108

宮崎笑子

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第1話 部長と全裸でベッドイン!?

 何時に起きよう、と意識すると人間は起きることができるらしい。それを聞いてからわたしは眠る前になるべく、何時に起きる、と自分に暗示をかけるようにしている。

 だから、今日目覚めることができなかったのはきっと昨晩あまり強くないお酒を飲んだせいだ。

 ほろほろと芯からほどけるような頭痛を散らすように首を振り、のそりと起き上がる。


「……えっと」


 まず気付いたのは匂いだった。わたしの趣味はお香をたくことで、部屋はいつもそれらの独特な匂いに満ちている。鼻孔をくすぐる慣れた匂いがないことに違和感を覚える。

 それから、目を開けて、シーツの色がわたしのピンクベージュのものとは違うことに気が付く。そして自分が今の今までくるまっていた布団の質感の違いにも。


「……?」


 疼く頭を揺らして、定まらない視界を大きく見開いた。そして、わたしは喉の奥から絞り出すような、変な悲鳴を上げてしまう羽目になった。


「……きょあ!?」


 隣に人が寝ている。それも、裸で。

 見覚えのありすぎるその人の名前を悲鳴と同程度の音量で叫んだ。


板倉いたくら部長!?」


 そして即座に部屋を見回す。まったく見覚えのない内装だが、これは何となく分かる、俗に言うラブホテルとかいう場所に違いない。

 小耳に挟んだ知識だと、ラブホテルの内装と言うのは場所によってコンセプトが全然違って面白いらしい。この部屋は、可愛らしいいかにもな女の子が好きそうなピンク色を基調とした部屋だ。

 こんな可愛い部屋のベッドに、板倉部長みたいなダンディなおじさまが寝ているなんて面白い。

 そんな戯言が一瞬頭をよぎった。


「えっ。柏原かしわばらさん?」


 部屋の壁紙を見つめているわたしにお声がかかる。おそるおそる振り向けば、板倉部長が半ば起き上がろうと身を起こしかけているところだった。

 いつも会社で見ている柔和な顔立ちは変わらないけれど、いつもきちんとセットされている髪の毛や剃ってあるヒゲがぼんやり伸びているのは新鮮だ。

 ベッドで上半身を起こした板倉部長は、ぽりぽりと指で頬骨の辺りを掻いて眉を寄せた。


「えっと……これはどういう……」

「わたしが聞きたいです!」


 掴みかかる勢いで部長に詰め寄ると、彼は驚いたように身を引いて、それからわたしに掛布団を差し出した。


「とりあえず、前を隠そうね」

「……!」


 全裸だったのである。あまりの衝撃に自分の格好のことまで頭に入っておらず、全裸で部長に詰め寄ってしまった。穴を掘って埋まりたい。

 ぎゅっと布団を掻き抱いて身体を隠すと、半ば混乱しているわたしとは裏腹に、板倉部長はのんきなことを言い出した。


「今何時かな? 平日だよね?」


 大人な部長は、バツイチの部長は、こんなふうなことはよくあるのかもしれない。

 でもわたしは違う。二十二歳の今日まで大事に大事に、重いと言われようがなんと言われようが貫いてきた処女をこんなところで捨てるなんて、言語道断である。

 わたしが震えていることに気付いたのか気付いていないのか、部長はのんきな表情を崩さずに言い放つ。


「非常に申し訳ないとは思っているけれど……酔った勢いなんて何年ぶりかなあ……」

「……」

「やはり、こういう場合女性のほうが大事になりやすいわけではあるし、責任はきちんと」

「あの……」

「ん?」

「なかったことには……できないでしょうか……」


 わたしの提案が想定外だったのか、部長の表情がきょとんと狐につままれたようなものになる。そして、訝しげに、うつむいたわたしの顔を覗き込んできた。


「君は自分の貞操に誇りがないのか……なかったことになんて……」


 そこでわたしの涙の堤防が決壊した。


「わたし処女だったんですよ!? 記憶ないなんてノーカンにしたいです!」


 ぼろぼろ泣きながらの訴えに、板倉部長は心底困り果てたように呟いた。


「そうは言われても僕は覚えているし、うん、思い出してきた」

「ずるい!」

「責任は取る」

「嫌です!」

「そこまで嫌がらなくても……」


 鼻白んだ部長に背を向けて、わたしはわんわん泣きながらその辺に落ちていた下着を身に着けて服を着て立ち上がる。

 未だその痩躯をさらしている部長を、迫力がないかもしれないけれど涙目で睨んで、わたしはふんっと鼻を鳴らした。部長は、ぽかんとした顔をしている。


「帰ります! なかったことにしてください!」

「……」


 鞄を掴み上げ靴に乱暴に足を通して、ドアノブを握る。開かない。


「えっ」


 鍵がかかっているようで、まったく開く気配を見せないそれと格闘していると、背後に気配がした。


「お金を払わないと開かないしくみになっているんだよ」

「……」


 ラブホテルの仕組みすら知らないわたしを馬鹿にでもしているのか、振り向いて見た顔はおだやかに笑っている。知らず、まだ潤んでいる瞳に力がこもる。

 シャツをはおって、スラックスだけはいた姿の部長は、ドアの横にあった機械をいじってふうんと頷いた。

 それから、わたしの肩を掴んで部屋に引き戻す。


「落ち着こう、そしてこれからのことをきちんと話し合おう」

「何も、話すことなんてありません!」

「まあまあ」


 肩に置かれた手を払いのけると、部長はなんだかとても傷ついた表情を見せた。そんなふうにしょんぼりしてみせたってわたしの決意は揺らぎはせども変わりはしないのだ。

 鞄に手を突っ込んで財布を引っ張り出す。それを見た部長は慌てたようにまたわたしの肩を掴んだ。


「僕が出そう」

「結構です! 借りなどつくりません!」

「そうは言っても君にとっては大金だと思うけど」

「……」


 ラブホの宿泊費の相場など知りもしないが、仮にもホテルだ、それなりの値段はするのだろう。そしてわたしの財布には悲しいかな三千円しか入っていなかった。己の財力のなさに、もう笑うしかない。


「は、はは」

「柏原さん」

「あはは」


 笑いながら、腰の力が抜けていく。しゃがみこんだわたしを見下ろしているのだろう板倉部長は、黙っている。スラックスからぽつんと剥き出しになっている足の爪先を、へらへら笑いながら見つめた。

 やがて、彼はわたしの前から立ち去ってベッドのほうへ戻っていく。衣擦れの音がして、俯いているわたしにも、服を着ているのだろうことが分かった。

 やがて戻ってきた足は、しっかりと磨かれた革靴に包まれていて、もう隙はどこにもない。顔を上げれば、びしっとスーツを着こなしてロングコートをはおり、革手袋の向こう側には高そうな腕時計が巻かれて首元をマフラーできちんと隠している。

 ヒゲが伸びかけているのと髪の毛がラフなそれでなければ、完璧な大人の男である。


「ほら、立ちなさい」

「……」

「もう出られるよ」


 部長が手早く清算を済ませて、ドアを少し開いた。わたしは、のろのろと起き上がって部長の顔を見ることができないままにその隙間に身体を滑らせる。

 廊下に出ると、その、ホテル特有の非日常的なたたずまいに、ああ、と思う。

 ああ、わたしほんとうに、こんなところでこんなかたちで処女を捨ててしまったんだ。


「タクシーを呼ぼうか?」

「いりません」

「そうは言ってもまだ始発の時間じゃない」

「結構です!」


 大人の気遣いが、仕事中はなんて気の利いた人なんだ、と思えるのに今は、ただただ疎ましかった。

 部長の視線や気配を背後に感じながらホテルを出る。薄暗い街の景色が、今までとはまったく違って見えてしまって、そうたとえるなら、昨日まではダイヤモンドのようにきらきらと輝いていたのに、今はその構造を理解してしまってただの炭素のかたまりにしか感じられない。

 冬の早朝の冷たい空気がびしりとわたしを包み込んだ。


「柏原さん」

「……お金、お返ししますので、もうそれでなかったことにしてください」

「……強情だな」


 呆れたように呟くその低い声をわたしは聞かなかったことにして、歩き出す。ローヒールの靴音が鈍く響いて、ラブホ街を抜ける。

 駅に着くと、たしかにまだ始発には少し早い時間だったけれど、幸い十五分後にはもう来るらしい。

 鼻をすする。冷えた外気を吸い込んでしまって、痛いくらいだ。

 大事に、まだ見ぬ最高の恋人のためにとっておいた処女を、父親と同じような年齢の上司にご提供してしまったことや、彼の責任はとるという言葉や、お金を払わないと出られないラブホのシステムなんかが頭をぐるぐるめぐる。

 どうせ、どうせ二十二年間真面目で融通が利かないで勉強ばかりして彼氏など一人もいたことない。その結果、今の会社に無事就職できているわけなのだけれど、それだってわたしは、好条件のイケメン彼氏がほしいばかりに死ぬ気で就職をがんばったようなものなのである。

 間違っても、あんなおじさまと行きずりでなくしてしまうためにがんばったわけじゃない。

 社会人一年目でこんな厳しい荒波が待っているだなんて、いったい誰が予想した?


「……ノーカン……」


 そうだ。あんな記憶も一切ない夜なんて、ノーカンだ。どれだけ思い出そうとしても全然まったくよみがえってこないのだから、ノーカンに決まっている。

 記憶がなければもし彼氏ができていざそうなっても、問題はいっさいない。だってわたしは初めてなんだから。

 わたしの人生設計では、こんな出来事はなかった。そう、文字通りのノーカウントだ。


「よかった! ノーカンだ!」


 大声で叫ぶわたしに、清掃員のおばさんが胡乱げな目を向けた。


 ◆

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