第二幕 御守り


 私の白い生にできた藤色のしみは、その時はそれ以上広がることはありませんでした。ただ、美しく恐ろしい記憶として、私の中に残るだけでした。


 それがより一層濃く、鮮やかに広がったのは、翌年の春のことでした。

 

 私の母と父が、ある日人が変わったようになったのです。屋敷の階下からは毎晩、父と母の別人のような声が漏れ聞こえます。


 私は耳を塞ぎます。布団を被ります。神に祈ります。それでもその声は止まず、毎晩私の耳を刺し貫くのでした。


「あの女――」

「違う――」

「使用人ごときに手を――」


 その時、ふと、忘れかけていたあの藤色の記憶が蘇ったのです。あふれるほどの形代、強すぎる願いを託された絵馬たち、そしてむせ返るような藤の香りと、縄目のあとを首に残したたおやかな女性。


『あんた、十四でこんなところに来るほど苦しいのかい』


 頭の中で、名前も知らない女が問いかけます。重たい洗い髪で、顔は明瞭ではありません。恐怖を覚えてもいいはずなのに、私にはその問いが安らぎでした。


(十五の私は、苦しいみたいです)

 

 唇だけでそう呟けば、ほとびる視界に自分が泣いていることを自覚します。

 

 枕の湿り気だけを供に、私は眠りに落ちました。




 

 再び私が安井金比羅宮を訪れたのは、花冷えとなった四月の終わりでした。

 

 凍えるほどの寒さのせいか、記憶にあるほどの参拝客はおらず、心なしか寂しそうに藤が垂れておりました。冷気の沈殿するなか、かつて恐れを抱いた絵馬たちは、変わらず――いえ、さらに数を増やしてそこにありました。

 

 もうその強すぎる願いの言葉たちを見ても、私の中に恐れは生まれません。

その感情は、願いは、もう未知のものではないのですから。


 今ならわかります。この絵馬たちに願いを込めた人が、どれだけ苦しく、切なく、すがるよすががないのかが。


(祈りとは、信仰とは、そんな苦しみのためにあるのだろう)


 絵馬を頂き筆をとったところで、ざり、と何かを踏むような音がしました。


「あんた、ねえ、また会ったね」

 

 それは藤でした。まごう事無く、藤が人の形をしておりました。

 

 冷えた空気を裂くように、藤紫ふじむらさきのたもとをなびかせ、その女性はこちらに歩いてきました。それが、あの藤色の思い出の中の、洗い髪の女性だと気づくのに、しばしの時間がかかりました。


「あの、お姉さんは」

花房はなふさ

「……?」

「私の名前だよ。花房というんだ」


 私は、とっさに下を向きました。花房があまりに淑やかで、匂い立つような女性だったからでしょうか。私は自分の履き古した履物を、ただ見つめていました。「あんたの名前は?」と問う声に、顔が、耳が火照ります。


「す……すずです……」


 小さく、震えた声は、花房の耳に届いたようでした。すず、すず、と噛みしめるように何度も呟く花房に、小さくなって消えてしまいたいような心地になりました。


(恥ずかしい)

 

 私の内心など知らない花房は、私の頰に触れました。彼女の指先にとっては、私の頰は折れそうな植物で、繊細な細工物でした。それほど優しく触れられたことは、後にも先にも、この時限りでした。


「あんたも、苦しくなっちゃったんだねえ」


 声に、これほどの哀しみと、苦みがにじむことがあるということを、私はその時初めて知りました。そしてその哀しみは私のよく知る感情で、苦みは私のよく知る味でした。


「私」

「うん」

「苦しいのです。私は何もできません。できないことが、たまらなく苦しいのです。願うしかできないんです。だから、だから私は、ここに」


 言葉が、音だけの叫びになり、冷気を震わせます。「できないんです。できないんです」と叫びの合間に繰り返す私に、花房はただ私の涙を拭って応えました。


 そうして、声が枯れ、涙が枯れた頃、花房は何か柔らかいものを私の手に握らせました。潤んだ視界を袖で拭えば、それが御守りだと分かります。白地に金糸で縫い取られた藤は、それが安井金比羅宮の御守りであることを示しています。


「あげる」


 それが、その年に聞いた花房の最後の言葉でした。


 後から思えば、私は幼すぎたのです。


 泣き、叫び、慰められるばかりで――花房が御守りを渡す時に一瞬見えた、鞭でぶたれたような腕の痕について、聞くことすらできなかったのですから。


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