夏の終わりのマーメイド

桜々中雪生

夏の終わりのマーメイド

 お盆が過ぎた頃。夕暮れは影を長く伸ばして、僕の姿を掻き消そうとする。日暮れまでもう少し時間があるはずなのに、僕以外には誰も歩いていなかった。しぃんと静まり返った見慣れた道は、またこの季節が来たことを僕に教えてくれる。うううーんと帰る時間を告げるサイレンが鳴る。間延びした音が響く。余韻も空に吸い込まれる頃には、向かう先がざわざわ蠢いていた。影の向きが変わる。風が朱色に香る。地平線が燃える。姿の見えない喧騒が、彼らの訪れを知らせてくる。長い階段を登った先には、どんどんぱらりと祭り囃子が鳴り、たくさんひしめき合っていた。

「よお、ぼん。やっぱり今年も来たなあ」

 大きな塊の中からひとり、片手をあげてのしのしと僕のところへやって来た。よく来たな、と言いながら、僕の頭をがしがし大雑把に撫でる。下からにょっきり生えた大きな牙には、何の肉だか判らない塊が刺さっている。

「これ、食うか」

 そう言って僕を撫でた手とは反対の手に落ちそうなぐらい抱えていた出店の食べ物を幾つか渡してきた。あっという間に僕の腕の中もいっぱいになる。

「閻魔のおじちゃん、これじゃ僕、食べられないよ」

「おお、それもそうだな、悪い悪い。おーい」

 その一声でわらわらと小さな餓鬼たちが僕のまわりに集まってきて、少しずつ、自分達の取り分にしていった。

「今年も賑やかだね」

 本当に賑やかだ。お盆に里帰りする幽霊たちのせわしなさが過ぎ去ったあとに、一仕事終えた地獄の妖怪や、こっちの世界に住んでいる妖怪たちが、狭間の空間の神社に集まって祭りをする。それは、僕たちがやっている、もはや騒ぐためだけの祭りではなくて、祭りを、そこにある空間を、大切にしていた。世間では恐ろしいと思われがちな妖も、皆一様に楽しげな、柔らかい顔をしている。黄昏時に偶然迷い込んでしまった僕にも優しくしてくれて、出店の見たことない食べ物をたくさん食べさせてくれた。この時だけだと思っていたのに、皆に会いたくて、毎年、この季節になるとここに来るようになってしまった。僕たちと似ている。だけど、僕たちよりもずっと永い時間を生きて、その時間を過ごしてきた彼らは、僕たちよりももっと深いところで繋がっているように思えて、僕はそれがとても好きだった。



「あれ、お姉さん、初めて見るヒトだ」

 頬張っていた夕暮れ色のわたあめを口の中で融かして飲み込んで、艶のある黒髪を背中に流している女の人に話し掛けた。その人の肩が跳び跳ねて、僕の方がびっくりした。

「……っ」

 怯えているみたいな勢いで僕を振り返る。長い髪が綺麗に円を描いた。少し目線を下げて僕に気づいたその人は、声もなくはくはくと唇を動かすだけだった。

「ごめんね、驚かせて。お姉さんも人間なの?」

 その人は答えない。やっぱりはくはくしているだけだ。どうしたんだろう、と困っていると、足元に海坊主がすり寄ってきて、僕を手招きした。僕はしゃがんで顔を近づける。こんなことしなくたって聞こえたんじゃないかという声量で、海坊主は教えてくれた。

「こいつは人魚だよ。二足で陸に上がると声をなくしちまうのさ」

「でも、それって……」

「西洋と東洋の人魚の血が入ってるのさ。怪異が混ざったんだよ」

「ふうん、そんなこともあるんだね」

「ま、仲良くしてやんな」

 それだけ言うと海坊主は地面をぺたぺた濡らして去っていった。僕は立ち上がって、人魚の女の人に向き直る。

「はじめまして、人魚のお姉さん」

 声の出せないその人は、慌てて頭を下げた。あまりに低く下げるものだから、僕のおでこと勢いよくぶつかった。

「あいたっ!」

「……っ!」

 さーっと顔が青くなって、わたわたと僕のまわりを動く。ごめんなさい、ごめんなさい、と唇が音もなく語っていた。自分だって痛いはずなのに、僕の心配ばかりしていて、ちょっと可笑しかった。

「ふ、ふふふ」

 急に笑い始めた僕に目を白黒させて、動きを止める。頭を打ってどこかねじが飛んでしまったんじゃないかって不安が透けて見える表情だった。

「笑ってごめんね、でも、ぶつけただけなのにそんなに心配してるのが、可笑しくて」

 お姉さんも、痛いんじゃないの? 震える声で訊ねてみると、ようやく額がじんじんと痛み始めたのか、

「~~~~っ! っ!」

 顔を真っ赤にして、おまけに涙目で、額を押さえてうずくまった。

「平気? お姉さん、すごい振りかぶってたもんね」

 笑いが引っ込んでくれない。お腹が痛い。人魚ってもっとお高くとまっているというか、高貴で近寄りがたいものだと思っていたけれど、この人を見る限りそういうわけでもないらしい。初めて会った人魚のヒトに、僕は俄然興味が湧いてきた。たくさん話がしたいと思った。

「人魚の姿に戻れれば声は出るんだよね?」

 よし、海へ行こう! と僕は手を掴んで走り出した。狭間とはいえ、町並みは僕たちのいるところと変わらない。歩いて十分もすれば、僕は浜辺の砂を蹴り上げていた。その人は、膝下のワンピースが濡れることも気にせず、優雅な足取りで一歩ずつ海に足を進める。何も入ってきていないみたいに、水面は滑らかに佇んでいる。腰まで浸かったと思ったそのとき、ぱしゃ……と彼女の右から飛沫が飛んだ。ワンピースが花のように開いて、そこから足、もとい魚のような足元が見えた。

「僕、人魚って初めて会ったの。お姉さん、とてもきれいだね」

「……ありがとう」

 頬を赤らめる様子が、神話みたいでどきりとした。歌うような声にも驚いたけれど、僕たちは陸と海で、もう少しで夕暮れがなくなるという時刻まで話し込んだ。海の中は知らないことだらけで、彼女の話はとてもおもしろかった。時間なんて気にせずに、僕たちはたくさん笑い合った。祭りにいたときよりも、声が出せるようになるとずいぶん表情がはっきりして、とても楽しい人だった。

 それでも時間は残酷で、夜が支配しようと触手を伸ばしてきていた。

 僕、そろそろ帰らないと。名残惜しくそう言うと、彼女も少し眉尻を下げて、

「声を聞きたいって言ってくれてありがとう。たくさん話ができて楽しかったわ」

 お礼に、と僕に何かを握らせてくれた。掌の上にこぢんまりと載ったそれは、鱗のようだった。宝石みたいに輝いていて、すごく綺麗だ。

「友だちにあげるものなの。良かったらもらってくれる?」

「もちろん! 今日、お姉さんに会えてよかったよ。また来年も会おうね。そのときにはこれ、持って行くからね」

 にっこりと微笑んで、夕日と一緒に、あの人は海へと消えていった。貰った鱗は、薄紫に染まる空を反射して、色をきらきらと変える。ころころ変わるお姉さんの表情みたいだな、と笑って、僕はポケットに鱗を握りしめた手を突っ込んだ。

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