サイドストーリー その4

 子供の頃から、わたしの家にはピアノがあった。お母さんが、嫁入り道具として実家から持ってきたらしい。でも、お母さんがピアノを弾いてるところを見たことはめったにない。だけどわたしはピアノの音が好きだった。高い音、低い音。鍵盤を叩いていろんな音を出すだけでも楽しかった。


 3歳。幼稚園年少組のわたしは川村百合子先生のピアノ教室に通うことになった。友だちの美玖ちゃんも一緒に。別に行きたい、って言ったわけじゃない。でもお父さんもお母さんも、嫌なら辞めてもいい、と言ってくれた。


 教室で、川村先生がピアノの前に座り、両手を鍵盤に置く。そして手を動かし始めると……


 それはまるで、魔法のようだった。


 なんて素敵な音なんだろう。ううん、これはただの音じゃない。「音楽」、っていうものなんだ。


 先生が弾くピアノを聴きながら、わたしはうっとりしてしまった。わたしの家にもあるピアノが、こんなにも気持ちよくなるものだったなんて。わたしも「音楽」やってみたい。心からそう思った。


 もちろん、最初から「音楽」ができるわけじゃない。ピアノを思い通りに弾けるようにならないと。そして、そのためには練習が必要だ。わたしは毎日ピアノに触っていた。確かに触っていれば音は出る。でも、なかなか「音楽」にならない。わたしが出せる音は、教室で先生が弾いたような「音楽」じゃない。


 ただの「音」と「音楽」の違いって、何なんだろう。


 わたしの興味は、そこからスタートした。


---


 川村先生は、まずわたしに「キラキラ星」という曲を教えてくれた。とても簡単で、わたしはすぐにそれを弾けるようになった。嬉しくて、家でもいつも弾いていた。これは「音楽」だ。ただの音じゃない。自分が初めて演奏した「音楽」だった。


 やがて先生は、もっといろいろな曲を教えてくれるようになった。わたしはそれをどんどんマスターしていった。あっという間に弾ける曲のレパートリーが増えていった。ちょっと難しそうな曲も、練習すれば弾けるようになった。


 でも、ピアノの上達は、わたしよりも美玖ちゃんの方が早かった。その頃の美玖ちゃんはわたしよりも体が大きくて、手も大きかった。だからピアノが弾きやすい。美玖ちゃんは楽譜もすぐに読めるようになった。負けていられない。わたしも頑張って、楽譜が読めるようになった。


 そうなると、教わらなくても自分でどんどんいろんな曲が弾けるようになる。わたしは家で美玖ちゃんと一緒にピアノを弾いて遊んだ。とても楽しかった。

 先生の教室で行われる、年に1回の発表会にも毎回参加した。当時の幼児部門の1位、2位はいつもわたしと美玖ちゃんだった。小学校に上がってもそれは変わらなかった。1年の時は美玖ちゃんが1位でわたしが2位。2年の時はわたしが1位で美玖ちゃんが2位。


 そして、3年の時だった。ドレスに着替えていた美玖ちゃんが、バランスを崩して転びかけたのだ。それでも彼女は転ぶ事はなかったけど、その時にドレスを何かに引っかけて、大きく破ってしまった。


「これじゃ発表できないよ……うわあああん!」


 美玖ちゃんは大泣きしていた。でも、まだ時間はある。


「美玖ちゃん、ちょっと待ってて」


 わたしは自分のバッグの中から、裁縫セットを取り出した。こんなことがあっても大丈夫なように、お母さんが持たせてくれたのだ。


 わたしのお母さんは裁縫が得意で、子供の頃のわたしの服はほとんどお母さんが作ったものだった。手縫いも上手いけどミシンもすごく上手に使える。発表会用のドレスだってお母さんのお手製だ。わたしはいつも、すごいなあ、と思いながらお母さんの裁縫を見ていた。


 小学校に上がってすぐ、わたしはお母さんに言って裁縫のやり方を教えてもらった。でも、自分で型紙をつくって布を裁断したり、というところまではさすがに出来なかった。それでも、破れたところを直したりするのは問題なく出来るようになった。


 "ドレスなんて普段着ないものだから、注意が回らなくて引っかけて破けたりすることも多いのよ。私もそれで困ったことがあったから、それ以来ドレスを着るときは、裁縫セットもいつも持ち歩いているの"


 お母さんの言うとおりだった。わたしが破いたわけじゃないけど、裁縫セット持ってきておいて良かった。わたしは美玖ちゃんのドレスの破けたところを縫い合わせた。ただ、ちょっと汚れてるところもあったので、リボンを使ってそれが隠れるようにした。


「すごい……綺麗に直ってる……瑞貴、ありがとう!」


 美玖ちゃんは大喜びだ。そして、彼女は小学校中学年部門で1位となった。わたしは2位だった。


 でも、その次の年。


 発表の3日前。乱暴者の勝君が、学校でわたしに意地悪をしてきたのだ。わたしは彼が嫌いだった。いつもわたしに嫌なことを言ってくる。ブスとか、チビとか。やめてよっていくら言っても、彼は意地悪をやめない。

 そしてその日、彼は、わたしがピアノの練習しなきゃならないから早く帰りたい、って言ってるのに、指相撲しなきゃ帰さない、なんて言って通せんぼしていた。でも、わたしは彼の意図がわかっていた。彼は力が強いから、わたしの指にダメージを与えて、ピアノを弾けないようにするつもりなのだ。


 その時だった。


「まさるー! てめー、何してやがんだー!」


 声がして、いきなり勝君が吹っ飛んだ。


 美玖ちゃんが、彼に跳び蹴りを食らわせたのだ。


「……瑞貴、大丈夫?」


「う、うん……あ、危ない!」


 起き上がった勝君が、美玖ちゃんの顔にパンチを食らわせようと襲いかかってきた。そのパンチは反射的にガードしようとした美玖ちゃんの左手を直撃する。


「!」


 一瞬、美玖ちゃんが顔をしかめる。だけど彼女は右脚で再び勝君を蹴っ飛ばす。美玖ちゃんは体格がいいので、ケンカでは男子顔負けの強さだった。正直、羨ましかった。わたしもこれだけ強ければ、意地悪されたりすることもなかったのに。


「行こ、瑞貴」


 美玖ちゃんに連れられて、わたしは走り出した。


---


 発表会の会場に現れた美玖ちゃんは、左手の小指と薬指に包帯を巻いていた。


「えへへ……ドジっちゃった」


 そう言って、彼女は鼻の頭をかく。


「え……もしかして、ピアノは……無理なの?」


「うん……しばらくはね……」


 ……。


 信じられなかった。美玖ちゃん、「野ばらに」の練習、あんなにやってたのに……


 わたしの目から、涙がどんどん溢れてきた。


「ごめんね……わたしのせいで……」


「泣かないでよ。瑞貴のせいじゃないからさ。私もアイツのこと、ずっと気にくわなかったから、ぶっ飛ばすことが出来てせいせいしてるよ」


「でも……美玖ちゃんが発表会に出られてたら、きっと美玖ちゃんが一番だったのに……」


「そんなことないって。瑞貴もすごく上達してる。私よりもよっぽどミスタッチ少ないじゃない。だから、今回は瑞貴が一番だよ」


 そう言って、美玖ちゃんは朗らかに笑った。


---


 その年の発表会は、美玖ちゃんの言うとおりわたしが1位だった。だけど、全然嬉しくなかった。

 美玖ちゃんの怪我は思ったよりも深刻だった。指が変形して、上手くピアノが弾けなくなってしまったのだ。結局、彼女は教室をやめてしまった。


 わたしのせいだ。わたしはそう思いつめた。ピアノを弾いていても楽しくない、と思ったのは初めてだった。


 ピアノ……やめようかな……


 そう思っていたところに、とどめを刺された。


 美玖ちゃんの友だちの夏美ちゃんと愛菜ちゃんが、わたしに言ってきたのだ。


「美玖、怒ってたよ。瑞貴のせいで、発表会出られなかったって」


「あんたのせいだよ。あんたのせいで、美玖はピアノ辞めなきゃならなくなったんだ」


 ショックだった。美玖ちゃん、笑ってたのに……本当は、怒ってたんだ……


 もう、何も信じられない……


 学校で美玖ちゃんに会ったとき、わたしは彼女に言った。


「怪我させちゃって本当にごめんね。わたしピアノ辞めるから」


「……え?」


 美玖ちゃんは面食らったような顔になった。


「うそ、なんで? 私、本当に全然気にしてないんだよ?」


「ううん。いいの。それじゃ」


---


 その後も美玖ちゃんは何度もわたしに近づいてきたけど、わたしが全く相手をしなかったら、もうそれ以上近づいてくることはなくなった。


 ピアノ教室を辞める、と言ったら、川村先生はとても哀しそうな顔になった。でも、わたしを引き留めるようなことは言わなかった。そして、


「戻って来たくなったら、いつでも戻っていいのよ。待ってるから」


 そう言って、わたしを見送った。


 戻ってくるなんて事、絶対にあるわけない。その時のわたしはそう思っていた。


 だけど。


 家にある、アップライトピアノ。


 気がつけば、わたしはそればかり見てた。


 辛くて、悲しくて、もやもやする気持ちが、わたしの心の中でぐるぐる回っていた。


 ピアノを弾いても楽しくない、って思ってたはずなのに。


 ピアノが弾けないと、それはそれで苦しくなる。


 ピアノを弾いてる時は、何も考えなくていい。


 そうだよね。教室はやめても、ピアノをやめる必要はないんだ。


 わたしは鍵盤カバーを上げ、フェルトを取って、ピアノを弾き始めた。


 ……。


 なんだろう。


 ピアノの音の中に、わたしの心の中の嫌な気持ちが解けていくような……


 わたしは夢中で弾き続けた。


---


 結局、わたしはピアノから離れられなかった。ピアノ教室に戻ると、川村先生は嬉しそうに笑った。


 「あなたはきっと、戻ってくると思ってた。あなたはわたしと同じで、ピアノに魅入られてしまった人間だからね」


 わたしは美玖ちゃんにも話すことにした。


「ごめん。わたし、やっぱりピアノ辞められない」


 美玖ちゃんは笑って言った。


「だから、別にわたしは最初から瑞貴にピアノ辞めてほしい、なんて全然思ってなかったんだって。でも、ごめんね。夏美と愛菜が変なこと言ったんだってね。あの二人は思い込みが激しいから。だから、あの二人が言ったことは、全然気にしないでいいから」


「そう……」


「瑞貴、家でピアノ弾いてたでしょ?」


「……!」


 バレてた……そりゃそうか。家、近くだもんね。


「わたし、瑞貴のピアノ、すごく好きなんだよ。だからこれからも聴かせて。ね?」


「……」


 わたしはただ、コクン、と小さくうなずいただけだった。


 だけど……


 それからすぐ、美玖ちゃんは引っ越して、転校してしまった。


---


 いなくなって初めてわかった。


 美玖ちゃんの存在は、実はかなり大きかった。彼女の存在そのものが、わたしを守ってくれていたのだ。


 彼女がいなくなってすぐ、わたしはいじめられるようになった。その頃のわたしは、地方のコンクールで優勝し、全国大会にも出場するようになり、テレビにも出ることが何度かあった。

 かなり目立つ存在だったのだ。当然嫉妬の対象になってもおかしくない。でも、わたしはおとなしくて気弱な女の子。友だちもいない。格好のいじめの標的だった。


 だけど。


 かつてはチビだったわたしも、いつの間にか身長が伸びて、力も強くなっていた。ピアノを弾くにも体力が要る。それが自然に体を鍛えるトレーニングになっていたのだ。そうなると、暴力への対処もそれなりに出来るようになる。


 勝君は、美玖ちゃんがいなくなった途端、またわたしにちょっかいを出すようになった。わたしが手を大事にしていることを知ってて、わたしの手にダメージを与えようとする。クラスのみんなの目の前なのに、誰もわたしを助けようとしない。


 ところが、たまりかねたわたしが思わず彼の顔に肘打ちを食らわせると、彼はあっけなくふっとんだ。


 びっくりした。何が何だかわからなかった。わたしは呆然として突っ立っていただけなのに、彼は悲鳴を上げて逃げていった。クラスのみんなには、わたしが無表情で彼を見下ろしていたように見えたらしい。

 それがとても恐ろしかったのか、その時以来わたしに対する暴力的ないじめはなくなった。だけど、その時のことはわたしにとってもショックだった。


 保健の時間に学んだことがある。小学校高学年は、男女の体力が逆転する時期なのだ。わたしはいつの間にか強くなっていた。そうなりたいと願っていて、それが叶った……はずなのに、わたしの心は晴れなかった。暴力を振るって誰かを傷つける行為は、同じように自分自身も傷つけることだった。もう絶対にしない。わたしは心に誓った。


 あからさまな暴力はなくなったけど、いじめが完全になくなったわけじゃない。無視されたり、ばい菌扱いされたり、物を隠されたり、悪口を言われたり。


 でも、はっきり言ってその程度のことはどうでもよかった。それよりも、わたしはピアノを弾いていたかった。ピアノを弾いていれば、何もかも忘れられる。クラスの全員から無視されたって構わない。わたしには、ピアノっていうかけがえのない友だちがいるんだから。


 そんなふうに思っていると、逆に全然いじめられなくなった。きっと、何の反応もないのでいじめても面白くないのだろう。

 クラスの中で浮いているのは変わらないが、いじめられなくなったのは素直にありがたいことだった。


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 成長するにつれ、わたしはいろいろな音楽を聴くようになっていた。クラシック以外にもいろんな曲がある。特にわたしの心を惹いたのは、ジャズだった。最初はグレン・ミラー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン、カウント・ベイシーと言った、ビッグバンド、スイングから聴き始めたのだが、わたしは特にエリントンの曲に強烈に興味を持った。


 とても現代的、というんだろうか。「ソフィスティケーテッド・レディ」のコード進行は、わたしにとっては衝撃的だった。こんなの、アリなのか……いや、大いに「アリ」だ。少なくともわたしにとっては。


 その後わたしはビバップ形式のジャズを聴くようになった。やはりピアノトリオが一番好きだ。オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、バド・パウエル……中でも、オスカー・ピーターソンの明るい演奏は聴いてて楽しくなるし、バド・パウエルの醸し出す独特の響きにもとても惹かれた。

 しかも、ジャズはほとんどが即興演奏インプロヴィゼーションだという。信じられない。練習もせず、いきなりここまでの演奏が出来るものなのか。


 現代音楽ならともかく、不協和音は「音楽」にはまず用いられない。だけどジャズでは不協和音みたいな音も平気で入ってくる。ここでわたしは、わたしの原点である、「音」と「音楽」の違いについて、再び考えさせられることになった。


 どこまでが単なる「音」で、どこからが「音楽」なのか。ジャズではそれがとても曖昧になってるような、そんな気がしたのだ。だけど、それがなぜか心地よい。普通、不協和音なんて気持ち悪いだけなのに。


 本当に、ジャズって不思議な音楽だな、と思う。そして……わたしがクラシックの作曲家の中で一番好きなラヴェルがジャズに影響を受けていた、と知ったとき、わたしは全てがつながったように思えた。


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 ちょうどわたしが中学に上がる時に、わたしの家は引越しすることになった。駅前のマンションの最上階、メゾネットのペントハウス。その時に、わたしはわたしの半身とも言うべきアップライトピアノとお別れすることになってしまった。美玖ちゃんと一緒に遊んだ、思い出のピアノ。だけど……

 すでにわたしの弾く曲は、ほとんどがアップライトでは満足に演奏できないものになっていたのだ。アップライトではどうしても素早い連打トリルができない。悲しかったけど、どうしようもなかった。


 代わってわたしのパートナーとなったのは、ヤマハの5型のグランドピアノだった。わたしの部屋となった3階に、引っ越す前からもともと置かれていた。前に住んでいた人がピアニストだったのだが、亡くなってしまってそのままになっていたのを、部屋ごとうちが買い取った、ということなのだそうだ。


 亡くなった人のものだから気味が悪い……とは思わなかった。わたしはお化けも幽霊も見たことないし、信じてもいない。むしろ、ピアノを弾いてあげた方がその人も喜ぶんじゃないだろうか、と思った。だから、わたしはそのグランドピアノを弾くのに抵抗感は全くなかった。


 だけど……ピアノ教室で弾いている7型と比べたら、正直、あんまり音がいいとは思えなかった。それでも、アップライトではできなかった演奏ができるのはありがたかった。そして、わたしはこの新しいパートナーとも徐々になじんでいった。


---


 中学で、美玖ちゃんに再会した。


 びっくりした。帰ってきているとは思わなかった。


 だけど、わたしとはクラスが違う。そして、彼女はそのクラスの新しい友だちに囲まれて、楽しそうだった。わたしに気が付いて声をかけようとしたみたいだったが、思わずわたしは彼女から顔をそむけてしまった。そしてそれっきり、彼女と話す機会はなくなってしまった。2年に上がると同じクラスになったけど、最初に掛け違ってしまったボタンが元に戻ることは無かった。


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 中学2年になってすぐに、総合学習の時間でショートショート小説の作り方を、小説家の人が講師になって教えてくれた。


 まずは名詞をいくつか考える。次にその名詞から思いつく言葉を書いていく。そして、その言葉と名詞を組み合わせて、出来るだけ突拍子もない設定を考える。それを膨らませてストーリーを作っていく……というものだ。


 わたしは「空飛ぶピアノ」という話を考えた。ピアニストがそれを弾いている間はそのピアノは空を飛べるんだけど、だんだんピアニストが疲れて弾けなくなってしまい、ピアノが空から落ちてきた。その落ちたところが、ちょうど逃走していた銀行強盗の真上で、強盗が捕まってめでたしめでたし……というお話だ。一応起承転結も考えて作ってみた。


 これは小説家の先生からはまあまあの評価をもらった。だけど……その後、クラスメイトの坂本翔太君の発表した話は……とにかくわたしにとっては衝撃的だった。


「音のない音楽」。


 その世界には音がない。だから会話は全て文字によるチャット。音楽を奏でるには、音符が書かれたキーボードを叩く必要がある。そうすると、スクリーン上の楽譜に音符がどんどん書かれていく。演奏会場に来た人たちはスクリーンに表示された楽譜を見て、それがどんな音楽かを理解する。テレビの音楽番組も基本的に楽譜が流れるだけ。鼻歌を歌いたくなったら、鼻の穴に鉛筆を挿して楽譜を書く。それが鼻歌。


 そこで小説家の先生が大爆笑した。だけど、クラスのみんなも担任の中田先生も、みな唖然とした表情だった。


「そもそも音がない世界に音楽って概念が存在するのか?」


 彼と仲良しでクラス委員長の細野君が、非常にもっともなツッコミを入れる。


「いや、でもさ、プレゼンソフトでスライド切り替えの効果を変えると、頭の中で聞こえてくる音も変わるだろ? そういうものだと思えばいいんだって」


 翔太君がそう言っても、誰も納得した顔をしていない。だけど、わたしにはなんとなくわかった。確かにスライド切り替えの時、無音でも何か音が鳴っているような気持ちになる。


 それに。


 翔太君は知ってるんだろうか。この世には、実は本当に「音のない音楽」が存在するのだ。


 現代音楽の巨匠、ジョン・ケージの「4分33秒」。この曲の楽譜には、第一、第二、第三楽章全て、「TACET休み」と書かれているだけだ。つまり、この曲には演奏という物が存在しない。にもかかわらず、この曲はピアノ曲とされている。わたしもこの曲の存在を知ったときは、さすがに「なにそれ!」と叫びたくなった。


 今回の翔太君の話には、それにとても近い衝撃を感じた。「音」と「音楽」の違い、というのはわたしがいつも考えていることだけど、「音のない音楽」という発想は……なかなかできないと思う。この人……面白いこと考えるなあ……


 わたしは川村先生に、彼氏を作るように言われている。この人がわたしの彼氏だったら……どうだろう。


 うん。きっと、面白くなりそうだ。

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ピアノと彼女とぼくの物語 Phantom Cat @pxl12160

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