第2話 否定すると余計にあやしい

「柏原さん」

「……」


 会社の通路で板倉部長と出くわして、露骨に避けたらため息をついて呼び止められた。しぶしぶ立ち止まって振り返ると、彼は呆れたような顔をしている。


「なかったことにしてくれと言ったのは君だろう」

「……」

「僕は君に意識されすぎて、仕事に支障をきたしている」


 なんだと。何ごともなかったかのように振る舞っているのに、言うに事欠いて意識されすぎて?


「思い上がりも甚だしいです!」

「……」

「わ、わたしは部長のことなんとも思ってませんし、何もありませんでしたから!」

「声が大きい」

「っ」

「それに、何もありませんでした、という状態は作るものじゃないんだ。何もないことを強調するとかえって怪しいんだよ」

「……な」


 部長は、辺りを見渡して誰もいないのを確認すると、少し顔を近づけてひそひそと言う。

 その言葉にわたしがあんぐりと口を開けているのに構わず、気を付けてね、と言って通路の角を曲がって消えた。脳内で、部長の言葉が反響する。


「君と僕が何かあったんじゃないかって、皆勘繰っている」


 そんなことがあっていいはずがない。そんなことを噂されたら、わたしの人生設計が狂いまくりもいいところである。それでなくとも、入社してもうすぐ一年経つ頃であるがまだ恋人ができる気配すらないのに。

 イケメンで優しい高収入の彼氏をゲットするためには、部長とのスキャンダルなどもってのほかなのである。汚点、汚点だ。人生の汚れた点だ。

 部長が生理的に受け付けないだとかそういうことではない。清潔感漂う大人のいい男だ、優しげな雰囲気の漂う造作やその辺の若造には出せない色気、そして知的でさまざまな機微に敏感な気の使いようは、理想の上司として女性社員からの人気も高い。ただ、よく考えてみてほしい、うちの父親よりも年上だ。ありえないだろう。

 どう転んだって、部長がいくら責任を取るとか言ったって、ありえないのだ。


「……」


 オフィスに戻ってちらりと部長の席を見る。先ほどのことなどなかったかのように淡々とパソコンの画面に向かっている。自分の席につきながら、わたしは彼の言葉を考える。

 皆勘繰っている。それはほんとうのことなんだろうか。

 悶々としながら作業をこなしていく。意識してみれども、誰からも何も言われないし、変な目で見られているような気もしない。

 板倉部長の誇大妄想なんじゃないのか。

 そう思いつつ、時間は過ぎる。退勤の時間になって、わたしはロッカールームへ向かった。

 着替えていると先輩が近づいてきて、わたしたち以外にもたくさんの女性社員がいる賑わっている空気をはばかるように、ひそひそと耳打ちしてきた。


「ねえ柏原さん、おとといの夜なんだけど」

「……え?」

「板倉部長と何かあった?」

「……!」


 おとといの夜、それは、すなわち昨日の朝に直結する。

 動けずにじっとしていると、先輩はやっぱり、とため息をついてわたしの肩に手を置いた。


「飲み会の帰り、柏原さんべろべろに潰れちゃって、それで板倉部長も相当酔ってたけど、送っていく役を買って出たの」

「……」

「もしかして何か失礼なことをした? それで恥ずかしくて顔を合わせられないとか?」

「そんなんじゃありませんから!」


 思い切り否定してから、先輩の言葉をもう一度よくなぞる。何か失礼なこと?

 理解して、顔が赤く染まる。勘繰るとか部長が言うから、わたしはてっきり皆が、そういうことを想像しているんだと思い込んで返事をしてしまった。

 きょとんとしている先輩が、首を傾げた。


「そんなんじゃない、って?」

「な、なんでもないです」

「やっぱり何かあったんじゃ」

「何もないんです!」


 もう怪しい。完全にわたしは不審者だ。

 とは言えこれ以上何か言ってしまうと絶対ぼろが出るし、わたしはだんまり作戦に転向する。ささっと着替えを済ませて鞄を引っ掴んで、お疲れ様でしたの言葉もそこそこにロッカールームをあとにする。

 会社を出てとぼとぼと駅までの道を歩きながら明日からの身の振り方について考える。

 何もないことを強調するとかえって怪しい。言われてみれば、その通りだ。ほんとうに何もない状態なら、そんなことは言う必要すらないのだから。

 けれども、どうすればいいのだろう。

 二十二年間男性とのあれこれなどなかったし、そういう局面にいざ立たされると、いったい何をどうするのが正解なのか分からないのだ。


「うう……」


 たしかに、勉強やいろいろを頑張っていい会社に入って好物件彼氏を見つけるのも重要だ。けれど、そのまだ見ぬ彼氏を手に入れるために、わたしはもう少し、男性に慣れておくべきだったのではないだろうか。


 ◆

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