第五幕 逃避


 元旦の夜のせいでしょうか。それとも、薄く積もるほど降り出した雪のせいでしょうか。花房はなふさと私の道行きには人が少なく、外套を着込んだ私たちを注視するものはいません。

 

 それでも、何かに急き立てられるように私たちの足は小走りになりました。


 時折、顔の痛みのせいかうずくまる花房を支えます。そのたびに、白い地面に散る血の赤を足で散らしては、また走り出しました。


 私たちの足は、自然出会いの場所へと向かっていました。


 あの藤色の思い出の場所――安井金毘羅宮へ。


 

 安井金比羅宮の参拝客は幸運にも少なく、彼らもただならぬ様子の私たちを見て、蜘蛛の子を散らすように去っていきます。やがて一刻もすると、境内には私と、花房の二人きりとなりました。ただ湿った沈黙と、雪だけが私たちの間に積もっていきました。


「花房」

「……あになに


 耳まで裂けようかと言うほどの傷は、花房の美しい顔を変えてしまっただけではなく、あふれた血が喉を詰まらせ鈴のような声さえも奪ってしまいました。


 それでも、私は彼女とどうしても話したくて、言葉を続けます。


「どうしてこうなっちゃったのかな。なんでだと思う?私たち、なんにもしてなかったよ。なんにもしてなかったのに、今、こんな風になっちゃった」


 ここに初めてきた頃の私は、ただ幼く白い生を生きておりました。花房のおかげで、その白が鮮やかな藤に染まったのに、今はそれが黒い――おそらく憎しみと、血の赤に塗りつぶされてしまいました。


(どうして、どうして)


 花房は、私の問いに沈黙で答えました。おそらく――彼女もその問いに対する答えをもっていなかったのでしょう。


 私は花房にただ請い願うように、祈るように叫ぶしかできませんでした。


「ごめん。ごめんね。藤の花、約束、守れないね。ごめんね」


 頭上の藤棚は、天を仰ぐような枝と、竹の格子組みに雪をわずかにのせるのみでした。あの淡い、重たげな藤の花などちらりとも見えません。それだけではなく、彼女と共にここで見た鈴蘭も、いずれ共に見れるはずだった梅の花も、すべて、私たちの先は無くなってしまったのです。


「ずず」


 花房が、懸命に声を出して私の名を呼びます。


「にげなざい」

「……?」


 言われたことを理解できていない私の腕を掴み、花房は裂けた唇を震わせます。


「ぜんぶ、あだしがやっだことにする。にげなざい」


 花房の目は、こんな中でも彼女が私が憧れた高潔さを、優しさを、失っていないことに気づかせます。その高潔さと優しさが、今の私には残酷でした。


(どうして、一緒に逃げてくれないの?)


 喉の奥に疑問を押しやって、私は花房を見上げました。彼女は背に月光を受けて、相変わらず美しいままでした。


 私は、彼女の唇から垂れる血を顔に受けながら、伝えます。


「ねえ、花房。少しだけ、いいと言うまで目を瞑って」


 数分、いえ数秒だったでしょうか。私は心を整えて、背伸びをしました。女学校の間で伸びた分では、身長は花房には遠く及ばす、そうするしかなかったからです。


 初めてした接吻は、鉄の味がしました。

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