第4話

一度、ティティアはその瞳を閉じた。

アルフォンスが亡くなったとわかった時、人と関わるのが怖くなった。精霊にはない、寿命というものを持つ人間が恐ろしく繊細な生き物だと知った。


ーー彼らはわたくし置いて逝ってしまう。


そう自覚した時、ティティアは三日三晩嵐の雨を降らせた。

川は氾濫し、収穫前の麦や稲、野菜は全部ダメにした。

それでも乱れた感情は収集がつかなくなっていたのだ。


〈だから言ったんだ。人間と関わるなと。今まで通り距離を置いていたら良かったんだ〉


そんな時オベリオンは吐き捨てるようにそう言った。

いつも一線を引いて人間たちに深く関わらず、精霊たちをまとめ上げる精霊王は、こうなることを知っていたのだ。

だからいつもいつも、ティティアに忠告していた。

彼らに出逢わなければ、きっとティティアも今まで通りの距離を保っていたはずだ。


〈ーーもう君は地上へ行くな〉


そう行かなければ、出逢わない。

行かなければ傷つくことも、悲しむこともない。


それから何年も何年も時が過ぎた。

地上へ行かなくなって、26年という精霊にとっては短い時だ。

だから、後悔ばかりが残る。

本当に突然だったのだ。

26年は精霊には短い時間でも、人間はそうではなかったのに。


〈ーー…っあ、ああぁ、まってっ…!〉


そこにはない虚像に手を伸ばすが、もちろんその手は届かない。

出逢った時彼女の髪はまだ黒かった。その色と同じより少し茶色がかった瞳は、知らない世界に驚いていた。けれど驚いていたのは、ティティアも同じだったのだ。

人間とここまで近づくのは、これが初めてだったのだから。

親しくなるのに時間はかからなかった。

天真爛漫な彼女は、世界の順応にも早かったのだ。

ティティアを友と呼び、笑い、喜び、時には泣いて、共に過ごした日々はかけがえのないものだった。

いつの間にか、ティティアには大切な人が増えていた。

限りない時を過ごしてきた精霊にとって、それはかけがいのないモノだったのだ。


〈…リンネ…〉


ポツリと呟く。握られた手のひらは、ポカポカと暖かい。

もう二度と来ないと誓った地上へ踏みいるのはどうしてだったのか。

目の前の娘を見る。

光の加減で青にも見えるその銀の瞳と、黒い髪を持つ娘。

アルフォンスにも凛音にも、娘の百合にも似た友人たちの孫だ。

握られた手のひらを、優しく握り返す。


ーーどうしてこうも人間とは、心をさらっていくのだろう


草木に染み渡るように雨粒が降り注ぐ中でも、しっかりと地に足をつけてこちらを真っ直ぐに見上げてくるこの娘は、確かに友人たちの血を受け継いでいた。


〈ーー…こちらこそ、ありがとう〉


自然と微笑めたのは、彼女のおかげだ。


ーーね、良い子でしょう?絵美のことお願いね。


それが幻影だと分かっている。

それでも目の前の娘の背後で笑って手を振り、アルフォンスに手を引かれて光の泡となって消えていったリンネに、しっかりとうなずく。

任せて、と。


いつの間にかポタリと頬へ落ちた雨粒を残して、雲が晴れていた。

それはティティアの心が晴れていく証である。


〈エミ〉


口に出してみると、しっくりとした。

名を呼ばれたことに驚いたのか、エミは瞳を丸くしていた。


〈わたくしと契約しましょう〉




「何度だっていうからね!あたしはあんたとは契約しないっ!」

〈いいえ、するのよ〉


ああーっ!と頭をがしがしかきむしる。


「あんたがそんなんだから、あんたの旦那の火の粉がこっちに飛んでくるんでしょう!」

〈オベリオンは関係ないわ。わたくしは、貴女としなくてはならないの〉

「だから、その理由は何っ?おじいちゃんの代わりならごめんだけど他をあたって」

〈違うわ。これはわたくしの意思よ〉

「余計に分からないからっ!」


どれだけ断っても、なぜこうも契約したがるのか。

ティティアの頑固さに、絵美は半分流されそうになってくる。

ここで、じゃあ契約すると言えば、この面倒なやりとりもなくなって、楽になるのではとさえ思ってしまう。

もういっそのこと契約してしまおうか。

ほとんど意気消沈していた絵美の目の前に、彼が現れるまでは。


〈ーーまた貴様か〉


第三者の声に、絵美は声にならない悲鳴をあげた。

そうあの日もそうだった。

凍てつくような急な風がふいたかと思えば、どこかで雷が落ちて、稲妻が走るのだ。


〈また、ティティアを誑かしているのか〉


黄金色に輝く双眸が、ギラリと絵美を睨みつけ、肩先で切りそろえられた灰がかった暗い青緑色の髪が、ざわりと蠢いていた。


「勘違いしないで、あたしは断っているところだから」


下手に刺激しないよう言う。

彼もまた、この世の者とは思えない美しさを兼ね備え、その恐ろしいほど整った顔で、絵美にはっきりと敵意を示す。


〈ではなぜまたティティアは地上へ来るのだ。貴様がそそのかしたせいだろう?〉


またどこかに雷が落ちて、地が揺れる。


(何を言ってもあたしを結局悪者にしたいのよね)


まったく、いい迷惑だ。


〈ティティアに近づくなと、私は言ったと思うが…力でわからせなければならないらしいな〉

〈オベリオンっ!〉


視界の端で稲妻が走ったと思ったら、すぐ近くの木に落雷した。

木はバリバリと音を立てて、倒れていく。

ガチガチと歯がなりそうになり、絵美は歯を食いしばって必死で耐えた。


〈オベリオンっ!いい加減にしてちょうだいっ!〉


ティティアが怒りに顔を真っ赤に染めるところを見るのはこれで2回目だ。

初めて会った日と、今日。

オベリオンが関わると、決まって彼女はその麗しいかんばせを怒りに染める。


〈なぜだティティア。私は君のためを思ってーー〉

〈わたくしのためと言うのでしたら口を挟まないでっ!〉

〈なぜだ、なぜわからない?人間と関わって何の得をすると言うのだっ!〉

〈貴方がわかっていないのでしょう?ーー……アルフォンスが亡くなってから、貴方は変わってしまった〉


ティティアがまぶたを伏せて、絞り出すように言った。


(おじいちゃんが亡くなってから?)


では、それまではこうではなかったと言っているように聞こえた。

あっ、と絵美は驚いて瞳を見開く。

視線の先は自然とオベリオンへ向かっていた。

押し黙った精霊王は、その美しい顔を苦虫を噛み潰したような、何かを耐えているように歪めていたのだ。


(何でそんな顔…)


わけがわからない。

けれど雷は止み、あとには異常な静かさが、辺りを包んでいる。

一度オベリオンの黄金の瞳が、鋭い刃物のような視線を絵美に投げた。


〈貴様は何も知らされず、知ろうともせず、生きてきたのだろうな〉

「なっ、」


慌てて晒した視線を、再びあげるほどにはその言葉は聞き捨てならなかった。

けれど返答を聞く前にオベリオンは泉の向こう側へ光と共に消えていってしまう。

残ったティティアも申し訳なさそうに眉を下げて、絵美の頬を両手で包み込んだ。


〈怖い思いをさせてしまってごめんなさい。気にするなと言っても無理な話でしょうけど…わたくしは、貴女が貴女であるから契約したいのよ。他の何者も関係ないわ、それだけはわかっていて〉


とりあえず今日は帰るわね、そう言って儚く微笑んだ精霊女王は嵐と共に去っていった。


どっと疲れて、その場に座り込む。

先ほどまでの静かさが嘘のように、鳥のさえずりが聞こえてきた。

空を見上げれば雨も降っていなければ、雷も落ちてこない。


(たかが夫婦喧嘩に巻き込まないで欲しい…)


気分は最悪だ。

心臓は苦しいぐらい強く脈打っているし、背中は冷や汗で冷たいし、夫婦喧嘩にしては度が過ぎている。


ーー貴様は何も知らされず、知ろうともせず、生きてきたのだろうな


絵美は大袈裟なほどため息を吐き出した。


「………どう言う意味よ、それ」


祖母のお話はどれもこれも楽しかった。

祖母と祖父の出会いから、結ばれるまで色々な出来事があったのだ。それを面白可笑しく話てくれて、実際こちらのファルファームのことなら異世界人なわりにそこそこ知っていると思う。知らないわけではない。

ただ、祖父アルフォンスのことを知っているかと言われると知らなかったという表現は正しい。

お話の中のアルフォンスは知っていても、祖父としてのアルフォンスは知らない。だいたい、祖父が王子だったということもファルファームへ来て初めて知ったのだ。

オベリオンの一言は絵美を落胆させるのには十分すぎた。


オベリオンあいつがあんなこと言うから)


やっと動悸も落ち着いて来て、絵美はその場に立ち上がった。

気分を上げるためには、急いで目的の場所へ向かわなくては。




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