花祭りを祝う

風乃あむり

花祭りを祝う


 キッチンをうめつくす花に唖然とした。


「しまった、作りすぎた」


 独り言がこぼれておちた先には薄紅の花びら。本物の花弁ではない、造花でもない、私がアイシングで作った桜の花のクッキーだ。大して広くもない我が家のキッチンに、一面の春が広がっている。


 そもそもクッキーを焼きすぎたのだ。料理をするのもお菓子作りも大好きだけど、作りすぎたり物足りなかったり。正しく必要な分だけ作るのは苦手だ。


 でも、ずいぶん上手くできたな。白にほんの少しのべにを混ぜて、ずいぶんつつましやかで清楚な桜になったものだ。

 三十を過ぎた女が作るものとして恥ずかしくない程度の可愛らしさ。きっと彼も喜んでくれる、そう思えばつい頬がゆるむ。


『おはようございます。四月八日水曜日、グッドブランチショーのお時間です。今日のゲストは……』


 リビングのテレビからアナウンサーのにこやかな声がきこえる。平日の十時。会社勤めの人間ならこんな時間にテレビの前にはいないから、想定されている視聴者は家にいる主婦なのだろう。本日のトピックも、“タピオカに代わる新たなスイーツ”や、“スーパーでの迷惑行為に物申す”など、政治とも経済とも慎重に距離をとったやわらかい話題が多い。


 今日が花祭りだということも語られない。


 早起きして焼いたクッキーは、花祭りを彼と祝うためのものだ。本当はケーキを焼きたいのだけど、二人きりでは食べ切れないから焼菓子で我慢している。


 さて、次はグリルチキンの下ごしらえにとりかかろう。鳥もも肉に下味をつけて、まわりに散らす野菜を切る。パプリカ、人参、玉ねぎ、ズッキーニ。ビタミンカラーの、元気が出るごちそうだ。


 オリーブとタコのアヒージョ、バケット、チーズの盛り合わせ、今日のために奮発して買ったフランス産の赤ワイン。


 彼と私の好物ばかりをテーブルに並べて、今年も最高の花祭りになるはずだ。


 こんな風に今日を祝う恋人たちは、私たちのほかにもいるのだろうか?


 花祭りはお釈迦様の誕生日。本来は誕生仏に甘茶を捧げて、その生誕に感謝するそうだ。


 仏教徒が多いはずの日本で、どういうわけかおろそかにされている仏様の生誕祭。イエス=キリストの誕生日は競い合うように街を光で飾り立てるのに、四月八日は特に意識もされず、人々の日常にうもれている。


 でも私にとっての聖夜は、この花祭りの夜なのだ。


 ピコン。スマホの画面に彼の愛称がするりと浮かんだ。彼からのメッセージだ。


『おはよう。久しぶりに会うの楽しみにしてる。仕事はなるべくはやく切り上げるから』


 彼の少しかすれた声が耳たぶをくすぐっていった気がする。


 あぁ、はやく会いたいな。もう半月ほど顔を見ていない。

 あなたの匂いに顔をうずめたい。大好きだよってささやかれ、甘い力で抱き寄せられたい。会えなかった分の寂しさを、あなたのぬくもりで満たしてほしい。


 今日だけは、奥さんのことも子どものことも忘れて、私のことだけを見つめてほしい。


 お正月も、バレンタインも、あなたの誕生日も、クリスマスも、一緒に過ごしたいだなんて贅沢は言わないから。誰もが見過ごすこの花祭りの日ぐらいは、あなたの全部を味わっていたい。


 五年前の春に出会い、同僚として親しくなって、すとんと穴にはまるように恋に落ちて。


 あなたという名の奔流に呑まれ、呼吸もままならぬほどに好きで、好きで、好きで。


 結婚していることは知っていた。子どもがいることも。

 知っていてなお、こんなにも彼を求めてしまう自分は、もう私自身の手にあまる存在だった。


 一人で暮らすマンションのキッチンに、クッキーの桜が咲き誇る。正しく必要な分だけ作ることができず、あふれてこぼれ落ちそうになった桜が。


 その滑稽な美しさは、私の生き方そのものだ。


 それでも、この花祭りを一年で一番の日にしようと、今年も私はキッチンで無心に腕をふるうのだ。

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