第1話

美しいものが好きである。

それは景色にしても人にしても、そこにあるだけで絵になるものは、絵美にとっては宝石と相違いない。

特に人の描く絵画は、それぞれの個性が出て、全く同じものを描いたとしても、全く違うものが出来上がる。

鮮やかな色を使い分けて描かれる絵画を、絵美はこの上なく愛していた。


そもそも絵美の絵画好きは、祖母である凛音から始まる。

凛音は、少し不思議な人だった。

私は昔世界を超えたのよと、その世界では魔法が使えて、図書館が空を飛び、海底には海の王国や、他にも数々の話を絵美に語ってくれた。

絵美にとって夢物語でしかない話であったが、凛音はまるで真のように話すので、いつしか絵美もそんな不思議な世界があるならば、行ってみたいとさえ思わせるほど祖母の話はワクワクするようなものだった。

そんな祖母が生涯大事にしていた物があった。

それが古風な家には似つかわしくない、金色の額縁に入った、絵画だ。

生茂る森の中に隠れるように、白塗りの小さな洋館が木々の中にポツンとたったいる、至ってどこにでもあるような絵画だった。

けれど絵美はその絵を見て、一目で心を奪われたのだ。

どう表現すれば良いのか、まだ幼かった頃の絵美にはよくわかっていなかったが、今歳を重ねてわかるのは、その絵は美しくそして温かい、まるで息をするように、そこに佇む姿に絵美は心奪われたのだ。


「ーー…おばあちゃん」


金色の額縁の絵画は、今絵美の手元にある。

この絵を大切にしていた祖母は、1週間前に亡くなった。

いくらこの絵を譲ってと頼んでも、この絵だけは駄目と再三言われてきた物なのに、最期に凛音に託された。


『ーーこの絵はね、あなたのお爺ちゃんが描いた物なの。絵美なら大事にしてくれそうだわ』


ーー頼んだわね。


それが絵美が話した最期の会話だ。

歳のためもあった。癌が発覚したときは、すでに手遅れだと伝えられ、けれどそれでも凛音は笑っていた。

ーーやっとが呼んでくれたのね。

先に旅立って行った祖父を想って、凛音はクスクス若い娘のように笑っていた。

そして1週間前、凛音は静かに息を引き取った。

眠るようにと言うけれど、まさにそれで、まさかそのまま目を覚まさないなど、絵美はまったく思わなかったほどだ。


「ーー…アルフォンス・ユリウス・ディル・バームバッハ」


裏面の右下に小さく記された名をなぞる。


「凄い名前ね」


祖父は絵美が生まれる前に亡くなっていた。

だから今まで興味もなかったといえば嘘になるが、写真は凛音が大事に飾っていたのでよく見ていた。

夕陽のような赤毛に、銀色の瞳。

まるでお伽話に出てくるような人、という言葉がしっくりくる。

生涯祖母が、愛していた人。

亡くなるまで、想い続けていた人。

今祖母は、祖父の元に行けたのだろうかと、ふと思って笑う。

きっと辿り着けたに違いない。


「絵美ーー!あんた何やってんの⁉︎」


母ーー百合ゆりが、障子の向こうからひょっこりと顔を出す。その顔は、亡き祖母によく似ている。


「今日は遺品整理に…て、まーたそれ見てたの?」

「別に良いでしょ?これ、おばあちゃんがあたしにくれたんだし」


呆れたように眉を下げた百合に、絵美は少しトゲのある声で答えた。


「何がそんなに良いかなー」


部屋に入ってくると並んで畳の上に座り、百合も一緒になって絵を覗き込んだ。

彼女は絵美と違ってまったくと言って良いほど絵画に興味がない。

絵と絵美を見比べながら、しみじみと呟いた。


「あんたは本当じいさんに似たわね」

「おじいちゃん?」

「そうよ。絵美のじいちゃん」


年季の入った棚の上に立てかけられた写真を見上げる。


(似てないと思うけど)


確かに祖父の目の色だけ受け継いではいるが、彫りが深いわけでも鼻が高いわけでもなく、ペラっとした日本顔に産み落としておいて何をいうかと、百合を横目でチラリ。


「やだ、違うわよー、性格よ性格。絵に没頭するところとか本当そっくり」


どうせあれもあんたが描いたんでしょ、と先程まで祖父の絵がかけられていた場所を百合は呆れたように指差した。


そこには真新しい額縁に入った絵が飾られている。

赤毛の男性と、黒髪の女性が仲良く腕を組んで立っていて、その向こうには生茂る青々とした木々に、隠れるように立つ洋館。

描いたのは百合の言葉通り絵美である。


「最近部屋にこもりきりで出てこないと思ったら、あれを描いていたのね。本当没頭すると、寝食忘れて描き続けるんだから。だからその歳になっても彼氏の1人や2人もいないのよ」

「うるさいなー。あたしの勝手でしょ」

「26の娘が今まで彼氏1人いたことないなんて心配するでしょー」

「良いの!あたしは絵が恋人なんだから」

「バカ言ってんじゃないわよっ!」

「ーーっ⁉︎」


思わぬ衝撃が頭にきて、舌を噛んだ。

叩かれたとわかったのは、隣の百合が口元に手を添えて「あらやだ。思わず勢いよくやっちゃったわ。ごめんごめん」と、まったく悪気がなさそうに謝っていたからだ。

じろりと睨みつけると、母は楽しそうに笑った。

一思いに笑って満足したのか、優しげな笑みを作る。


「ーーこの絵、とっても素敵。きっと2人とも喜んでるわ」


絵美も同じように自分が描いた絵を見上げた。若かりし頃の2人をモデルに、この絵の洋館をバックに描いた。

黙って絵美は、手元の絵に視線を戻す。

腕の中に収まった絵を見て、ああと絵美はまぶたを閉じた。

絶対にダメだと、譲らないと豪語し続けた人はいないのか。

この絵が、この絵の主人が祖母を連れて行ってしまった。無性に、憎らしくなる。

あれだけ欲しいと思った絵が、ただ憎らしくただただ恨めしく、涙が出るほど綺麗だと思った。

横に同じように座っていた百合が、凛音そっくりな顔で目を丸くした。


「あら絵美、あんた何泣いてんの」

「っーー、うるさいなー」

「今になって感傷的になって、本当困った子だわ」


絵美を腕の中に収めて、幼子にする様に優しく頭を撫でられる。

凛音が常世へと旅立って行った日。

バタバタと慌ただしく過ぎて行ったお葬式の日。

そのどちらも涙を流さなかった絵美は、笑って祖母を見送った。

むしろまた、ひょっこりと顔を出して、不思議な世界のお話を聞かせてくれる、どこかでそう自分に言い聞かせていたのだ。

けれど祖母は一向に姿を見せず。

残された絵を手にして、初めてこの世に彼女はもういないのだと自覚した。


(おばあちゃん、おばあちゃん)


会いたい。話したい。笑い合いたい。


ポタリ。と涙が絵へと滑り落ちた。

滲んでしまう。でももう止まらない。


よしよしと頭を撫で続ける百合の手が、驚いたように止まる。


「あれ、あんた。瞳の色だけじゃなくても受け継いだのね」

「ひっひっく、ふぇ…っ」


なんで今感傷的になって泣いてる娘相手に、意味のわからないことを言うのだこの親は。

崩壊した絵美の涙腺は止まらないし、嗚咽は出るし、大した返事も出来ずに母の茶色の瞳を見上げた。


「えー、でもそっかそっか。」


絵美を置いて1人で納得する母は、なぜだか嬉しそうな、どこか寂しそうな笑みを零すと、ポンポンと背中を叩いて身体を離す。


「仕方ないし、」


ーー何が?


「まあ、命だけには気をつけて」


ーーは?


「いってらっしゃい!」


手を振る母は、それはそれは楽しそうに笑っていた。


これは冒頭の始まりに過ぎない。

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