第8話

それを見て男は笑っていた。とても愉快に。

一息つくと、額をおさえていた手のひらをぶらりと下ろした。

そこに土色の瞳はない。

あるのはきらりと光るアメジストだ。

その瞳がトロリと溶けた。


「ーーさすが貴女の娘ですね」


男は本当に先程までの男と一緒なのか。

どこにでもいそうな顔だったはずの男が、今は大層美しい顔をしていた。

艶のあるダークグレーの髪、宝石のような紫の瞳。そして褐色の肌はまるで別人だった。


手すりの向こうから絵美は、自分の置かれた状況と、目の前の現状に目を白黒させて、弱々しい抗議の声を上げた。


「ーーっなによこれ……誰よあんたは…」


だが男は答えない。

そのかわりと、男は口を開く。


「姫さまはやはり、


美しい男は、声までも別物へと変わっていた。


そして後ろを伺うようにして、残念そうに男は呟く。


「そろそろ時間切れか…」


そのすぐ後にガシャンと硝子の割れる大きない音が響き渡ったと思うと、怒涛のように足音が響き渡る。

その先陣を切るのは、燃ゆるような赤毛を持つ青年だ。

銀と銀の瞳が重なり合う。

その瞳が一瞬戸惑うように揺れ、直ぐに鋭く言い放った。


「魔人の方よ。我らの国で何をなさろうとしているのか」

「これはこれはアーヴィング殿下。ご機嫌麗しゅう。私はただご挨拶をとーー」

「挨拶にしては少々やりすぎではないか。彼女は紛れもない王族ぞ」

「もちろん存じておりますとも……ですが殿下、姫さまの半分は」


そこまで言って男は絵美を見て美しい微笑を向けた。


(……っ、なんなの…?)


動揺する絵美の心に呼応してか、腕の中で『黄金の林檎』は輝きを増す。


絵美は『黄金の林檎』を知っていた。

『黄金の林檎と精霊女王』あれは、この黄金の林檎を指すことを。

でもだからこそわからない。


だって、と絵美は思う。


ーーこれは祖母の物だ。


これが本物であるならばだが。


こんな状況が普通であるわけがない。


男がその先を口にする。

それがやけにスローモーションのように感じられた。


「ーー魔人の混血。しかも魔帝陛下のたった1人のご息女であるのですから」


寝耳に水とはまさにこのことだ。

絵美も驚いていたが、それ以上にこの部屋に押しかけていた兵士たちのざわつきようが、ありありと感じられた。


「驚かせたのは申し訳ありませんでした。この国バームバッハが治める大陸では魔人は歓迎されません。ですので、少々手荒な真似をしてしまいました。恐れられないよう、どこにでもいるような人間のふりをしたのですが逆効果になったようですね」


薄く笑って、流れるような動作で片膝をついた。


「さあ参りましょう。姫さま」


それはまるでどこかの騎士のような振る舞いである。

片手を差し出してくるこの男は、最初から確かに『姫さま』と呼んでいた。この国で、対外的に皆『エミ様』と呼ぶのにだ。


しかし、その見た目も言動も何もかも、手のひらを返したように微笑む男に、絵美は恐怖しか抱けない。


(…気持ち悪い…)


そう思うと、本当に気持ち悪くなってくる。むかむかと胃が痙攣し嘔吐を催して、手のひらで口元をおさえた。


その間にも、兵士達のさざめく声が聞こえてくる。


ーー魔人と混血?

ーーまさか聖女が魔人と?

ーー裏切りではないか

ーーそんな混血を我らは


守ろうと駆けつけてくれていた兵士達の目が、異物を見るように冷えていく。


(…なんなのよ…)


何かを反論する気力も削がれた。

魔人の混血だと言われて、一番混乱しているのは絵美である。

そこに兵士達の悪意ある視線と言葉は、ただでさえ病んでいた心を蝕んでいった。


そこに凛とした声が響き渡る。


「ーー鎮まれっ!」


怒気を含むアーヴィングの声に、部屋は一瞬で静寂になった。

彼だけは厳しい顔つきで、銀の瞳をギラリと男に向けた。


「下手なことを言って兵士達の指揮を下げないで頂きたい」

「ですが事実ですよ。むしろそれだけのことで揺れる兵士など、必要ないのでは?」

「ーー…ご忠告痛み入る。この後この者たちには厳しい処分を下そう」


アーヴィングの言葉に兵士たちの顔色が一様に蒼ざめた。


「だがしかし、貴公は正式な手続きも踏まず、我らの国土への不法侵入、並びに王族の誘拐未遂、それは条約に違反しているのでは?」


毅然とした態度で言い放ったアーヴィングに、男は降参だとでも言うよに両手を軽く上げて苦笑する。


「確かに、それはなかなか言い逃れのできない罪状ですね。さすが実質上の王太子と呼ばれるだけはありますーー…ですが」


男は緩やかに立ち上がった。


「ここで私を捕まえても、争いの火種にはなるでしょう」


それは男が絵美を連れ去ったとしても、どちらにしても争いになるぞと脅しているのだ。


アーヴィングは、ふんと鼻を鳴らす。


「貴公が、それを望まれるのなら致し方ない」

「なかなか手厳しい。では、今回は見逃して頂けると言うことでよろしいでしょうか」

「私の気の変わらぬうちにそうしていただきたいものだ。私も貴公の国と再び剣を交えなければならなくなるのは勘弁被る」

「それはこちらも同じですよ。アーノルド陛下とアーヴィング殿下、貴方方が生きておられる間はないことを願いたいものですーー…では、姫さま。またお会いしましょう」


最後に絵美に美しい微笑を向けて、一瞬で現れた魔法陣の向こうへ消えていく。


「ーー…なるほど逃げるのも全て計算済みか」


忌々しげにアーヴィングは呟いた。

本当はここでもがしがしと頭を掻き毟りたい衝動に駆られるが、現状しばらくはそんな態度も取れそうにない。

それは後ろに控える兵士たちもそうだが、目の前でテラスの向こう側で、顔色を悪くして『黄金の林檎』を抱えて浮いている女のせいでもある。


「初めまして、はとこ殿ーー」


最新の注意を払って、極力優しげに聞こえるように声をかけた。つもりだったが、びくりとその銀の瞳が揺れたのを見逃さなかった。


厄介だなと、アーヴィングは『黄金の林檎』を見つめて思う。


ただでさえ邪な噂が広がりつつあるのに、魔族と『黄金の林檎』がどれほどの噂を作り上げるのかと思うと、考えるのも嫌になる程だ。

緘口令は敷くつもりだが、それが果たしてどれほどの効力を発揮するのか。


「はとこ殿、とりあえず降りて来てくれないか」


すると彼女はブンブンと蒼白い顔を振って、口を開く。


「ーー…っ、嫌よ」

「なに?」


アーヴィングは思わず素で答えてしまい、咳払いをして平常心を整えた。


「なぜかな?もう君を害する者はいなくなったよ」


なるべく優しげに微笑んでから近づいて行くアーヴィングに、顔色の悪い彼女はなぜか銀の瞳にはっきりと敵意を滲ませた。


「ーー…勝手なことばかりね」


本当に馬鹿らしくなるほど、勝手であることに絵美は憤りを感じていた。


英雄の孫、聖女の娘、国王を誑かして玉座を奪う

英雄の孫、聖女の娘と結婚したら玉座につける

英雄の孫、聖女の娘を偽り騙そうとしている


(ハッ!本当に馬鹿みたい。英雄、聖女、だからなに)


さらに今、魔族の混血という事実が明らかにされたとして、絵美にしてみればそれだけのことだ。

彼らはどうか知らないが。


自分をはとこと呼ぶ赤毛の青年から、その後ろの兵士たちを見て、絵美は知らず歯を食いしばる。


「どいつもこいつも、あたしのこと知りもしないのに勝手ばかり。おじいちゃんがおばあちゃんがお母さんが何だって言うの?あたしが何したって言うわけ?」


それまでの全てが爆発するように、絵美は矢継ぎ早に言葉を吐き捨てた。

もともと絵美は何か傷つくようなことがあっても、泣いてすませるタイプではない。

我慢して、最終的に爆発するタイプの人間である。

そしてこれが一番面倒な人間であるということも自覚していた。


「さっきの男も、アンタも、その後ろのその他大勢も、勝手なことばかり言ってんじゃないわよっ!あたしの意思はどこにあるわけ?英雄も聖女もここにはいないっ!ふざけんなっ!あたしはあたしだっ!」


この世界に来てから、誰も彼もが絵美の意思など関係なく話が進もうとする。

それがどれだけ屈辱的で、どれだけ人の心を踏みにじっているか、彼らは気づいているのだろうか。

たいして絵美のことを知りもしないと言うことは、絵美も彼らのことを知らないのである。

それなのに面白いぐらい噂話は絶えない。

次から次へと新たな話が出てくるのだ。

そんな出所も不確かな噂を間に受けるのもどうかと思うが、それを面白がって広める人が一番手に負えない。


今まで黙殺していたものだと思っていたからか、声を荒げた絵美に彼らの動揺は大きなものだった。


アーヴィングもその中の1人だった。


(誰だよ、控えめで大人しい女性なんて言ったやつは)


銀の瞳を怒らせて、こちらを睨み付ける彼女が控えめで大人しいわけがない。

むしろたった2週間で、彼女の性格を正確に把握していたものなど誰もいないだろう。


けれどその威烈な眼光も長くは持たなかった。


見る限り体調の芳しくない身体は、ゆっくりと傾く。

弱々しく閉じられていく瞳を見て、アーヴィングは慌てて魔法を使おうとして、使えなかった。

彼はそのことが一瞬理解出来なかったのだ。

理解出来た時、それはある種の恐怖が身体を占めていた。


「ーー…馬鹿が」


低く呟かれた言葉と共に、一瞬でその場から彼女もろとも瞬く間に消えたそれ。

一瞬の出来事である。


アーヴィングは引きつる頬を無理やり上げた。


鳴り響く心音は、静まり返る部屋では良く聞こえた。


後ろを振り仰いで、思う。


「ーー気を失えるお前たちが羨ましいな」


隊列乱さず立っていた兵士たちは、あるいは膝をついて、あるいは地べたに這いつくばり、あるいは立ったまま、1人残らず気を失っていた。


アーヴィングは天を仰いで深く息を吐き出した。


現存する絵姿は、大叔父が描いた一枚だけだ。


「ーー…精霊王オベリオン…」


煌々と輝く黄金の瞳、灰色かかった青緑色の髪。そこに立つだけで全てを平伏すことのできる存在が、今目の前にいた。


誰の目もないことを良いことに、アーヴィングはがしがしと頭を掻き毟る。

たった数十分で、向こう1年分は寿命が短くなったなと、今は誰もいないテラスへと銀の瞳を向けたのだった。


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