まどろむは竜の鉤爪

うぉーけん

まどろむは竜の鉤爪

1.


没有不透風的牆メェイイォウプゥートォゥフェンドゥーチィァン(風を通さぬ壁はない)〟

    ――中国のスパイ手引書の一文



 偉大なる先駆者が書いた本はそう述べていた。

 空間にも組織にも、風は吹き込む。


 では、人の心はどうだろうか?


 無論、人の心にも。あらゆる壁と同様に風が吹き込むのだろう。

 テクノロジーが発達し、目に見えない電子的手段が高度に発達した現代でも、けっきょくのところ、最後にものをいうのは人同士の関係性であるのは明白だ。


 そこには、きっと。


 夜の淵にたたずみ、陸 胜雪ルー・シェンシュエは思った。



 ロケットエンジンから高温の炎を発し、高度四万メートルを飛行する高高度無人航空機に導かれ、終末誘導に達した東風21号DF-21改良型対艦弾道ミサイルASBMは弾道弾迎撃ミサイルの防御を掻い潜り、海上の航空母艦に突き刺さった。


 対艦弾道ミサイルは通常弾頭であったが、乗員に逃れられない破滅をもたらした。弾頭および空母それ自身と、搭載する航空機の弾薬と燃料がもろともに燃え上がる。


 炎と衝撃があがった。巨大な爆発が発生し、巻き上げられた水蒸気がドーム状の被膜を形成。白い霧が瞬時に霧散した直後、アメリカの力の象徴そのものを燃料とし、天に盾突く獄炎が台湾海峡を赤々と照らし出す。


 世界は変貌したと、人々は確信した。


2.


 篠突く雨が止み、嘘のように天気は回復しだした。暗い雲が吹き払われ、青い空が覗きだす。雲上から差し込み始めた陽光が無数の光の柱を生み出し、街並みを鮮やかに彩った。


「雨、あがっちゃいましたね」


 シェンシュエの囁き声に、窓の外を見ていた司書のリタ・ゴールディングはほほ笑んだ。小首をかしげたときにセミロングの金髪が優雅に揺れ、色合いのままに糖蜜のように甘い香りが漂う。

 ハーフリムの眼鏡からまなざす視線は、優しげだった。


 小さな図書館には、シェンシュエ以外に利用者はいなかったので誰に遠慮する必要もないのだが、リタもまた同様に小声で返す。


「本を読むのに、天気は関係ないと思う。別に、好きなだけいてもいいけど」


 艶然としたウィスパード・ボイスが耳朶をくすぐり、シェンシュエははにかんだ。


「そうさせて、もらいます」


 赤く染まっているであろう頬を悟られぬように、顎を引き、読んでいた本に視線を落とす。二〇世紀最大の想像力と称されたロード・ダンセイニの本。ファンタジーの始祖とも言われる彼の作品のなかでも、とりわけ創作神話として知られるものだった。


「ゆっくりと、物語への没入を楽しんでいって」


 返却された本をあるべき場所に置くために、リタは仕事に戻っていく。


 シェンシュエは濡れた視界の端でリタの背中を見送った。


 本をぱたんと閉じる。マッシュウルフの頭を抱える。二、三言言葉を交わしただけのに。それがたまらなく嬉しくて、たとえダンセイニの著作といえども、もう文章の中身は頭に入らなかった。


 閉館までに、残り全部を読めないだろう。


 でも、そのほうがいい。雨宿りを名目に市営の小さな図書館に来た、というのは建前だ。読み終わらないうちは、晴れたあとでも、ここにいる理由になる。

 戦火とは遠い場所。ゆるやかに広がる静寂しじまが、隔離された理想郷を演出している。


 シェンシュエはもたざる人間だった。かりそめの人生を生き、目覚めのときをひたすらに待っている。それはまるで、生きながら夢を見ているかのようだ。まどろみを導く灯台はない。単なる中身のない虚ろなガラス容器。

 あるいは、あらゆる音を吸収し、反射することなくいつか溶け消える雪。


 空虚さの象徴。


 それがシェンシュエという少女だ。


 だから、本を読むと熱い血潮を受け入れる鋳型になれた気がする。

 物語は、空想だ。だがたしかにそこに厳然として存在するのだ。本のなかにある誰のものでもない人生が身体のなかに流れ込み、シェンシュエは自分がひとかどの人間になれたと思え、世界に居心地が良い。


 ダンセイニの創作神話は、世界はまどろむ神の夢に過ぎないと言っていた。

 でも、それでいいのだ。たとえ儚く脆くあっても、夢のなかに生きられるのならそれはとても幸せなことなのだから。


「もし叶うのなら。この夢が、ずっと続きますように」


 シェンシュエにとってリタ・ゴールディングという女性は、物語の館に住まう夢の案内人だった。


 たとえ慰めにすぎないと、自覚していたとしても。


 ◆


 あくる日。夜をまたいで、朝には晴れ晴れとした一日が約束されていても、シェンシュエの行動は変わらない。

 シェンシュエは、宿命のように図書館にやって来る。本に耽溺するのが世界のすべてであるように。いつわりの生のなか、空想に耽ることが唯一許された快楽だと知るが故に。


 アネイリンの歌を綴ったサトクリフの詩的な文章に酔っていると、花の香りが漂った。


「イギリスの作家が好きなの?」


 見上げれば、柔らかい微笑が微熱となって血管を伝っていく。風邪による熱とは違う。気だるげな感覚とは異なる、芯から広がる温かさが心地良い。


 リタと話しているときだけ、白く霞む世界がくっきりと色鮮やかに描かれる。


 視線だけで、シェンシュエは大人の女性を見やる。


「神話の時代に生きた人々の、感情が籠っているような気がして。作者が込めた思いを想像するのが、すごく楽しいんです。言葉の旋律が、わたしという人間の一部になる」


「そう。じゃあ、私からのおススメ」


 リタは抱えていた一冊の本を差し出した。整えた爪先も、細くなめらかな指先も、優雅な細腕もすべてがさまになっている。ケルト神話にあらわれる、妖精のような肢体。

 見ているだけで、まるで陶然としてしまう。


 シェンシュエは本を見る。著者の名前を読み上げる。内気な少女の言葉は常に控えめで、ごく短い文節からなっている。


「ラドヤード・キップリング」

「ええ。イギリスの詩人ね。活躍したのは、もうかなり昔だけど。ディズニーも、彼の作品を映画化してる」

「ジャングル・ブック」

「あら。知っていたのかしら」

「むかし、一冊だけ読みました。有名ですから。でも、詩集は初めてです」


 繊細なガラス細工を扱うように、丁寧に詩集を受け取る。思いが詰まっているようで、見た目以上にぶ厚い錯覚。どんなに価値ある金塊であっても、ここまで満たされることはないだろう。


 上目遣いで囁く。


「キップリングの言葉が、どんなふうにわたしを形作るのか。楽しみです」


 視線を下げ、ページをめくる。目についたのは〝おお、東は東、西は西〟という一節だった。

 タイトルは東と西のバラード。


 一瞬、心に影が落ちた。リタは白人だ。アメリカを象徴するかのような、金髪に青い目。未来と夏の匂いがする女。移民二世代目の中国系であるシェンシュエは、そこに深い断絶があるような感覚に陥った。


 シェンシュエには、この街に居場所なんてなかった。リタがいる図書館だけに、安らぎを見出せたのに。心が渇いて、二の句が継げない。


 彼女が言わんと欲していることが理解できなかった。

 沈黙に穏やかなさざなみをたてるように、リタが口を開く。


「その詩には、続きがあるの」


 謎めいた声音。曇らせた眉根のまま、シェンシュエは続きを待った。彼女から直接、言葉を聞きたかった。

 リタが美しい朱唇を開きかけたとき、彼女の同僚が声をかけてきた。利用者の質問に対応してほしいようだった。


「ごめんなさいね。続きは、また」


 頭を下げ、微香だけを残し去っていく。

 シェンシュエは詩の続きに目を通す気になれず、詩集を閉じた。読むべきか、読まざるべきか。迷う。そこに望むべき言葉が書かれていなかったとしたら? そう思うと、心が萎える。

 でも、リタが薦めてくれた本だ。今は閉じてしまっても、じきに読んでみる気力がわいてくるかもしれない。


「借りて、いこうかな」


 ひとりごち、黄昏のなかに本を抱え上げる。斜光が、そこだけ黒く切り抜かれる。


 そうして、図書館を出ていった。


 本を大切に胸に抱いていると、入り口の植え込みが視界の端に映った。直接は見ない。さりげなく吐き捨てられたガムが、郵便箱デッドレター・ボックスを介してのメッセージをやり取りしたいと合図を伝えている。


 何の変哲もない一学生のように、シェンシュエはごくふつうにふるまう。この国の人間は、なにかにつけて実務的で、古い世代のイギリス人の詩的さとは無縁だ。


 監視探知手順(SDR)などとカッコつけた略語でいわず、単純に対監視カウンター・サーベイランスと呼べばいいのに。シェンシュエが培ってきた監視を監視する行為もまた、立派な諜報技術トレードクラフトだ。


 警戒している少女を監視する目は、見つけられなかった。


 ◆ 


 数日後の夜、シェンシュエは手順に従いメッセージを回収する。

 ファストフード店への道をたどりながら、途中で靴ひもを結ぶふりをする。指定のポイントである地面に打ち込まれていたのは、ねじ蓋が取り付けられたアルミ上の葉巻入れだ。

 KGBの手法とは、なんとまあ古式ゆかしいのだろうか。


 中身を広げる。一回かぎりの暗号帳ワンタイム・パッド(OTP)で、控制官クオンチーであるアレックス・リウから連絡が来ていた。1917年に完成されたOTPは化石にも等しい旧式の暗号ではあるが、適切な用法で運用されるかぎり機械まかせの総当たり解析プルートフォースによる力業ですら解読不能な唯一の暗号システムでもある。


 だから、物量と組織力を必要とする暗合手法だった。


 冷戦時代には、アメリカのCIAも、イギリスの情報機関であるSISもソビエトのKGBが運用するOTPには悩まされた。


 ひとりきりで、夜の孤独が伸し掛かる自室へ戻るシェンシュエ。ハンバーガーに手を付ける気にはならなかった。

 うろん気な光を放つデスクライトの灯りの淵で、コードブックを使い復号する。


 アレックスは告げていた――眠れる者たちの目覚めを。鉤爪をたどれば、竜が誰かがわかる、そう述べたのはアメリカのとある新聞社だったか。


 シェンシュエもアレックスも、尊大なる華竜の爪の一片だった。


 そこに、自由意志などという幻想はなかった。欺瞞と嘘だらけの生活。人生なぞないふりをし、あるはずのものを見つめなければ、孤独とは無縁でいられた。


 だから、シェンシュエはそう生きてきた。もう、キップリングの詩集は読んでいられなかった。

 目覚めの悪夢が、始まるのだ。


 すでにすべてが露見し、破滅が待ち受けていたとしても。


 ◆


 権謀術数にいそしむ誠実さビザンチン・キンドーというCIAが暗号名で呼ぶ組織、PLAユニット61398はつまりは中国のサイバー軍である。


 中国人民解放軍には総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部という四つの総部が存在する。総参謀部は共産党中央軍事委員会に従い戦争計画立案、指揮命令を担う司令組織であるが、情報戦もその任務に含まれている。


 なかでも「61」という頭の番号が示す通り、61398部隊は中国人民解放軍総参謀部第三部二局に属している。総参謀部技術偵察部61195の一部ともいわれるこの部隊は、主にアメリカやカナダなどにサイバー戦を行うのを史上命題としている。


 空母の撃沈から始まった戦争は、長期戦のかまえをみせている。61398部隊が舞台を整えたこの作戦がうまくいけば、自分たちがいまだ安全と信じ切っているアメリカ本土に、心理的にも経済的にも甚大なショックを与えることになる。


 すべてはマトリクス・ゲートの輝きのなかで完結する。


 長大な時間をかけ収集した情報を使い、黒竜江省の哈爾浜ハルビンから開始されたサイバー攻撃は太平洋を挟み、はるか彼方にある原発の送電網システムに干渉。重大な障害を発生させ、アメリカの重工業地帯に大規模な停電を引き起こした。


 夜の漆黒のなかにざわめきと混乱が広がるなか、シェンシュエはアレックスたちとともにあった。予備電源用に備蓄していた化石燃料が底をつく前に、送電システムは復旧するだろう。

 アメリカの重工業地帯を、長いくらがりに閉じ込めておく必要があった。

 暗黒にまぎれ、アメリカの主要電力網に物理的な破壊を行う。そのために、シェンシュエたちは何年間も良き市民としてアメリカで暮らしてきたのだ。


 アメリカの光と影、そのどちらでもない空間に漂い、潜み、いつわりのなかを彷徨う幽霊。そこに存在するが、真実の生を生きていない潜入工作員スリーパーたち。


 いま、仮面レジェンドを脱ぎ捨てるときが来た。



 だが結果的に言えば、彼らは失敗した。


3.


「至急、至急。監視対象が窓の下を凝視している。ブラヴォー・チームの位置が露見する。狙撃せよ!」


 ベースに外周から監視をしていた狙撃手の叫びが無線から流れた。秘匿は破れた。同時に遠雷にも似た発砲音が木霊し、狙撃銃の一撃が窓ガラスごと工作員の頭部を吹き飛ばす。


 緊急の知らせは、隠密行動を主に侵入を試みる段階から、緊急突入へ作戦が切り替わったことを意味していた。


「ゴー! ゴー! 突入!」


 中隊長の怒声が響き、クワンティコからやって来た特殊部隊の隊員たちが雪崩を打って建物に突入していく。短機関銃の射撃音と、マズルフラッシュの明滅が闇夜を激しく瞬かせる。


 無人航空機の監視映像を見守る男たちは、重く頷き合った。


 FBIの防諜部門である対敵諜報部CDのチーフであるファイアストンは重大事件対応群CIRGの司令官に態度だけで感想を示し、ため息をついた。ついに戦闘が始まった。

 検問から逃げ出した工作員たちを追い詰めた。その先にあるのは、絶対なる力の行使だけ。のっぴきならない現状では最善ではないが当然の選択だ。だが、マスコミやネットは大騒ぎになる。対応を考えると今から頭痛がする。


 FBI内で戦略スパイOAと呼ばれる、依頼を受けて敵対組織へ深く潜り込む情報提供者がもたらした情報は正確で、ハンドラーたるファイアストンを満足させるものではあった。彼らの情報精度は単なるタレコミ屋である情報スパイIAよりはるかに信頼できる。


 遅きに失したとはいえ、すべてが手の内にあった。工作網も、人員も、作戦内容も、装備も対敵諜報部は把握していた。

 おかげで原発への破壊工作を未然に防げたが、激しい銃撃戦になればFBIの隊員にも犠牲がでるだろう。


 若者たちの逃れえぬ死を予感し、ファイアストンは顔を曇らせた。


 ◆


 なぜ作戦が露見していたのか、という疑問はもはや意味をなさなかった。


 まるで事前に作戦を知り、待ち構えていたかのような検問に引っかかり、逃げ出した。二台のオフロード車に乗り込み、短機関銃や爆薬で重武装していたのだ、言い逃れはできなかった。

 州警の追跡を振り切り、廃墟じみたセーフハウスのひとつに隠れ、次の一手をアレックスを始めとした仲間六人と話しをしていた。


 見張りが窓の外をのぞいた瞬間、窓ガラス越しに頭部を撃ち抜かれて即死。残りの見張りたちもまったく同じ運命をたどった。

 瞬間的に三名が死亡。舌を巻くほど見事な号令射撃コマンド・ファイア。複数の射手が同時に複数目標を撃つ、高度な訓練を受けた射撃法だ。


「銃を――」


 アレックスが叫ぶ。扉破壊槌バッテリング・ラムによりドアが打ち壊され、投げ込まれた閃光手榴弾のまばやい輝きと音が部屋を覆いつくす。男たちが瞬間的に無力化される。


 言われなくてもわかっている――対テロ特殊部隊の急襲だ。


 短機関銃の9ミリ弾がアレックスの顔面を撃ち抜く。類まれな忍耐力を持った指揮官であった彼は、脳漿をまき散らして死んだ。敵国で長い雌伏の時を過ごしたというのに、呆気ない最期だった。


 銃声の直前。大気に緊張が漲るのを感じ、獣の情緒で備えていたシェンシュエは光と音にも怯まなかった。

 反射的に七九式短機関銃をかまえ、特殊部隊の男たちに向かって引き金をひく。


 教本通りの見事なスタックを組み、突入してきた隊員。折り重なるようにポジショニングをしていたふたりをまとめて撃ち抜いた。連射されたトカレフ弾がボディアーマーを貫通し、鮮血が噴き出す。


 特殊部隊側にとっても突入は即時の決断だったのであろう。タイミングがずれたままに懸垂下降してきた一団が窓を割り、室内に乱入してくる。いまだ行動可能だった仲間のひとりが彼らと銃撃戦を開始する。


 混沌と罵声が吹きあがり、硝煙と血の臭いが嵐のように荒れ狂う。


 シェンシュエは直感した。すでに忠誠も主義も意味をなさない。ただひたすらに、自らの生残のために戦うだけになった。竜というにはほど遠い。

 ただただ、みじめに地を這う蛇のような戦いだ。


 銃を手に取り破壊をまき散らし、血で血を贖い、もう一日生き延びて。


 ふと疑問が浮かぶ。


「生き延びて、わたしはなにをするの?」


 親もなく友人もなく、帰属すべき居場所は遥か遠く。差し伸べられた手を見えないふりをして、ここに来たのは自分なのに。孤独を歩み、なにもないのに、ただ命だけがあってなにを成せというのだろうか。


 あの無風の甘さが漂う静かな場所と、銃弾が金切り声をあげ死が吹きすさぶここはあまりに縁遠い。


 引き金を引くと、マズルフラッシュの赤々とした輝きが網膜に幾度も反射する。短距離照準器ゴーストリング・サイトの向こう側で、赤い飛沫が次々と乱れ飛ぶ。機関部から排出された薬莢がからからと床に零れ落ちる。


 命を養うために命を奪うと、脳裏に暗い影が差し込んだ。むかし読んだたった一冊のキップリングの本のなかで、蛇はなんと言っていた?


「わたしは死だ」


 記憶とともに言葉を漏らした瞬間、窓が蜘蛛の巣状にひび割れた。ぴしりという小気味よい音。同時に、ガラスを貫通したウィンチェスター・マグナム弾が胸部を貫いた。狙撃された。濡れた熱さを感じ、激痛が遅れてやってくる。

 致命的部位バイタル・ゾーンへの命中弾。


 弾丸がやわらかい内臓をおしひしぎ、世界の根幹が圧壊する。


 衝撃の大きさに、シェンシュエはくず折れた。

 血のあぶくを口の端からこぼしながら、あざ笑う。とめどない嘲笑。いまさら真実に気がついた。天啓が現実を排し、無意識のうちに心が迸る。

 なんと滑稽で、愉快なのだろうか。


 なんだ。もう、はるか昔にわたしという存在は言葉によって形づけられていた。それだけではないか。

 だというのに、わたしはあの図書館で何になれると夢想したのだ。金髪のよき助言者メンターに導かれ、小さな幸福に包まれた誰かになれると望んでしまったのか。


 ほんとうに、馬鹿馬鹿しい。


 けたたましく笑うと、痛みに涙が溢れてきた。子供のように大粒の涙をぼろぼろと零す。


 倒れたために外壁に阻まれ、姿を見失ったのか。狙撃手からの二射目はなかった。代わりにとどめを刺そうと近寄ってきた別の隊員を銃撃し、残弾が尽きるまでトカレフ弾を食らわせてやる。

 春節の爆竹のように男の体がぱんぱんと跳ね上がり、誰かの家族か友か恋人か、なに者かであったはずの彼はばったりと倒れ死ぬ。


 シェンシュエは、反吐まじりの赤い塊を吐いた。


 熱い血潮を垂れ流し、頭の芯が冷える。凶悪な獣のように慟哭しているのが、自分だとようやく気が付いた。


 血が胸からあふれている。鮮烈な赤色は、心臓が破れ大出血している証拠だ。止めようがない。全身と脳に残されていた血中酸素とアドレナリンが消費しつくされ、魂の燃焼が止まり始める。

 瞬く間に血圧が低下し、視界が白く霞む。


 心臓が破壊されて生きていられる時間は、最大でも十五秒ぐらいだっただろうか。死に鷲掴みされているのがわかった。


 短機関銃があまりに重たくて、シェンシュエは支えていられなかった。どうでもよくなって、取り落とす。弛緩した腕はゴムのように伸び切っていた。リノリウムの床の冷たさが、もう感じられない。体温のほうがずっと低いのだ。


 血も涙も、底を突いた。


 歯が震え、まるで冬山に放り出されたように寒い。

 薄れる意識のなか、シェンシュエの脳裏を掠めて溶けて消えたのは、楽しかった幼少期の思い出でもなく、死んだ両親のことでもなく、なにも浮かばぬ祖国のことでもなかった。


 唯一の心残りが、言葉となって廃墟にまろびつ木霊する。


「そういえば。キップリングの、詩集……。返せなく、なっちゃっいました……ね」


 ごめんなさい。


 漆黒の双眸が白く淀みはじめ。

 意識が深く、沈んでいく。夢の続きは、見られそうになかった。


 もう二度と。


4.


 終戦がニュースで流れるなか、リタはカウンターから顔を上げる。

 目の前には、ファイアストンの固太りした姿があった。


「監視任務、ご苦労だったな」


 唇だけを動かし、誰に聞かせるでもなく。岩のように厳かで、冷徹な上司は去っていった。ファイアストンという熱い質量がいなくなると、空間に穴があいた錯覚がする。

 それ以上、労いの言葉はなかった。


 リタは吐息をこぼす。自分は、上司に命じられた職務を遂行しただけだ。簡素な労い以上の、なにがほしかったというのだ。


 司書の真似事。ここの仕事は、知的で楽しかった。

 それに。もはや思い出になってしまった邂逅もあった。


 リタは無言で、カウンターに置かれた本を見る。心がざわついた。ファイアストンがわざわざ置いていったのだろう、図書館の蔵書だった。


 キップリングの詩集。


 ほんの少し前に、はにかみ屋で友達のいない少女が借り出していったもの。


 後悔とやるせなさが押し寄せる。


「私は、よき羊飼いグッドシェパードだった」


 せめて少女に、キップリングの詩の意味を聞かせてやるべきだった。

 たとえ私と彼女の間に育まれた関係性が、裏切りと裏切りのなかでのみ形成されていった密やかで致命的な刃であったとしてもだ。


 東と西のバラードは、東西にそびえたつ二つの超大国の断絶を詠ったものではない。キップリングは最後にもう一度詩の冒頭部をリフレインさせ、結末を結んでいる。


〝しかし東もなければ西もない、国境も、種族も、素性もない。二人の強い男が面と向かって立つときは、両者が地球の両端から来たとしても〟と。


 それは、対立する二者が、いつかわかりあえることを示している。

 たとえ遠い未来の果てだとしても。

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