The other side of the mirror

うさももか

The other side of the mirror

 ———知ってる?あの日だけだよ。


よみがえる。耳の奥で反芻する、あの声。


———今日しか、ないんだよ。

知ってる。分かってる。今日しか、ないって。


凍り付いた自分の足は、もう制御不可能なほど小刻みに震えていた。視界がふらふら揺れて見えるのは、古びた廊下のせいじゃないだろう。


だめだ、もう限界なのに...。


耳元を掠める、時計の針の音。

一秒一秒、この音が溶けてゆくように、透明な空間が私の前に残されている。

ただ、私と、刻まれている時間と、冴えるような冷気が、漂っている、それだけ。

くすんだガラスをはめ込んだランプシェードから、ぼんやりとした光がふらふらと宙に浮かび上がって、埃っぽい匂いを充満させて。それが唯一ほのかな温度を感じさせていた。


気が付けば、指先をひたすら擦り合わせてどうにか体温を保っているような状態だった。

小指の爪が、青紫に染まりかけていた。


———魔女みたいな指。


フラッシュが目の前で飛び散ったように。

氷がはっと砕けたように。

振り返った先には、ぼんやりと影を落とした、漆黒の廊下が延々と伸びていた。

そうだ、それが「普通」なのに。

人差し指を強く握り締める。

爪の色が紫に変化してしまう、そんな私のことを魔女みたいなんて表現する人は、「あの子」しかいない。

でも、でも、あの子はもうここには...。


艶やかな廊下に一筋伸びる、光。視線はその上を辿る、誰かに誘導されるように。

行きつく先は、廊下の消失点。緑の窓枠に切り取られた、真四角の外界。


...存在しない、はずなのに。


再び視界が揺れだす。

...誰が、ここに?




 ———知ってる?四年に一度だけ、もう二度と会えない人に、再会できるって。


いたずらっ子みたいに、黒い瞳を輝かせて。私の耳元で話していたことが、今ここで、現実になりかかっている。

あの子——未央奈が、二年前に言ったこと。

今日まで、何度も何度も私の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。

———私たちが、高三になったら、ちょうどその日になるんだよ。すごくない?記念の年だよ。

頬を紅潮させて、私のことを覗き込んで。さほど相手にしていない私にはお構いなしで、あの子はしゃべり続けていた。


 今、この空間に生きているのは、私一人だけ。

灯りという灯り全てが消えて、影だけが溶け込む世界。そこに浮かび上がる存在は、私ひとりだけ。

それが現実のはずなのに。


パタパタパタ——。


校舎全体に響き渡る、私の足音。それが反響するたびに、追いかけてくる。


パタパタパタ——。


もうひとつの、足音が。

もうひとりの、足音が重なっているみたいに。


やっぱり、あの子は、あの子は、ここに「いる」んじゃない?


———ねえ、絢音。

未央奈の伏し目がちな瞼に、日差しが反射する。長い、まつ毛の影が映る。

———もしも、私がいなくなってたら、その日に会いに来てくれる?

え?

———もしもだよ、もしも。もしも、高三の2月29日に、私がいなかったら、絢音は私に会いに来る?


なぜ?なぜそんなこと、今、私に、そんな真剣な眼で、私を見つめながら、言うの?

私の思考回路が幼すぎるだけ?

でも、どんなに私のありったけの情報をかき集めても、未央奈の考えていることは理解できそうになかった。


ほんの数秒。

私の答えを待つ、未央奈の瞳。日向の中で、溶けてしまいそうなほど薄い色素の瞳。

理解できるとか、できないとか、そんなことは関係なくて。

「会いに行くよ、絶対」

彼女の瞳に吸い込まれそうになる自分を抑えるために、その時間に終止符を打つために、私の唇は勝手に動いていたんだ。


彼女の口元がほころぶ。

花びらが風に乗って、ふわふわ、空気が薄桃色に染まっていた。



 ふっと脳内のフィルムが途切れる。

視界に色の欠片もない。銀色の鈍い光を滲ませた、長方形の鏡が何枚も私の方を向いている。


腕を伸ばす。氷の表面に指を滑らせるように。

「...未央奈」

反響する私の声。聞こえただろうか、未央奈に。私の呼び掛けは、ちゃんと届いてるだろうか?

「未央奈」

なぞる。

「未央奈」

何度も、指を滑らせる。何度も、何度も。

「...会いに来たよ、ちゃんと」

指先から体温が、鏡に吸い取られるみたいに、鏡に自分が溶けてしまうんじゃないかと思うほどに、冷たさも温かさも、私には判別できなくなっていた。

「未央奈、聞こえる?」

何か聞こえてくるような気がしてならなかった。何ひとつ私の感覚からこぼれ落とさないように、目を閉じて、ただ耳に神経を向ける。


カタ...カタカタ...。


風の通り抜ける音。

鏡の表面の凍てつくような鉛色が私の前にある。

もう指先は、私から切り離されてしまったように動かない。

「未央奈...」

向こうの世界に私の声は吸い込まれてゆく。鏡の向こうの世界に。

冷え切って乾ききった、「ここ」には時間も音も溶けてゆく隙間がないみたい。


 あの子は、未央奈は一体、どこで待っているの?


瞼の裏に、僅かな光が明滅する。

誰か、いるの?もしかして...。


はっと瞼を開く。

青白く浮かび上がった指。視線を、感じる。

ゆっくり目を上げる。

私の瞳は、黒い球体を、捉えた。

漆黒に潤み真っ直ぐに私を見つめる、真っ黒なビー玉のような、いたずらっ子のような、瞳。


違う、違う、これは...これは私じゃない。


瞼は見開いたまま、動けなかった。でも、鏡の向こうは、静かに私の瞳の奥を見つめるだけ。

その瞳には、私が映ってる。はっきりと、私の姿が。


私じゃない。鏡に映るのは、私じゃない。私じゃなくて...。


「み、おな...」

彼女の唇に、指を伸ばす。艶やかに潤んだ鏡に浮かぶ彼女に。

震える指は自然と吸い込まれる。

そして、一瞬。

私の指が触れた、その一瞬。


バリバリバリバリバリッ———!




 突然、消えた。

未央奈は私の世界から、一瞬のうちに消えてしまった。

あの日、じゃあねと手を振った、並木道の角で。さくさくと踏みしめる、雪が崩れる音と未央奈の足音。私の耳に残る、彼女だと判別できる最後の欠片。

『高一女子生徒 帰宅途中行方不明』

黒々としたゴシック体が整然と並んでいたのは、翌朝。

ちょうど、2月28日のことだった。


 だから私は決めたのだ。今日、彼女に会うしかないと。

本当か嘘かなんて、どうだっていい。この校舎に眠る秘密があるなら、何がなんでも掴み取るために。

 4年に1度、2月29日。もう二度と会うことのできない人と、たった一度だけ、通じる境界が現れる。世界の境界——それが鏡。

でも。


 足元に、鉛色の三角形が散乱していた。黒い影を映して、破片は鈍く光る。

「何で...」

はっと振り向く。

誰もいない。いるはずがない。じゃあ、未央奈は?

「どこに?」

無意識のうちに走り出す。漆黒の校舎を、ゆく当てもなく。どこかにその「影」があるんじゃないか。

全ての色を失った、モノクロの世界。ここが、本当に私の日常の世界?

「未央奈」

窓の向こうに、純白の羽がこぼれ落ちていた。

ああ、あの日と同じように、世界が真っ新に塗り替えられる。

「え」

視線を感じた。

固まったまま、動けない。

金縁の大きな丸い鏡。錆びたような黒い筋を残しながら、薄闇に溶け込む。

その中に、佇んでいた。


待って。


まだ何も、心の準備はできていないのに。


「——会いたかったよ」


鏡からは離れているのに、耳元で囁かれているみたいに彼女の息遣いがはっきり聞こえる。


「絢音は、ちゃんと約束守ってくれるって、信じてたよ」


冷たい。怖い。未央奈の声じゃない、こんなに冷え切った声。


「長かったねぇ、二年。ずーっと今日を待ってたんだよ、楽しみに」

「え」


唇の端がきゅっと持ち上がる。

背筋に走る、冷気。


「死んだ者と生きている者の境界、それが鏡」


やめて、やめて、もう聞きたくない、やめて———。


「ありがとう——ちゃーんと会いに来てくれて」


「なんで、なんでそんなこと」


「なんで?そんなの——素直に返事したのが悪いんだよ」


——「会いに行くよ、絶対」

ぐるぐる頭の中を回り始める。あの時、あの時の私がいけなかったの?


「なんで私が「ここ」にいなくて、あんたが「ここ」で生きてるのよ」


生きてる?


「だから、ちゃんと約束してくれたお礼、ね」


そこにだけ妖しく血色を漂わせる、彼女の唇がもう一度、持ち上がる。


「今度は、あんたの番だよ、絢音——」


全身に、彼女の声が響き渡る。何度も何度も。


やめて、やめて、待って——。

「未央奈————!」




 もう一度、瞼を微かに開く。

目の前で、くるりと何かが揺れる。柔らかな、ポニーテール。


待って、なんで、なんで未央奈が。未央奈がそこに立っているの?


「——じゃあね、また四年後に、会えたらね」


あの時と同じように、ほころぶような、満開の桜のような笑みを浮かべて。

漆黒の廊下の上を、軽やかに歩いてゆく。


待って。待って、私は——。


窓に映る、金縁の鏡。その中に立ちすくむ、私。

雪はひたすらに降り積もる。

世界を白銀に染めてゆく。


『高三女子生徒 行方不明』


今日は、2月29日。



 

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The other side of the mirror うさももか @usamomoka

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