月蝕領の姫君

下村アンダーソン

月蝕領の姫君

 〇

 

 ある夜、蒼く清冽な光が庭木を静かに濡らすのを、お屋敷の二階の窓越しにじっと眺めている少女がありました。年の頃は十かそこいら。すっと通った鼻筋と、白い肌と、月光と同じ色の眼の持ち主で、卑しからぬ身分と見えます。纏っている衣服も小さな体にぴったりと合っているうえ、あちこちに細やかな装飾まで施されておりました。

〈月光領の姫君〉あるいは〈月の君〉とも呼ばれるこの少女は、ゆくゆくはここ〈月光領〉を統べる運命にあった――それをまず、お伝えしておかねばならないでしょう。平凡な輩では決してお目通りさえかなわない、いうなれば要人だったのでございます。

〈月の君〉は〈月光領〉の王の、ただひとりの娘で、すなわちは後継者でありました。

 ですから〈月の君〉はお屋敷に籠って、将来のための勉学に日々励んでおりました。家庭教師が昼は十三人、夕も十三人、付きっ切りになって、あらゆる教養を仕込んだのでございます。彼女が解放されるのは、夜も更けたのち、眠りにつくまでの僅かな時間だけでした。

「ああ」

 と窓辺に頬杖を突いた〈月の君〉が溜息を零します。何とも悩ましげな様子で。

 勉強が不出来なのではありません。むしろその反対――この〈月の君〉には、生まれ持った不思議な力があって、覚えたことは決して忘れないのでございました。ですから誰に何を問われても、彼女は正確に答えを返すことが出来ました。

 たとえばこんな具合です。十三人の教師ととらんぷ遊びをしながら、窓の外を行き過ぎた馬車の台数を数えて記憶することが出来ました。朝食で供されたスープに入っていた豆の、ある三日間での合計数を、即座に答えることが出来ました。三年前の祭りで打ち上げられた花火の色と形を、絵に描いてそっくり再現することが出来ました。

 そんな風でしたから、〈月の君〉はどんな試験でも満点を取りました。どこかの研究所に入って研究をするだとか、国立図書館の古文書を紐解くだとか、そういった高度な学問の場に置かれたとしても、この姫君ならば立派にやり遂げるだろう――そう言う者も大勢ありました。

 しかし実際のところ、姫君がお屋敷から出ることはありませんでした。十の娘には十の娘の学ぶべきことがあり、また年相応の振る舞いもある――というのが、父君と母君の考えだったからです。

 もとより好奇心旺盛な〈月の君〉は、この仕打ちに初めのうち、猛烈な反発をいたしました。しかしどれだけ姫君が訴えても、処遇が変わることはありませんでした。つまらない授業を放棄しようとすれば、そのたびに鞭まで食らう始末です。ですから〈月の君〉は、この〈月光領〉に居続けるのが、ほとほと厭になっていたのでございました。

「月の光の当たらないところに行きたいな。そうすれば、お父さまもお母さまも、私を見つけることが出来ないもの」

 月の光の当たらない場所――その存在を、姫君は知っていました。通称〈月蝕領〉。夜でも決して月光のもたらされることのない、暗闇に覆われた、恐ろしく忌まわしい場所であるのだと、十三人の家庭教師は口を揃えて、彼女に教え込んだのです。

「でも、あんなお馬鹿さんたちの話なんか、私は信じない。お隣の国だもの、そんなに酷い場所なはずがない。きっと私のように、友達を必要としている人だっている」

 そうと思い立つと、〈月の君〉はどうしても〈月蝕領〉に行きたくなりました。屋敷にはかねてより探し当てておいた、彼女しか知らない抜け道が無数にあります。家庭教師や衛兵の目を誤魔化すことだって、〈月の君〉の頭脳をもってすれば容易なことです。

 そういった次第で、〈月の君〉はお屋敷を抜け出して、〈月蝕領〉に向けて歩いていきました。人目につかぬ道を慎重に選びながら、静かに、しかし速足で。

 住み慣れた〈月光領〉を離れるにつれ、月の光は翳り、見る見るうちに足許は暗くなりました。しかし〈月の君〉は臆しません。夜の冒険とばかりに、嬉々としてさえいます。

 やがて国の境目である河に至りました。姫君は靴を脱いで両手に提げ、黒々とした水を掻き分けて川を渡っていきます。向こう岸に辿り着いて空を見上げれば、そこは真っ暗で、一片たりとも月明かりは注いできませんでした。

「とうとう到着したんだわ」

 姫君は大喜びでしたが、誰も出迎える者はいません。〈月蝕領〉は確かに、淋しく荒涼とした、暗闇ばかりの国でした。形のいい木々も、甘い匂いを纏う花々も、綺麗な煉瓦造りの建物も、彼女の知っているものは何一つとして、この場所には無いのでした。

 ただ一点――空を突くほどに背の高い尖塔が、にゅっと聳えているのだけが見えました。荒野の真ん中にそんなものが突っ立っている以外には、目印らしきものは何も存在しません。そこを訊ねてみるほかないと、姫君は決心しました。

「――こんばんは。ごめんください」

 塔の扉を叩きましたが、応答はありません。戸を押し開けて入り込んでみました。やはり内部は真っ暗で、誰が何のために建てたとも分かりません。

 そぞろ歩くうち、足が何かに躓きました。姫君は、きゃ、と小さな悲鳴を上げて、足許を凝視しました。

 そこには闇よりもさらに深い闇色をしたものが蹲っていました。どうやら人の形をしているようですが、言葉を発しも、また人間らしい仕種を見せることもありません。ただじっとそこに座り込んで、〈月の君〉を見上げているばかりです。

 これが〈月蝕領〉の住人? 

 いや、まだ決まったわけではない――と姫君は思い直します。誰か他の者が、ひっそりと住まっているかもしれません。たとえばそう、この塔の天辺に。

 気を取り直して、階段をどこまでも上がっていくと、思ったとおり、小さな扉がありました。勇気を振り絞って、叩いてみます。

「どなた」

 と返事がありました。戸が内側からひとりでに開きます。

 現れた相手を一目見るなり、〈月の君〉は言葉を失いました。そこにいたのは自分と同じ年頃、同じ白い肌をした娘でした。身の丈も、髪の長さも、やはり似通っています。

 違ったのは眼の色でした。娘の瞳は虚ろな闇色だったのです――この〈月蝕領〉の空と同じく。

「初めまして。私、お隣の〈月光領〉から来たの」

 そう言って、〈月の君〉は自らの名を名乗りました。しかし月蝕領の娘は、名乗り返してくれません。昏く洞んでいるとはいえ、その瞳は一心に姫君を見つめている様子で、眼が不都合というわけでもなさそうです。急な来訪に驚いたのか、あるいは快く思われていないのか――。姫君が不安に見舞われはじめた頃、

「そうではないの。私――本当に、自分の名前が分からないの」

「分からないって?」

〈月の君〉が問い返すと、娘は悲しげに視線を伏せました。

「私は、どんなことでも一日より長く覚えていることが出来ないの。自分の名前でさえも」

 そんなことがあるものかとお思いかもしれません。しかしこの突飛な告白を、〈月の君〉はすぐさま信用しました。性根の優しい娘であったのはむろんのこと、彼女自身が特異な記憶の力の持ち主であったからです。自分とはちょうど正反対なのだと、姫君は納得したのです。

「だから、あなたに名前を聞いても、明日には忘れてしまうわ」

「心配しないで」

 今しも泣き出しそうな娘に向かって、姫君は笑顔を作って見せました。

「私が、何もかも覚えておいてあげる。あなたのすべてを。話して聞かせてあげるから」

 娘は、初めて笑いました。こうして、〈月光領の姫君〉と〈月蝕領の姫君〉との出会いは成されたのでございました。


 ●


 それから〈月光領の姫君〉は毎夜、〈月蝕領〉へと通うようになりました。むろん〈月蝕領の姫君〉、またの名を〈影の君〉と会うためでございます。生まれて初めて現れたこの友人に、彼女はすっかり夢中なのでした。

 この〈影の君〉のかたった言葉は真実でした。あくる夜、〈月の君〉が訊ねて行っても、前日の出来事を何一つとして記憶してはいなかったのです。戸を叩き、「どなた?」と応じられ、入っていって名を名乗り……毎晩がその繰り返しでした。

 しかし〈月の君〉は気に留めませんでした。昨日の、一昨日の、その前の夜にあったことを、辛抱強く、〈影の君〉に話してやりました。何もかもを覚えている〈月の君〉でございますから、積み重なる思い出のうちから、選りすぐりの、美しい物語を選んで、〈影の君〉に聞かせ続けたのです。彼女にほんのいっときでも、自分がいかなる存在なのかについて思い出してもらいたいと、〈月の君〉は願っていたのです。

「私は――そんなに綺麗なの?」

 ある晩、〈月の君〉の語りをふと遮って、〈影の君〉が問いました。相変わらず眼は黒く虚ろなままで、何を考えているともつきません。しかし〈月の君〉は、すぐさまこう答えてやりました。

「もちろん。あなたは、とても綺麗よ」

〈影の君〉は曖昧に首を傾けただけでしたが、その仕種さえ、〈月の君〉には蠱惑的に見えました。記憶しているあらゆる言葉を連ねて、賛美したくなるほどでした。

「あなたの話も聞かせてくれない? あなたが住んでいるのは、どんなところ?」

 問われた〈月の君〉は〈月光領〉について語りました。月の光や、花の香りや、建物の様式について話していくうちに、暗闇ばかりの〈月蝕領〉よりは見るべき点があるのだと気付きます。同時に、尖塔の小部屋にいつまでも押し込められている〈影の君〉が気の毒になってきました。

 自分は、与えられた力を駆使して冒険に出ることができ、おかげでこうして、大切な友人を得ることさえできました。しかし〈影の君〉には、独りでそうしたことを成し遂げる力が備わっていないのです。明日もし自分が訊ねてこなければ、また元どおり、孤独な娘に戻ってそれきりなのです。

「ねえ、一緒にここから出て、私の国へ行ってみない? ただ話すだけでなくて、実際に見せてあげたいものが、たくさんあるの」

 勇気を振り絞ってそう誘いかけたのですが、〈影の君〉は頷きませんでした。理由を尋ねてみても、ただ「何も覚えていない」と言うばかりです。

「そう。あなたが来てくれたら、〈月光領〉も楽しい場所になるのにな」

 一時は落胆した〈月の君〉でしたが、またあとで訊ねてみれば答えが変わるかもしれないと思い直しました。同じ問答を繰り返すにしても、それは慣れたもの。また話すべきことが増えたと喜びさえ感じました。

「じゃあ、明日。また来るからね。明日こそ私のことを覚えておいてくれたら、とても嬉しいな」

 夜が明ける頃になると、そう言って〈月の君〉は〈月蝕領〉を去ります。覚えておいてもらえるなどとは露にも思ってはいません。ただ別れ際の挨拶として、そう告げるのが習慣になっているのでした。

 朝方、〈月の君〉が例によって、守衛にも家庭教師にも見つからず、お屋敷の自室に舞い戻って眠ったふりをしていますと、とんとんと、誰かが戸を叩きました。起き出して出て行ってみれば、そこには召使の姿がありました。仕度をして、父君に目通りするようにと言います。

「――お前は王家の教育を一身に受け、立派に美しくなった。そうしたわけだから、そろそろ夫となる者を見つけてやろうと思う。お前にふさわしい者をきっと選ぶから、めおととなってこの〈月光領〉を継いでほしいのだ」

 唐突なことでしたので、姫君は大いに驚きました。むろん、いずれそういった話があろうことは理解しておりましたが、まだずいぶんと先のようにも思われて、いまひとつ、実感が伴わなかったのでございます。

 そして何より――夫! 自分が誰かの妻となることなど、〈月の君〉は想像してさえおりませんでした。

「ですが、お父さま」

 抗弁しようとすれば、〈月蝕領の王〉は途端に眼光を鋭くします。娘に厳格な教育を施してきたのは、他でもない、立派な王女としてこの国に君臨させるためだったのでございますから、その怒りも当然です。

「では何だ? お前にはすでに、心に決めた者があるのか? もしもあるなら、私の前に連れてきてみよ。それにふさわしいと認めたなら、もちろん祝福するとも。どうだ、娘よ」

 王にそう言われては、姫君に返す言葉はありません。ただ黙ったまま、部屋を立ち去りました。

 その夜のこと――〈月の君〉の姿は〈月蝕領〉にありました。尖塔へ行き着くと、今夜ばかりは戸を叩くことも、名を名乗ることもなく、小部屋に駆けこみました。気持ちが千々に乱れて、丁重に守り続けてきた習慣さえ、忘れていたのです。

「ああ、〈月光領〉の――」

 ところが驚くべきことに、〈影の君〉は〈月の君〉を迷わずに歓待しました。〈月の君〉が毎晩名乗り続けてきたその名前を、遂にして呼びながら。

「覚えていてくれたの?」

〈影の君〉は小さく頷きました。近づいて抱き締めようとして、〈月の君〉はその理由を悟りました。〈影の君〉の剥き出しの腕には、文字が刻まれていたのです――鋭利な刃物による傷跡として。

「あなたを忘れたくなくて」

 唇を震わせて言いながら、〈影の君〉が手を伸べます。〈月の君〉は迷わずその内側に飛び込んで、強く縋りつきました。

「今夜こそ、私と来て。〈月光領〉を、私たちふたりのものにしよう。〈月光領〉で――私たち、一緒になろう」

 ふたりの姫君は手を握り合って、階段を駆け下りました。尖塔の扉を押し開けた刹那、背後から響いた奇怪な声を、ふたりは耳にしました。

 ただ蹲っているものとばかり思われた影――それらが次々と立ち上がって、よろよろと、しかし確実に、こちらへと向かってくるではありませんか。〈影の君〉を取り戻すつもりに相違ありません。ふたりは大慌てでその手を避け、息を切らして駆けていきました。

 国境が見えてきました。眼前に広がった河を、ふたりは渡っていきます。追手の影も水に入り込んできましたが、どうにか、掴まる前に向こう岸へと踏み出すことが出来ました。

「〈月光領〉だよ。辿り着いたんだよ」

〈月の君〉が振り返りますと、生まれて初めて月光を浴びた〈影の君〉は、なんだか凄絶な顔つきで、震えるようにして立っておりました。あ、あ――と短く声を上げながら、あちこちに視線を巡らせていたかと思うと、やがて、崩れ落ちるように地面に這いつくばりました。

 どうしたの、と訊ねる間もありませんでした。月光に濡れた〈影の君〉の体は、すでに変化を始めていたのです。

 白かった肌は、黒々とした毛に覆われました。鼻先が、耳が、長く伸びていきます。指先に覗いた爪は、まるで大振りな鎌のようです。ぱっくりと開いた赤い口には、ずらりと牙まで生え揃っておりました。

 ただひとつ変わらなかったのは、黒く虚ろな瞳だけでした。そこに映り込んでいる〈月の君〉の姿は、巨大な狼の正体を曝け出した〈影の君〉にとり、この上ないご馳走に他ならなかったのです。

〈影の君〉が幽閉されていた理由、〈月蝕領〉の住人たちが彼女を逃がしたがらなかった理由を、〈月の君〉はようやっと悟りました。しかし彼女は、一歩としてそこを動くことが出来ませんでした。

 愚かで悪辣なけだものは、あっという間に〈月の君〉に躍りかかりました。その首筋に食らいつくと、生き血が激しく噴きあがります。顎に力が込められると同時に、音を立てて骨がへし折れました。小さな体を引きずり倒し、腹に爪を立てて切り開きます。零れだした臓物は月光を跳ね返して、てらてらと輝いていました。

 けだものは、時間をたっぷりとかけて食事を楽しみました。生れて初めての素晴らしい食事だったのでしょう、何一つとして食べ逃したくないとばかりに、〈月の君〉のすべてを呑み込んだのです。

「何だ、あれは」

 そこに、〈月光領〉の兵士たちが通りかかりました。けだものは、はたと血まみれの顔を上げます。何が起きているのかを悟った兵士たちは真っ青になって、刀を抜き放ちました。

 一瞬、月に雲がかかったのを合図に、彼らは刃をきらめかせて、けだものに襲いかかりました。勝負は一瞬にして片付きました。食事を終えたばかりで油断しきっていたに違いありません、けだものは何一つ抵抗することなく、その刃に刺し貫かれたのです。

 長々とした、哀切極まる悲鳴が、轟いたように思えました。いっときは〈月蝕領〉のほうへと向いていた黒い瞳も、今は兵士たちを真正面から見据えています。あたかも、逃亡を諦めたかのような風情でございました。

 刀がいっせいに引き抜ぬかれました。けだものは倒れ、小刻みに身を震わせて、息絶えました。

「姫さまがけだものに食われたなどと、どうして報告できる」

「我ら全員の首が飛ぶぞ」

「一緒に埋めてしまおう。何も見なかったことにしよう。忘れるのだ」

 薄情な兵士たちは口々に言い合って、みなで深い穴を掘りました。そこにけだものを放り込んで、何事も無かったかのように立ち去ったのです。

 土に覆われ、月の光が届かなくなった穴の底で、けだものはゆっくりと〈影の君〉の姿に戻りました。体は刃に貫かれて襤褸布のように成り果てていましたが、不思議と、腕と頭だけはそのままでした。

 こうして、かつて〈影の君〉だったものは、土の中で誰にも記憶されることなく、静かに腐乱してゆきました。虚ろな闇色の瞳で、自ら腕に刻んだ名を映し返しながら。

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