7

「かわいい子ね」


 帰り道。車を運転しながら、母さんが言う。


 今日母さんはぼくの夕食代を包んでいったのだが、高科さんのお母さんはそれをかたくなに受け取らなかったらしい。結局、このアンプの修理の件でおあいこにしましょう、ということになったようだ。


「え?」


「あんたの彼女」


「か……彼女?」


「違うの?」


「当然だよ! 高科さんは彼女とかじゃなくて、単なるクラスメートで……たまたま一緒に演劇のシナリオを作ることになっただけで……」


「ふうん」


 母さんはニヤニヤしながら横目でぼくを見ると、わざとらしく抑揚をつけて言った。


「がんばってね」


「な、何を……?」


「演劇の、シナリオ」


「う……うん……」


---


「……なるほど。確かにプロテクトのリレーは経年劣化しやすい部品なんだ。自力でそこにたどり着くとは……翔太もなかなか、やるようになったな」


 夕食の席。父さんはニコニコ顔で続ける。


「それでお前、ちゃんとゼロボルト調整もしたんだろうな?」


「……え?」


 なに、それ……?


「なんだ、やってないのか?」


「うん……」


 ニコニコ顔から一転、父さんが渋い顔になる。


「ったく……やっぱ、まだまだだな。いいか、α507はDCアンプ、つまり、ゼロヘルツの直流も増幅できるアンプなんだ。だからちゃんとゼロボルト調整をしておかないとだな、スピーカーに直流電流が流れて……」


 これ、話が長くなるヤツだ。


 ぼくは適当に聞き流しながら、意識は目の前のご飯に集中させていた。


 アンプはちゃんと動いているのだから、たぶんそのゼロボルト調整っていうのをしなくても致命的な問題はなかったんだろう、とは思う。


 だけど……


 悔しいけど、父さんの言う通り、ゼロボルト調整はやっておいた方が良さそうだ。後でネットでやり方を調べて、今度高科さんの家に行ったときにやることにしよう。


---


「はい。このCD、すごく良かったよ。ありがとう」


 その日、ぼくはいつものように、シナリオを作るために高科さんの家を訪れていた。そして、彼女に借りていたラヴェルのCDを返したのだ。ほんと、ラヴェルに対しての印象がまるっきりひっくり返された気がする。

 ネットで調べたら、その音楽があまりに緻密なため、ラヴェルはストラヴィンスキー(ロシアの作曲家。代表作「火の鳥」)に「スイスの時計職人」と評価されているのだそうだ。確かに、そんな感じだよな。


「次の土曜日、わたしのピアノの先生が市民会館でリサイタルを開くの。ドビュッシーがメインだけど、ラヴェルとサティの曲もるよ。一緒に聴きに行く? 入場無料だけど」


「え?」


 いきなり高科さんがそんなことを言ってきたので、ぼくはびっくりした。彼女はいつものように、全く無表情でぼくを見ている。


「う、うん……ぼくも、生のピアノ演奏、聴いてみたい」


「それじゃ、午後一時、現地集合ね」


 すまし顔で、高科さんは言った。


---


 土曜日。


 ぼくは一時十分前に市民会館に到着した。どんな服を着ていくのか迷ったが、クラシックのリサイタルとなると、あんまりくだけた服装もできないかな、と思って、結局学校の制服を着ていくことにしたのだ。


 玄関では、既に高科さんが待っていた。ぼくはほっとした。彼女も学校の制服だったのだ。


「ごめん。待った?」


「ううん。わたしも今来たところ」


 あれ? 前にもなんか、こんな会話をしたような……


 しかしやっぱりこれって、恋人同士のデートの待ち合わせ以外の何物でもないような……ていうか、これ、実はデートだったりするのか……?


---


 リサイタルの会場は小ホールだった。「川村百合子 ピアノリサイタル」という看板が置いてある。ざっと見たところ、席数は200席くらいだろうか。その半分くらいの席が埋まっていた。花束を持った人も多い。高科さんも大き目の花束を抱えていた。彼女の希望で、ピアノの運指が見える席にぼくらは並んで座った。


 一時半。ブザーが鳴り、照明が暗くなった。


 青いドレスをまとった女の人が、舞台に姿を現した。いきなり響き渡る拍手。その人はにこやかに手を振って応える。


 これが高科さんの先生なんだ……ちょっとお化粧が濃いような気もするけど、ずいぶん美人だな。腰もキュッとしまってる。ドレスのせいなのかな。年齢は……中田先生と同じくらいか、ちょっと上かな。ってことは、30代くらいか。(後でパンフレットを見たら、42歳って書いてあった……)


 川村先生がピアノに向かうと、場内は急に静まり返る。


 一曲目。アラベスク第1番。すごい……やっぱり生の音は、迫力が違う。


 瞬く間に演奏が終わった。拍手が鳴り渡る。川村先生は立ち上がって挨拶する。


「うちの学校のピアノはヤマハの7型だけど、ここのはスタインウェイの、しかもフルコン(フルコンサートサイズ)だからね。やっぱり音が全然違うよね」


 高科さんが言った。だけど、正直、ぼくにはその違いがよくわからなかった。


---


 プログラムに載っていた曲は全て演奏が終わった。とても素晴らしかった。ドビュッシーの曲はアラベスク1、2番、「ベルガマスク組曲」4曲全て、「夢」、「亜麻色の髪の乙女」だった。その後はラヴェル。ほんとは「夜のガスパール」演ってほしかったけど、「亡き王女のためのパヴァーヌ」も「水の戯れ」も「クープランの墓」の1曲目「前奏曲」も好きだから、ぼくは大満足だった。サティの曲は有名な「ジムノペディ第1番」以外は全然曲と名前が一致しなかったけど、実は聞き覚えのある曲がもう一つあった。


 うちの電話の保留音で使われているのが、サティの「ジュ・トゥ・ヴ」という曲だったとは……高科さんに聞いたら、もちろんサティのCDも持っているらしい。さすがだ。今度貸してもらおう。


 ……あれ?


 そう言えば、いつの間にか高科さんの姿が消えている。トイレかな? と思ったのだが、それにしてはかなり長い。それに花束も無くなってる。わざわざトイレに花束持ってくことないよな……


 と、演奏終了からずっと続いていた拍手の音量が、いきなり大きくなった。ステージを見ると……なんと、高科さんが花束を持ってステージに出ているではないか! しかも白いドレスを着て、髪をお団子にまとめ、メイクもしてる……


 川村先生は嬉しそうに彼女から花束を受け取り、二人はステージ上で並んでお辞儀をする。ひときわ拍手が高鳴った。


 そして、その後……信じられないことが起こった。

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