3
店の中にチェンバロのクラシックがかかっていた。俺はそれに耳を澄ませながら、ホットコーヒーを口に含んだ。向かいにはスミレが座っている。彼女は俺がする話を、いかにもおかしそうに聞いた。
「変な人だね。おもしろい」
俺が茂吉の話をすると、大抵の人間は面白がった。そして、それはスミレも例外ではなかった。スミレとの会話に困ると、俺は茂吉の話をしたし、スミレもそのことに飽きる様子はなかった。
彼女は都内の女子大学の英文科に通う、良家のお嬢さんだった。大学を出たらすぐに結婚することが決まっていて、今は親にわがままを言って大学に通わせて貰っているのだという。俺の大学のテニスサークルに顔を出していて、そこで知り合った。
スミレは美しい女だった。肌は透き通るように白く、丸く形が整えられた帽子を被っていた。髪型はあご下で切りそろえられたショートヘアで、なめらかな首回りを惜しげもなく晒している。高校時代もテニスをやっていて、全国大会に出たことがあり、テニスの腕前でも男にひけをとらなかった。
そんな彼女に声を掛ける男は多くいたが、彼女はいつも微笑んでかわしていた。俺は彼女のそういう態度をあまり好ましく思っておらず、自分からもあまり近づこうとしなかった。しかし、彼女のほうから俺に声をかけ、たびたび格式高そうな喫茶店に誘われた。俺はむげに断ることもできず、こうして付き合っている。
スミレがウバの紅茶が入ったカップを持ち上げ、中身をすすり上げながら俺に言う。
「いまどき、そこまで絵に描いたような文学青年なんているんだね。会ってみたいな」
きっとスミレの頭の中では、袴を着て金縁の丸眼鏡を掛けた、古風な書生風の男を想像しているんだろう。でも実際はただの不気味な男だ。人から貰ったというサイズの合わない服を着て、鉛筆で黒くなった手外沿をぶらさげ、猫背で歩いている。そう説明しても、スミレは食い下がる。
「ねえ、今度あなたの寮に遊びに行っていい?」
「男子寮だぜ。見るとこなんか何にもない。君からしたらきっと、地獄みたいなもんさ。ゴミ捨て場のほうがいくらか清潔だ」
「そんなこと言わないでよ。私、茂吉さんに会ってみたいの」
スミレは思ったよりも食い下がり、俺はそのことをなぜか面白くないと思う。
「何度も言ったと思うけど、茂吉はぜったい、君が期待している風なんかじゃない」
「そういうことは期待していないの。珍しいものが見てみたい。ジャイアントパンダを見に行くような気分」
「うちは、女の出入りは禁止なんだ。俺が管理人にどやされる」
そう言いながら、俺はあのいかめしい管理人の反応を予想する。男子寮に女が入り込んだら良い顔はしないだろうが、あの管理人はスミレを怒鳴りつけたり、ましてや追い払ったりすることはないと思った。見た目こそいかめしいが、その実は、寮に迷い込んできた野良猫を愛でたり、孫の写真を机に挟んでいたり、という人間らしいところがあった。俺の予想では、おそらくスミレが寮へ茂吉を訪ねてきたところで、管理人はそっけなく追い返したりはしない。それに、おそらくスミレも老人のひとりぐらい、簡単に手玉に取ってみせるだろう。しかし、俺は厳しい管理人を理由にスミレの申し出を撥ね付ける。
「寮長は女が嫌いなんだ。若い頃に戦争も経験した、化石みたいに古風な人だから、寮に女が来たら、真剣持ち出されて切りつけられるかもしれないぜ」
「そうなの? 残念だな……」
スミレは眉を下げ、市松模様をした真四角のクッキーをかじる。俺は観念したらしいスミレの様子を見て安心した。茂吉をスミレに会わせることが、良いことに繋がると思えなかったからだ。
それから一週間後のことだった。
木曜日の夕方、スミレが寮にやってきた。寮の連中がざわめきながら、俺を呼びにやってきた。
「お前の知り合いだっていう女が、呼んでるぞ」
呼びに来た同級生はいやに浮き足立っていた。あんな美人どこで知り合ったんだよ、とやたらと小突いてくる。俺は深いため息をついてイヤフォンを耳から抜いて、玄関へ出向く。
「きちゃった」
スミレはサークルで顔を合わせるときよりも、ずっとしっかりした格好でやってきた。うす紫色の丸い帽子に、ハイウエストで切り替えがある白いブラウス。それに、黄色いロングスカートを合わせていた。いかにも、品のよさそうなお嬢さんという感じがした。こいつ、テニスになると、短いミニを翻らせて、おっかねえ球を打ち返してくるんだぜ、なんて言っても寮のやつらは信じないだろう。
「ホントに来たんだな」
「来たい、って言ったじゃない。それに、あなたが言うほどこの寮はひどいところでもない。少なくともゴミ捨て場よりはきれいだと思う」
スミレは右手に蔓で編まれた大きな籠を提げていた。中に明るい茶色をした紙袋が入っている。籠の中は空いていて、もうひとつぶんくらい同じ紙袋が入りそうに見えた。俺が籠についてきくと、気になる? と微笑んだ。
「管理人さんにご挨拶をしたの。焼きたての干しぶどう入りパン。干しぶどうを好まないかと思ってたけど、すごく喜んでもらえた」
どうやらスミレはここへやってきてすぐ、管理人室に向かい、あの老人に挨拶をしたらしい。こちら手土産です、と暖かな焼きたての干しぶどう入りパンを差し出したんだろう。厳格そうな年寄りに怯むことなく、手管にするすべを知っている。
「ねえ、それで、茂吉さんはどこ?」
スミレの言葉に、俺はおおげさにため息をついた。うかつに茂吉のことをべらべらこの女に話すんじゃなかった、と後悔をする。しかしスミレは、俺の無碍な態度に怯むことなく、にこにこして、俺が茂吉を連れてくるまで、ここで待っているようだった。
「……すこし待っててくれ」
俺はヤジをとばしてくる同級生の声をかき分けながら、自室に戻り、茂吉を呼ぶ。茂吉は外の騒ぎを気にせず、いつもと変わらず、背中を丸めて机に向かい、小説を書いている。その背中に三度声を掛けても反応がなかったが、女がお前に用事があるってよ、と言うと、数秒鉛筆を止めた後でぐるりと振り向いた。
「おんな?」
まるで初めてその単語を知ったみたいに俺の言葉を繰り返す。
「おんなが、おれに?」
「ど、ど、どうも。こんにちは」
茂吉はスミレに呼ばれて外に出て、スミレと相まみえると、面白いぐらいに緊張していた。病気みたいに手がぶるぶるぶるぶる震えていて、ろくにスミレと目を合わせようとしない。
「茂吉さんですか? はじめまして」
スミレは罪作りなほどのしおらしい笑顔で茂吉に笑いかける。茂吉はそのことで、さらに泡を食って慌てだした。茂吉が返事に言いよどんでいると、スミレはにこにこしてこう続けた。
「淳一さんから聞きました。いつも小説を書いているって……」
「あ、あ、あ、そうなんです、おれは、それしかできなくて」
ははは……と茂吉が乾いた声をあげると同時に、前髪の奥から俺をうらみがましそうに睨めつけてきて、俺は目をそらした。スミレと茂吉はその後しばらくスミレが一方的に話しかける形で談笑し、それから俺に借りていたドイツ語の辞書を返して去って行った。どうせ辞書なんて口実に過ぎないんだろう。
スミレは去り際に、茂吉に紙袋を渡した。中には管理人に渡したものと同じ、手作りの干しぶどう入りパンが五つ入っているという。
「もし、干しぶどうが苦手だったらごめんなさい」
スミレがそう言って、茂吉にささやかに微笑む。茂吉はもげるかと思うくらい、首を横に強く振った。その様子は哀れなものさえ感じた。あの様子だったら、パンの中に干しぶどうじゃなくてカナブンが入っていても、茂吉は喜んで食べたんじゃないかと思う。
その夜、俺は茂吉と、いつもの書き物机に隣合って座り、スミレからもらったパンを分け合って食べた。手作りパンのできは期待していなかったが、予想外なほど上等なものだった。甘みも丁度良く、干しぶどうも多すぎず、バランスよく配合されていた。芳醇なバターの風味が食欲を刺激する。俺は内心でパンの出来に舌を巻きながら、茂吉の様子を観察した。
茂吉は呆けた様子でパンを手にすると、おそるおそる一口だけかじり、それから大きく二口目を食べた。うまい、とつぶやき、ひとつめのパンを頬にぎちぎちと詰め込んでいく。
「い、いい匂いだな」
茂吉は鼻息荒くそう呟くと、一つ目を咀嚼しきらないまま二つ目を手に取った。
「さすがだな、すみれさんは。こんなにうまいパンが焼けるのか」
「そうか? たかがパンだろ」
「そんなことはない。おれはここまでうまいパンは初めてたべた」
俺が茂吉の食いぶりを観察していると、三個目に手を伸ばし、何事かをうめきながらパンを頬張っていた。その様子が戦後の子どもを思わせるほど鬼気迫ったものだったので、俺は自分の分だったはずのパンをひとつ茂吉に譲った。茂吉は、いいのか、本当にいいのかと四回確認を重ねた後で、四個目のパンをふたつに裂いたあとで、大切そうに咀嚼していた。俺は油分の染みた紙袋で指先を拭きながら、そんな茂吉の様子を眺めた。スミレの訪問は釈然としなかったが、茂吉の慌てようを見られたからいいか、と俺は鼻からため息をついた。
その後から、だんだん茂吉の様子がおかしくなっていった。
まず、書き物をする頻度が目に見えて減った。石版を刻んでいるのかを思うような強い鉛筆の音はぴたりと止み、代わりに小鳥がコツコツと細やかにステップを踏むような音になった。それは茂吉が書きあぐね、鉛筆の尻で机のふちを叩く音だ。そんな音は今までに聞いたことがなかった。
そして、とうとう机に向き合うことをやめ、鉛筆を放り投げてしまうと、茂吉は窓を見上げるようになった。部屋の狭い窓からは狭い空しか見えないが、その空をぼうっと眺め続けるのだ。ときおり思い出したように鉛筆を手に取るが、すぐに手を離してしまう。
物音にもやけに敏感になった。以前は誰が来ても、声をかけても無反応だったのに、今は些細な床の軋みさえ感知して振り返るようになった。
いつだったか、些細な出来事で俺が茂吉を呼んだことがあった。俺が酒盛りを提案すると、分かりやすくがっかりした表情を見せた。そんな茂吉の様子に、俺は茶々を入れる。
「悪いな、スミレじゃなくて」
「そんなことはない」
茂吉は慌てて首を振る。
「そんなことはない、おれはジュンイチから呼ばれても、おなじくらいうれしいんだ」
ある日のことだった。いつも通り、俺はベッドの下段で音楽を聴いていて、茂吉はがりがり書き物をしていた。しかし、突然その音がぴたっと止まる。俺が不気味に思ってベッドから顔を出すと、茂吉が椅子にかけたまま、じっと俺を見ていた。
「どうした?」
その物言いたげな視線がうっとうしくて、俺は投げやりに茂吉に声を掛ける。茂吉は逡巡を見せた後、こんな質問をした。
「すみれさんと、ジュンイチは、その、いわゆる……」
「どうしたんだよ」
「いわゆる、男女の交わりにあるというのか」
そう口にする茂吉の目は、はっきりと動揺していた。白目の中の黒目がせわしなく揺れていて、神経症を煩った哲学者みたいに見える。
「男女の交わり?」
俺が面白がって聞き返すと、茂吉はさらに傷ついたような顔をした。
「つまり、その、お付き合いをしているのか、という……」
俺はその顔を見て、かつての茂吉がもういないことを悟った。目の前にいるのは、年頃の女にすっかり参ってしまった、取るに足りない男だった。
「してないよ」
俺がそう言うと、茂吉は目を泳がせるのをやめ、緊張を緩めた表情をした。
「それならべつに、いいんだ」
そう言ってきびすを返したその背中に、俺は続けて声を掛ける。
「俺とは何もないが、スミレに交際相手がいるのかは知らないな」
俺は嘘をついた。スミレは許嫁がいる身だ、ということを敢えて伏せた。そのほうが、もっと面白い物を見られるような気がしたからだ。俺のもくろみ通り、茂吉はもう一度俺を振り返り、その眉根を寄せて困惑した表情を見せた。
「それは……」
「もしかしたら、スミレには恋人がいるかもしれない。でも、男がいても全然不思議じゃない。あれだけの別嬪だ。とうに誰かに貰われていても、おかしくないだろ」
「そうか……」
茂吉はあからさまにがっくりと肩を落とし、犬みたいに耳のあたりをかきむしった。俺はその様子が面白くて、ひとつ提案をした。
「差し出がましいかもしれないが、もしよかったら、そのへん、今度スミレに聞いてみようか? もしかしたら、もっとお前を落胆させるような結果になるかもしれないが」
茂吉は俺の言葉に顔を上げ、しかし、すぐにその顔色を曇らせた。
「いや、しかし、でも、おれはべつにすみれさんとお付き合いをしたいわけじゃないんだ」
「すぐに付き合うだ、惚れた腫れただ、そんなのはいいじゃないか」
俺はにやつく顔を隠すことができないまま、茂吉に諭す。
「あくまで参考にするだけだ。南国の海辺の天気を調べても、別に誰も咎めはしないだろ? それに俺は別にスミレのことをなんとも思ってないから、そんなことスミレに聞くぐらいわけないさ。スミレのほうだって、そんなこと俺に聞かれたところで、悪く思いやしないだろうし。それに、そんなにスミレが好きだって言うなら、お前との仲を取りもってやってもいいぞ。デートをセッティングしてやれるかもしれない」
茂吉から、ひゅっと小さく息を飲み込む音が聞こえた。
「ほんとうか?」
茂吉はしきりに瞬きを繰り返した。そのあとで、途端に態度がしおらしくなり、うろたえ出す。下唇を指でつまみ、ぽらんぽらんと弄ぶ。
「いや、でも、それは……」
「だからさ、あんまり難しく考えるなって」
俺は自分が浮かべられる中でもっとも穏やかな種類の笑みを自分の顔に作った。
「それぐらいわけないさ。俺からしたら、蛇口を捻って水を飲む手間と変わらない」
それから二ヶ月後、十二月初旬のころだった。茂吉がスミレさんからデートに誘われたと、子どものように浮かれていた。街にある百貨店の前で待ち合わせをして、それからディナーを一緒に摂ることになったそうだ。
茂吉のはしゃぎようは生半可なものではなかった。もう少し落ち着いたらどうだと言いたくなるぐらい、そわそわして浮かれていた。浮かれきっていた。剥き出しの裸足が、床から数センチ浮かんで見えたほどだ。
「よかったな」
俺は浮かれる茂吉を眺めながらロックグラスの酒を口に含む。茂吉は俺が差し出したロックグラスに口もつけず、椅子に座ったまま青白い裸足を落ち着きなくぶらつかせ、すりあわせていた。
「デートって、何着ていったらいいんだろうか」
茂吉のはしゃぎようは、少年のそれを思わせた。もうすぐ成人を迎えるというのに、頬を上気させていた。俺はそんな茂吉の様子を微笑ましくも思ったし、すこし残念にも思った。俺は茂吉がストイックに小説に向き合う姿が好きなのだ。それが今は女ひとりに狂わされ、なにもかも放り出している。茂吉は小さな衣装ケースやきたない鞄をひっくりかえし、持っている服の検分を始めた。ひとつひとつ手に取ってはあれやこれや言っているが、どれも見窄らしい布きれにすぎない。俺は茂吉を気遣い、助言をする。
「スーツなんかいいんじゃないか? 男の勝負服だ。かっこよく決まるだろ」
「スーツ? スーツか。黒いやつか?」
「べつに白色でもいいんじゃないか? お前が着ていきたいなら、そうするべきだ」
「白は恥ずかしいだろ。なんだか、目立つし……」
黒も恥ずかしいだろ、と俺は思う。しかし面白い方向に転がりそうなので、そのまま話を合わせる。
「どうせスーツ持ってないんだろ? 入学式で着たスーツ、貸してやろうか」
「いいのか?」
「ああ。同室のよしみだ。もともと俺の兄貴からの借りものだけど、それでよければ着ていってくれ」
デート当日、茂吉は俺が貸したダークグレーのスーツを着て、百貨店の前に現れた。手には一〇本の赤いバラを包んだ花束がある。それはとても人目をひいた。百貨店の前にはたくさんのカップルがいて、その片割れが茂吉にヤジを飛ばしていた。
「お兄さん、これからプロポーズ?」
茂吉は憐れな様子で、無神経なヤジに首を振る。俺が貸したスーツは茂吉にとっては丈が短く、寒空のしたで手首と足首を剥き出しにしていた。外套も羽織らず、首巻きもつけていないその姿は、見ているだけでも凍えそうだった。茂吉は衆目を集めながら、不格好なスーツを着て、背中を丸めたままバラの花束を手にして立ち尽くしていた。
ところが、肝心のスミレは待ち合わせ時刻になっても現れなかった。五分の遅刻だろう、と思ったが、それが一〇分になった。それが一五分になった。それが三〇分になった。それが一時間になり、二時間になった。
百貨店の前に立ち続ける茂吉は警備員に不審がられ、声をかけられていた。茂吉はかわいそうなほど怯え、警棒で脅してくる雇われ警備員にあくせくと言い訳をしているようだった。そして、その様子を見て周囲が笑っている。デート当日におかしな格好をして女に待ちぼうけを食らわされた哀れな男。そんな風に茂吉は羞恥の目線に晒されていた。
どうして俺がそれを知っていたのか?
俺はそのとき、茂吉を見下ろせる場所に窓がある、ファミリーレストランにいたからだ。うろたえる茂吉の様子を、スミレと一緒に鑑賞していた。
「やだ、恥ずかしい」
自らのせいで気の毒な目に遭っている茂吉を見て、スミレは愉快そうに笑った。
「あんな格好の人の隣を歩くなんて、絶対にイヤ」
「でもアイツ、俺が言ったとおりの格好したんだぜ、君に気に入られるためにさ」
俺はスミレが食べ残したグラタンをつついた。グラタンはもうすっかり冷めて、表面に油が浮いている。スミレは白い指先で唇についた油脂を拭い、手拭きをつまんでぬぐっている。その仕草は悪女そのものだ。
「それならもっとマシなかっこうさせてよ。あなたも意地悪な人ね」
「お互い様だろ」
スミレは早く帰りたがったが、俺はスミレを説き伏せ、どうにかこうにか二時間粘った。しかし、それでも茂吉は諦めずに立ち続けた。
もしもファミリーレストランが深夜中営業をしていたら、俺はきっとそのまま茂吉を眺め続けていただろう。俺はうんざりした顔のスミレを引き連れてレストランを出た。
その夜、俺はスミレを抱いた。しけたポップコーンみたいな、味気のないセックスだ。スミレは胸も尻も大きくなく、抱いてもあまり面白いと思えなかった。スミレを抱きながら、俺はもっと肉付きがいい、きゅうくつな女を思い浮かべる。スミレはバックで突き上げているとき、尻を叩くと声を上げて喜んだ。盛り上がりのない、平たくて丸い尻に、手の平がもみじのように跡を残していた。
スミレの嬌声を聞きながら、くだらない女だ、と俺は思う。そしてこうも思うのだ。
こんな女に、茂吉をやらなくてよかった。
シャワーを浴びた後、俺はスミレをホテルに残して寮に帰った。寮は外泊が禁止されているが、それは形骸化されたきまりであり、庭から入って窓をくぐれば夜でも中に入ることができた。俺は隣室の学生に頼んで開けて貰っておいた窓から入り、自室へ戻る。
扉を開けると、茂吉がうつ伏せになって寝ている姿が目に入った。バラの花束も床に散らばっている。花束を床に引きずったのか、バラの花びらが点々と落ち、入り口から倒れた茂吉まで案内しているように見えた。
規則正しく背中が上下しているところを見て、茂吉が深く眠っていることを知る。頬に手の甲を当ててみると、その体はひどく冷えていることが分かる。俺は茂吉の目元に落ちていた赤い花びらを拾いあげ、指先で丸める。
この指先は、さっきまでスミレの生温かい胎内をかき回していた。
それが今は、ちぢこまったバラの花弁をつまんでいる。
茂吉の目元は赤く染まっていた。酔っ払っているようにも見えたが、机の上に濡れたロックグラスは見当たらない。きっと部屋に帰って来るなり、胎児のように丸まり、床で泣いていたんだろう。
茂吉の姿は、哀れそのものだった。冷え切った部屋で、雪で濡れたスーツのまま倒れ込み、しおれたバラの花びらをまとっている、その姿が。
しかし俺はその茂吉の姿こそ美しいと思った。なまめかしい女の尻よりも、醜怪な女性器よりも。壊れやすく触れがたい、そんな美しさだ。
空調の効いた、生暖かいホテルの部屋で俺がスミレの尻を叩き、彼女の胎内をかき回していたとき、こいつは寮の冷たい、固い床に寝転んで泣いていたんだ。
俺は二段ベッドの下段から自分の毛布を引っ張り出し、茂吉にかけてやった。俺は眠る気持ちも起きず、死体のように寝転がる茂吉をずっと見つめていた。
それからまもなくして、茂吉が目を覚ました。うなり声が聞こえた後、額を床にこすりつけ、尺取り虫がのたうつように幾度か寝返りをうった。仰向けになったとき、書き物机に座っている俺に気がつくと、礼を言った。
「かえってきていたのか。毛布借りて、わるかった」
「いいよ、別に。さっき帰ってきたところだ」
俺がお前にしたことのひどさに比べれば、毛布を貸すことくらい何でもない。
気づけば外は朝になろうとしていて、カーテン越しに青みがかった清潔な光が差し込んでいる。その光は俺の体を通り過ぎ、床に転がった茂吉の体を大切なものであるかのように照らした。
しばらくのあいだ沈黙がただよったが、ふと、茂吉が言った。
「……すみれさんは、来なかった」
そうか、と俺は言う。俺は百貨店の入り口で立ち尽くした茂吉の姿を思い出す。その頭には白雪がわずかに積もっていた。ときおり頭に手をやって払っていたが、際限なく降る雪はそのたびに茂吉の頭頂部を白く染め、溶けた雫が毛先を濡らして凍えさせた。スミレはグラタンを覆うシュレッドチーズをスプーンですくい、つまらなそうに口へ運んでいる。俺はスミレの話にあいまいな相づちを打ちながら、茂吉の頭に次々降り積もる雪を眺めている。
「なにか用事が、あったんだろうか」
茂吉の目は焦点が合わないまま、ぼんやりと前を見つめ続けている。泣き出すだろうか、と俺は茂吉をずっと観察していたが、涙を流す様子はなかった。骨の浮きだった首を白く光らせながら、何かを求めるように、何もないところを見つめ続ける。
「それとも、すみれさんは――」
その後に続く言葉はない。茂吉は声も出ない様子で首を横に力なく振った。現実を受け入れられないのだろう。
「お兄さんから借りたスーツを皺にしてすまなかった。あとで洗濯屋に出して、返すよ」
「いいさ、そんなの」
皺のついたスーツなど、茂吉についた傷に比べれば、なんてことはない。俺はそう思って茂吉を責めることはせず、むしろ寛大な心を示した。茂吉は何も知らない様子で、俺に礼を述べる。
「お前は、どこまでもいいやつだな」
「そんなことないさ」
茂吉は無垢に微笑み、その微笑みに俺は心を痛める。
しかし、これでよかったのだ、とも思う。俺はスミレの妖しげなため息や微笑から、茂吉を守ることが出来た。
「おれは、ジュンイチに世話になってばかりだ。いつもありがとう」と茂吉が言った。
「どういたしまして」と俺は言った。
どういたしまして。
クリスマスが終わったあと、部屋は再び鉛筆の立てる音がせわしく響くようになった。茂吉はまた小説を書くようになったのだ。各部屋ひとつずつに支給されたガスストーブを机に近づけて足元を温め、茂吉は夜通し小説を書き続けた。スミレに手ひどくあしらわれたことが堪えたようで、もう茂吉のほうから彼女のことを話題に出すことはなくなった。
大晦日の前日だった。俺が地元に帰省する前、俺と茂吉はガスストーブを囲み、切り餅を焼いていた。茂吉は大根おろしと醤油を搦めた餅を頬張りながら、遠い目をして言った。
「いま思えば、あのときのおれは少しどうかしていたな」
その自嘲的な言葉に、俺はどう返事をしていいかわからず、別の話題を出して言葉を濁した。
「お前もちゃんと地元に帰れよ」
俺が諭すように言うと、茂吉は寂しそうに笑った。
「いいんだ、べつに。どうせ誰も、おれのことは待ってないから」
年明けに茂吉が死んだ。
焼死だった。年始を祝う飲み会で寝たばこによる火災が起き、寮が全焼したのだ。俺は年末年始は地元に帰っていて、火災が起きた日は地元から帰る電車に乗っていたから、寮が全焼したことを寮に着いてから知った。住むところに帰ったら、そっくりなくなっていたんだ。
焼死者は茂吉だけだった。飲み会には参加しなかったが、自室で酒を飲んで泥酔していたため、逃げ遅れたとのことだった。茂吉の遺体は誰か分からなくなるぐらい焼けていたらしい。あまりにも意味がない死に方だった。誰にも省みられることのない、くだらない死に方だ。
そんな風に、寮と一緒に茂吉は死んだ。焼け死んだ。当時は俺なりに衝撃を受けて、しばらくまともに物が食べられなかった。
もしかしたら、あいつは死にたがっていたんじゃないのか? どうして死にたがっていたんだ? 死にたがる原因があるとすれば、それはやはりスミレのことじゃないのか? もしかして、あの日、レストランから茂吉を眺めていたことがばれていた? でも、茂吉とはいちども目が合うことがなかったし、レストランは外側から見えないよう窓は暗くスモークされ、うすいブラインドも掛けていた。気づかれることはないはずだった。
茂吉が死んだことについて、寮生は誰も悲しんでいる様子はなかった。それよりも、寮に置いてあったものがすべて焼けてしまったことを嘆くものや、これからの住まいの確保について心を砕いていたのだ。茂吉の死についても、火葬が省けたじゃないか、と笑うものさえいた。
もう誰も茂吉のことを覚えていない。
俺はそのことが悲しかった。俺が茂吉の話題を出して見ても、みなが一笑に付して終わるのだ。そこから話題は続いていかない。いつも小説を書いていた変人。酒を飲んで逃げ遅れた愚かな男。死んだ人間は、こうも簡単に忘れ去られていくのかと、俺はひどく寂しい気持ちになった。
いまや茂吉の存在を証明するのは、茂吉が書いた小説だけになった。俺は帰省する前に、汽車の中で読んでくれと、一編の小説を茂吉に渡されていた。それは俺の鞄の底で、遺体のように静かに横たわっていた。荷物に潰されて少し皺になっていたが、読むことはできた。
もちろん、俺は茂吉の書いた小説なんて、中身はよくわからない。使われてる語彙も俺の中にないものばかりで、何度読んでも頭の中に入ってこない。俺には意味のない文字の羅列にしか思えない。それでも俺は、振られたノンブル通りに揃えて原稿用紙に清書し、その年の春、ある文芸誌に投稿した。そうすることで茂吉の弔いになると思ったからだ。
しかし、投稿するときに死んだ人間の名前を使うわけにはいかない。だから、俺の名前を使った。
つまり、茂吉が書いた小説を、俺が書いたことにして投稿したんだ。
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