第14話


祖父アルフォンスの魔法の筆には特徴があった。

使用者が望めば、変幻自在にいくつもの形に変化するのだ。

例えば下書きのために鉛筆に変化を遂げたり、大中小さまざまな筆の形に変化し、さらには思い思いの多彩な色彩を筆一本からつくりだす。

そして極め付けが。


「はっはっは。なるほど、これほど美しい光景は他にはないなぁ」


備え付けの白いソファーに深く腰掛けるアーノルドは、目前に広がる壁一面に描かれた絵画に感嘆の息をついた。

黄昏の薄闇に、ぼうっと浮かび上がる水面には、七色の鱗を持つ美しい魚たちが楽しげに泳いでおり、いくつもの光の玉が揺らめくように飛び、その大樹へと集まっていた。

それは絵美の目に焼きついた、精霊の国メディウームの景色だ。


「ええ陛下。なんて幻想的な景色でしょう…」


アーノルドの横に並んで座るのは、王妃であるエリザベートだ。

妖精の森ファーファの姫君で、大恋愛の末結ばれた。だがしかし、ファーファは人間へ嫁いだエリザベートを良く思っておらず、絶縁状態になったそうだ。

ただそれでも2人は幸せであるのだから、それでいいのだろう。


長命種の妖精であるからか、その美しさに少しも狂いがない。

森の葉を写したかのような波打つ深緑色の髪をふんわりとまとめ、雪のような白い肌にツンと尖った耳。宝石色の翡翠の瞳を優しく細めたエリザベートの見た目は、まだ20代のそれである。


「幾年時が過ぎようとも、こんな素敵な魔法が使えるのは人間だけですわ」

「そうだねエリィ」


見惚れるようにホウっと息を吐き出すエリザベートの横顔を、アーノルドが優しく見つめながら目元の皺を深めて微笑んだ。


それを絵美は我慢しきれずに、魔法の筆とスケッチブック片手にその姿を描き、描き終えたデッサンを見つめて、はたと現実に戻された。

ここは絵美がこの国バームバッハで与えられた客間である。

この世界に滞在する間は、好きに使用して構わないと言われたのはいいが、思わず壁一面を壁画にしてしまったのは、衝動的だったと言わずにはいられない。


手元に紙がなかったから。

そこに真っ白な壁があったから。


言い出したらキリがないが、やっと描くことのできる筆が手に入ったのに、それを描く術を持っているのに、我慢などできるはずがなかったのだ。

その結果がこのメディウームの世界を描いた壁画である。

その壁画はまるで生きているかのように、魚は泳ぎ、木々がざわめき、光の玉がたゆたう。

視線の先にはすでにメディウームが存在しているようだ。


絵美が部屋を離れると、美しくもただの壁画であるのに、絵美が部屋へと戻ると、壁画は息を取り戻したように動き出した。

絵美の魔力に触れることで、その絵が具現化するのだろうとアーノルドは言った。

現に壁画に触れると絵美の手はすっぽりとすり抜けた。まるで向こう側があるかのように、埋もれた手を思わず引っ込ませるほどには驚いた。

そして意を決して頭を突っ込んで見れば、壁画の先は本物のメディウームだったのだから、手に負えない。


ただし、とアーノルドは付け足すように言った。


『絵が動くのも、直接別の場所へとつながることも、アルでは出来なかった芸当だろう。アルの力を受け継ぎながら、それ以上をやってのけるとはさすがとしか言いようがない』


なにがさすがだというのか。

ただでさえこの絵が掃除をしていた女官たちに見つかり騒ぎになったのが一昨日。

それまではなんとかメリナと一緒に隠していたが、絵美が精霊の国メディウームから帰って2週間さすがに部屋の出入りをメリナだけにしたのが仇になったのか、女官長のラティエが掃除をするため押しかけて来て、ついにこの壁画の存在がバレてしまった。

しかも怒られると思いきや、ラティエ女官長はその場で大号泣。


『ーーっ生きている間にこんな美しい絵を見ることができるなんて……』


大袈裟だ。

だいたいラティエ女官長はまだ33の独身である。

その彼女はこんな美しいものをこのままにしておけないと、あっという間に城中に壁画の話が広まり、城を巡回中の兵士や、掃除を理由に女官たちが、事あるごとにやってきてこの壁画を見ていくのだ。


そしてついにやって来た国王夫妻というわけである。


「エミ」


スケッチブックを持ったまま考えにふけっていた絵美は、エリザベートに呼ばれて顔を上げた。


「こんな素敵な絵をどうもありがとう」


ふんわり微笑んで心の底からのお礼に、なんだかむず痒くなって絵美は目を泳がした。


「いえ…自分の欲求に忠実だったと言うだけです…」


しかも最初は怒られる気でいたのに、褒められたりお礼を言われたり、とてもじゃないがいたたまれない。むしろ謝らなければならない立場だと言うのに、誰の1人も怒らないのだ。

俯く絵美を見てエリザベートが面白そうに笑った。


「この絵は他者を動かす力があるわ。それってすでに素晴らしいこではない?アルフォンスもたくさんの絵を描いて、その絵は未だにみんなに愛されて、後世に受け継がれているのですよ」


祖父の絵は結局絵美は未だにあの祖母の家にあった美しい絵画しか見たことはない。

精霊の泉の奥にある白い洋館には未だに入れていないのだ。

あそこに行くたびにもどかしさがつのるが、ライデンは優しく微笑みながら出迎えてくれていた。


「そうだわ。アルフォンスの絵画の一部ご大切に王立美術館に展示されているのだけれど、今度一緒にわたくしと参りましょう」

「それはいいね、エリィ。私も行きたいところだが…」

「なりませんよ陛下。まだ仕事が山積みなのですから」


近くに控えていた侍従のレオンが素早く首を振って釘を刺す。

それをちらりと見てアーノルドは眉尻を下げて肩をすくめた。


「…だ、そうなのでな。私は行けないので2人で楽しんで来るといい」


護衛は選りすぐりをつけよう、とエリザベートの深緑色の髪をくるりと遊ぶ。

ありがとう、と幸せそうに笑う彼女へ、水をさすように声をかけることは絵美にはできなかった。


ーーあたし行くの決定なのですか?

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姪孫姫は絵を描きたい 九原 みわ @akanenosora

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