇帝陛下並びに皇太后陛下。わたくしはイルモニア神殿巫女長代理のフリギアにございます。恐れながら申し上げます。このままでは予言の儀の続行はできませぬ。我が神殿にて〈予言の儀〉を執り行うことができるのはシビラ様のみにございます。何卒お許しを……!」


 恐れを押し隠して進み出たであろう娘の言葉に、宮廷からの一行は色めき立った。


「戯けたことを……! このまま中止せよと申すのか? 神殿の外にはすでに民衆が集うておるのだ。予言の儀ができなかったとあれば我らの面目は丸潰れではないか! 何とかせよ!」


 ポリュメニアが怒りに任せて叫んだのを皮切りに拝所内は紛糾する。エウリアスはそれを横目に居並ぶ神殿の巫女たちを見渡した。

 若い者で十代前半くらい。年長になれば三十に近い者もいるだろうか。まだあどけない顔ぶれが目立つが、イルモニア女神に仕える彼女らはいずれも優秀な魔術師でもあるという。


「そなたらの中に儀式を行える者はいないのか? 〈イルモニアの鏡〉を扱える者は?」


 エウリアスが問い掛けると、神殿内の全ての目が一斉に巫女たちに向けられた。哀れな彼女たちは顔を青ざめさせ、年若い少女たちは今にも倒れそうな様子で固まって震えている。「フリギア様……」とすがるように呟いた少女たちを守るように、平伏していた娘が顔を上げ、震える声で言い募った。


「恐れながら……この者たちは〈イルモニアの鏡〉を直接扱うには、あまりにも未熟にございます。〈イルモニアの鏡〉は、シビラ様のお力でようやっと動かすことのできる強力な鏡なのです。彼女たちの実力ではその命すら危ぶまれます……!」

「だがその巫女長が失敗したのだ。お前は巫女長代理なのであろう? ならば今この場で最も力を持つ巫女はお前のはずだ。お前がやるしかあるまい?」


 それまで静観していたカハディーンが顎を擦りながら声を上げた。皇帝の鷹のような鋭い目に射竦められ、フリギアは声にならない悲鳴を上げた。


「そ、それは……ですが、わたくしは……」

「やれ。巫女長が役に立たぬなら、代理のお前がどうにかして〈予言の儀〉を遂行せよ。皇帝の命令だ。従わねば神殿内の全ての巫女の首を刎ねる」


 幼い巫女たちの間から絶望の悲鳴が上がった。女神の依代となる大鏡を見上げ、慄いたように首を振るフリギアの両目からとうとう涙が零れ落ちた。


「どうかそれだけはお許しください……。陛下、どうか、お慈悲を……!」


 巫女長代理とはいえ、よく見れば二十歳になったかならないかの若い娘だ。師である巫女長が目の前で倒れた衝撃も収まらぬうちに、その代理を勤めろなどと命じられたら、怖じ気づくのも無理はない。ましてや、その肩に巫女たち全員の命運が懸かっているともなれば、うら若い娘には酷なことだ。


「陛下――兄上、どうかお考え直しを。鏡を扱える者がいなければ、無理強いをしたところで無駄に巫女たちを死なせるだけです」


 兄の勘気を被る覚悟でエウリアスは口を挟む。罪のない少女たちが無意味に惨殺されることを避けたかったのはもちろんだが、それ以上に、今この場で兄の蛮行を許してしまえば、皇帝とその一族に対する信頼は地に墜ちるに違いないという思いがあった。

 弟の口出しに胡乱げな様子で振り返ったカハディーンは次の瞬間、目にも止まらぬ速さでエウリアスの首に手を伸ばした。


「陛下!」

「お止めください! 弟君にございますぞ!」


 悲鳴とざわめきと、誰のものとも知れぬ叫び声が上がる。エウリアスは兄の手を引き離そうとするが、渾身の力の込められたそれは、びくりともしない。塞がれた気道が死に物狂いで空気を求め、喉からひゅうひゅうという苦しげな音が漏れる。目の前が白く靄かかり、意識が遠のいてゆく。


 ――あの日と同じだ。


 薄れてゆく意識の中で、幼い日の記憶が蘇った。


 あの時と同じだ。己の首を絞める褐色の手。振り乱された赤い髪。そして、歪んだ眼差しの奥に垣間見えた深い悲しみの色。あれは母の――。


 突如、首の圧迫感から解放された。滞っていた血が一気に全身を駆け巡り、エウリアスはふらついて二、三歩ほど下がる。意識を覚醒させるように頭を振り、何が起きたのかよく見ようと目を凝らすと、険しい表情のカハディーンの傍らで、その手首をしっかりと掴み彼に対峙するイズメイルの姿が目に入った。


「イズ……」


 若い魔術師の眼差しは落ち着き払っていて、どこか冷然とした空気を漂わせている。一方のカハディーンは、殺気だった様子でイズメイルを睨みつけていた。両者のただならぬ様子に、エウリアスが口を開こうとした時。


「偉大なる皇帝陛下。どうか、お怒りをお収めくださいませ」


 静かに皇帝を見上げながら、魔術師は優雅にその場に跪いた。

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エメラルドの魔術師 朱鈴 @akrn_lumina

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