第3話 幻の友

 1年前のことを思い出した。私は一人で諸国を巡る投資家だった。投資につぎ込むほど借金ばかりが増えていき、生活のための僅かな現金を手に、いつも安宿を転々としていた。そしてある日、急激な景気変動で資産が暴落し、破産寸前になった。


 ーーいや、あの時破産したのだったか。


 そして絶望し、この世の全てから逃れようとここへ流れ着いたのだったろうか。ライオネル、ユーティーと出会ったのは恐慌の後だった。


 ーーいや、あの時もうすでに夢に中にいたのかも知れない。


 二人と出会ってからの思い出は楽しいものばかりだ。彼らとは気が合い、いつも笑って過ごした。二人と出会ってからは仕事も上手くゆき始めた。だがそんな完璧な存在がいるものか。あれは私が作り出した願望だったのだろう。心の傷を癒すために、都合の良い妄想をしていたのだ。本当の私は今もこうして病院のベッドに寝ているだけだ。

 落ち着いた今はとても精神が心地良い。体が雲に包まれて浮いているかのようだ。黙って薬を受け入れれば、天国にいる気分を味わえる。このまま意識を委ねれば、楽になれるのだろう。

 私は現実と夢の中間地点にいた。体は心地よい眠りへ誘ってくる。このまま目を開けずに眠ってしまいたかった。しかし、頭の片隅にある何かがそうさせなかった。例え全て妄想だったとしても、諦めることができなかった。今ここであの二人の存在を諦めてしまえば、夢か否かに関係なく自分を許せなくなるだろう。


 気力を振り絞り、目を開けた。私は真っ暗な部屋のベッドの上だった。渾身の力で起き上がると、朦朧としていた意識が少し鮮明になった。更に薬の効果が抜けるまで、数分耐えた。

 暗闇に目が慣れ、廊下からこぼれる僅かな光を頼りに部屋を見渡すことができた。ここは一人部屋の病室だ。1床のベッドとチェスト、そして洗面台と鏡があるだけの狭い空間で、壁に窓はない。廊下側の扉には小窓が付いていた。ゆっくりと鍵を外そうとするが、どうやら外側から鍵がかけられていて開かない。

 服装は元々着ていたものと変わらず、Tシャツにジーンズのままだ。しかし持っていた荷物が見当たらない。ポケットに入っていたはずのスマホも、背負っていたリュックも、そのリュックに入っていた財布や最低限の着替えなども。チェストの中からベッドの下まで探したが、奪われてしまったのだろう、部屋の中で見つけることはできなかった。

 考えようと、私は鏡と向き合った。全てが妄想と分かればもう怖くない。鏡に映る自分を見つめ、心の中で問いかけた。どうすれば良いかと。

 私はふと、違和感に気がついた。自分の背後と鏡の中を見比べる。鏡の中には、この部屋にはない物が映っているのだ。鏡の中にはぼんやりと、段ボールや階段が見える。この部屋にそんな物はない。また自分の妄想だろうと疑いながらもつい、鏡に手を伸ばした。鏡は壁に貼り付けてあるのではなく、埋め込まれているようだった。鏡を触ると、壁と鏡の間に僅か5mmほどの隙間があることを発見した。隙間を覗き込んでもよく見えなかったが、空洞になっているようだ。

 私は鏡の向こうが壁ではないことを確信し、チェストを持ち上げ渾身の力で鏡にぶつけた。3回目でようやくヒビが入り、4回目で大きな音を立てて崩れ落ちた。建物が古かったことが幸いしたのだ。その奥には小部屋が現れた。

 私の心臓は期待に高鳴った。鏡が割れてできた隙間に、無理やり体をねじ込む。ガラスの破片で傷ができたが、もう気にならなかった。人影を見たあの鏡は全てマジックミラーだったのだ。私の見た影は、鏡の向こう側にいた誰かが映り込んだのだ。

 小部屋は非常に狭く、傾斜の急な階段が付いていた。階段を上がった先には小さな扉が付いていて、鍵はかかっていなかった。扉の先は建設現場の足場のように、無機質な金属の廊下と扉、そして階段が並んでいた。業務用通路だろうか。ここを通じて、他の部屋の監視部屋を行き来するのだろう。

 先ほど鏡を割った音にここの者達が気付いていてもおかしくない。残された時間は短かった。考えている暇はなく、勘で一つの扉の中に飛び込んだ。扉の先には白い廊下があり、両側に扉が並んでいた。病棟とは異なり、窓はない。

 誰かが廊下を駆ける足音が聞こえてきたので、私は手前の別の部屋へ逃げ込んだ。

「いないぞ!」

「まだ近くにいる!」

 どこからともなく、物々しい声が響く。

 室内は雑然としており、左端にはロッカーが、中央には医療用機械と見られる物がいくつか無造作に置かれていた。私は医療用機械の下へ潜り込み、荷物を包んでいた布に自ら包まり、自分も荷物と一緒に体を丸めた。

 程なくして扉を開ける音が聞こえ、足音が目の前までやって来た。革靴の音が耳元を横切るが、体は決して動かさなかった。ロッカーの扉を一つ一つ開ける音がした。その後靴音は遠ざかり、また扉を閉める音が聞こえた。真っ先に目に付く隠れられそうな場所を探したことで、私のいる場所へは注意が向かなかったようだ。

 どうやら順番に部屋の中を探っているらしく、次々と他の扉を開閉する音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。このフロアにはいないと判断したのだろうか。私は深呼吸をした。すぐに、次に打つ手を考えなくてはならない。

 ーー誰か、いるのかい?

 私は身を固めた。どこからか、くぐもって響く声が聞こえてきたのだ。まだ人がいたのだろうか。しかし、生身の人間の声にも聞こえるがどこか現実味がない。

 ーー寂しいねえ。話相手もいなくなったよ。

 老人のようなその声は、何かに反響していた。私は隠れていた機械の下から出て、部屋を見渡した。人の姿はない。

 病院に来たときにも、何度か人の姿もないのに声がしていたことを思い出した。しかし、今聞こえている声は全く別人だ。どこか聞いた気がして、私は記憶を必死で辿った。

「お婆さん、貴方なのか?」

 その声が聞こえる理由も分からなかったが、私は思わず問いかけていた。

「おや、誰だい?」

「同じ階に入院しているクリスだよ。さっき話したばかりだろ?」

「おやおや、嬉しいね」

「何処にいるんだ?」

「わたしゃずっとこのベッドの上さ」

「それなら、どうして貴方の声が聞こえるんだ? 私は、何処にいるかよく分からないが病院の地下にいるはずなんだが」

「いつも聞こえてくるだけなのに、返事が返ってくるのは初めてだねえ」

 同じ部屋にいないのに、声が聞こえるのは何かの仕組みがあるに違いない。いつも聞こえてくるということは、あの部屋に声を送れるようになっているはずだ。しかし壁中を見渡しても、スピーカーなどの機械がどこにあるのか見つけることができない。

「婆さん、何か喋ってくれ! 今、どうしてこの部屋と貴方の部屋で会話ができてるのか調べてるんだ」

「わたしゃもう眠いよ。お休み」

 彼女の最後の言葉で、私は声の出どころを突き止めた。壁に一箇所、丸い穴が空いている。一見、中が空洞になったただの穴だ。空調用の穴かと思っていたが、声はここから聞こえていた。この穴が伝声管の役割を果たし、互いに会話ができるようになっているのだろう。反響の仕方が私の聞いた声と似ているから、恐らく私のいた部屋も同じ仕組みだ。

 偶然ではなく、この穴は伝声管として作られたのだ。電子機器が普及する前は、船舶などでの連絡に日常的に使用されていたというが、何故かこのような病院に作られたのかは分からない。ただ言えるのは、病院関係者ならその存在を知っているはずだ。しかし彼らはそれを幻聴扱いし、私を病人に仕立てようとした。本当に誰もいない部屋で声が聞こえているのだから、危うく自分でも自分が病気だと信じるところだった。

 真実が分かれば何も怖い物はない。ただ、嘘をつき私を陥れようとした奴らだけは放っておくことはできない。ここで捕まっては決してならない。この街の者達へ、真実を伝えなくては。

 私は誰の足音も聞こえないことを確認してから、そっと部屋を出た。そして一度、来た道を戻り裏の通路へ入った。マジックミラーがある各部屋を行き来できる業務用通路なら、通常患者が入ることができない職員用のエリアまで繋がっているだろう。病院の構造は知らないが、この病院の業務上重要な設備は地下に集中しているようなので、地下を中心に探せばいい。

 しかし、どうやら考えが甘かったようだ。一旦通路に入ってしまえば、見通しの良い一本道だ。廊下と違い、オレンジ色の電球に照らされている。背後から誰かが階段を降りてくる足音が聞こえ、私は手近な扉に逃げ込もうとした。しかし鍵がかかっており、すぐに別の扉を探して逃げた。その部屋へ逃げ込む頃には、何者かが階段を降りる音がすぐそこまで迫っていた。運よく小部屋へ逃げ込むことができたが、姿を見られていないという自信はなかった。

 小部屋は物置程度の大きさで狭く、ガラス窓が付いていた。窓を覗くとその先は、私が目覚めた部屋に似た個室の病室で無人だった。窓を破って病室の扉から廊下側へ出られるかもしれないが、中からは開けられない状態になっている可能性も高い。

 私は一旦、入って来たドアの前に身を潜めた。階段を降りてきた男が私に気付いていないことを祈りたい。気付いていなければこのままやり過ごしてから、通路の先へ進むつもりだ。もし気付いていたならば、このドアを開けて入ってきた瞬間に応戦するしかない。通路側のドアの前で身を潜める。数十秒が経つが、足音は聞こえない。もう通り過ぎて行ったか、こことは別の方向へ向かったのだろう。私は安堵して息を吐いた。

 改めてふと、窓の方を向く。何か異変を感じて窓を覗き込んだ。

「っ……!」

 私は悲鳴を飲み込んだーーというより、恐怖のあまり声にならなかった。窓からは血だらけの男の顔が、鬼の形相でこちらを見つめていたのだ。男は白衣を着ている。この病院の者だろうか。反射的に後ずさろうとしたが、部屋が狭いため背中が壁にぶつかって動きを塞がれた。

 その時、男の腕がガラスで遮られているはずの窓を通り抜けて、私の首を掴んだ。首周りが熱くなるのを感じた。掴まれた腕によって体が窓の方へ引きずられる。逃れようと首に自分の手をかけるが、私の腕力ではその腕はびくともしない。頸部を圧迫されて血が頭に昇り、気を失う寸前だ。

 男の唸るような低い声が聞こえた。私を睨むその目は血走り、口から蒸気を吐いていた。敵意を剥き出しにしている。

 意識が遠のき、とうとうこれまでかと諦めかけた。

「おいおい何してんだ?」

 別の誰かの声と衝突音が聞こえ、首にかかった手が緩んだ。私は朦朧としながら地面に座り込んだ。数秒間、物音がした後、聴き慣れた声が聞こえてきた。

「危ない危ない。悪い、うっかり逃がしちまった」

 私は顔を上げる。ガラス窓があった場所から、ユーティーがこちらを覗いていた。

「ユーティー……?」

「大丈夫か? クリス。お前が生きてて良かった」

 先ほど私の首を締めた男は意識を失っているのか、身動きしない。ユーティーは両手でその男の白衣を掴んで窓の下から隅へ移動させた。私は恐る恐るその窓へ顔を突っ込んだ。そして理解した。

「まさか窓が開閉式だったとはね」

 窓枠からガラス部分を指で摘んで出し入れしながら言う。窓越しにもう一度病室の中にいるユーティーを見た。

「……おい、後ろ!」

 私は叫んだ。白衣を着た男が、もう一人いる。ユーティーからベッドを挟んだ反対側に、こちらを向いて立っているのだ。

「逃げろ!」

 ユーティーは驚くことなくゆっくりと振り返った。

「ああ、こいつとは色々あって。まずそのことを手短に説明しないとな」


 それからユーティーは私が聞きたかったことを全て話した。最後に彼を見たのは、ライオネルが消えた後、二人で追手を逃れていて何処からか人の声を聞いた時だったから、それからの経緯を。

 彼は声のする方を確認すると言って私と別れ、悲鳴と血痕を残してB棟へ消えた。その彼が、いったいどうやって難を逃れたのか。

「あの後、声の出所を探して2階へ行ったんだよ。でも暗闇で急にこいつに襲われて」

 ユーティーは床に伸びている男を指した。

「羽交い締めにされたが返り討ちにしてやったよ。仲間を呼ばれるとまずいから、気絶したこいつをそのままトイレに運んで縛り上げておいた。その時もまだ変な声はしてて、どうも3階から聞こえてたから3階まで移動したんだ」

「そうか……でも、血は?! あの大量の血は! お前怪我してるのか?」

「怪我してるけど大したことない。お前が見たのは、こいつが廊下にぶちまけた血液パックの血だろ。血液パック持ち歩いてたみたいだから」

「そうだったのか」

 改めてユーティーの体をよく見てみると、額や腕に擦り傷や打撲の痕があるが、大量に出血している箇所は見当たらない。廊下の大量の血が、彼のものではないと分かり安堵した。

「それから?」

「それから3階に行ったら、部屋の中からこのオッサンが呼んでたんだよ」

 ユーティーは後ろに立っている男をチラリと見た。よく見ると着ているのは白衣ではなく入院着で、無精髭を生やし髪も無造作に伸びている。とてもくたびれた様子の初老の男性だ。

「閉じ込められてるって言ってて、軽く話聞いたら少なくともここの病院の奴らよりは信頼できそうだから、鍵開けて連れてきた。肝心のお前は何処にいるか分からなくなっちまったが、パトカーが来たのは見えたから安心してたんだが……」

「警察は全く私を信用してくれなかった。残念ながら私よりも、この病院を信用してしまったようだ」

「だろうな。それもこのオッサンが言ってたぜ。このオッサンこの病院に詳しいんだ。裏道も色々知ってるんだよ。今まで一緒に脱出方法を相談してたんだが、捕まえたこの男に逃げられたことに気付いて、追いかけてきたらお前がいたってわけ」

 経緯は分かったが、なぜ彼が入院着の男を連れてきたのか分からなかった。彼もこの病院の被害者なのだろうか。

 私と目があったその男は、会釈をした。

「説明させてください。私は吉塚と言います。元はこの病院の医師でした」

 記憶を巡らせる。医師という言葉と、吉塚という名前が脳内で引っかかった。

「もしかして……あのマッド医者?!」

「そうそう、びっくりしただろ? 俺もバーで名前を聞いたのを思い出した時は笑っちまったよ」

 噂では危険人物という扱いだったが、笑っていて良いのだろうか。しかし目の前にいる吉塚と名乗る男は、腰が低く気弱そうで、かつ疲弊している様子も窺え、脅威の存在には見えなかった。

 私は窓をくぐり、改めて話を聞くため病室の中へ入った。

「私がこの病院にいた頃、この病院は人口減少の影響も相まって経営に行き詰まっていました。そんな時、ある治療法が流行したおかげで、この病院は経営を持ち直しました。……それが、自身の血液に酸素を注入して再循環させるという、オートヘモセラピーです」

「ああ、そんな宣伝していたな」

「しかしあれははっきり言って、裏付けに乏しく、効果はありません。少なくとも、謳われているような疲労回復や老化予防の効果は全く実証されていません。兼ねてよりそのことを指摘していましたが、そのせいで病院から反感を買い、病院を辞めざるを得なくなりました」

「何てことだ。貴方の方がよほどまともじゃないか。どうしてあんなに叩かれるまでになったんだ?」

「私はフリーになってからも、メディアなどで病院を非難しましたが、メディアでは言ったことが面白おかしくねじ曲げられ、私の意図が伝わることはありませんでした……。私はある疑問を持ちました。地元メディアが完全に病院の見方をしていて、都合が良いように恣意的な情報ばかりを流している。これは、裏に何者かの権力が働いているのではないかと」

 私達は固唾を飲んだ。彼の話が核心に迫っているような気がした。

「他にも気になることはありました。数年前オートヘモセラピーを売り出すまで、蛍野西病院は本当に経営に行き詰まっていたんです。それが急に羽振りが良くなり、豪華な改装を進めたり、芸能人をPRに起用するまでになりました。しかし見たところ患者はそれほど増えているわけではない。いったい、何処からその金は出ているのかと」

 確かに私の印象でも、外来は閑散としていたし、病棟にもほとんど患者はなく空室の状態だった。

「私は有志と調査を進めていました。そして、ある事実に辿り着きました。……この病院には裏メニューが存在するのです」

「裏メニュー?」

「富裕層だけを対象とした、一般に公開しない隠れた治療メニューです。料金は数百万円からで、金持ちや芸能人が通っているようなんです」

「どんな治療なんだ?」

「若い人間の生き血を活性化させ、それを輸血するというものです。オートヘモセラピーの上位治療という位置付けで、相性の良い特定の遺伝子情報を持つ人間の血を自分と入れ替えると更なる効果が得られると信じられています。そして、血の提供者は若くなくてはならないので、10代~20代に限られます。若く新鮮な血液を循環させることで免疫力が高まり、若返りの効果があると謳っているのです」

「馬鹿な……!」

 私は耳を疑った。まるで中世のような、尚且つ危険な方法が、どうして信じられることがあるのだろうか。何より、いったい誰がそんな事のために血を提供するというのだろうか。

「普通の方法では生き血を仕入れることはできません。ですから、彼らは消えても疑問を持たれないような人間を捕まえてきては、絞れるだけ全ての血を搾り尽くし、残りは臓器ブローカーに。そして証拠を隠滅しています。正に悪魔の所業です」

「悪魔……!」

 この町の消えた人間の噂が頭を過ぎる。証拠隠滅のためにどうしていたか、想像が付く。病院なら遺体の処理は容易いし、疑われることもない。その行為は医療を通り越して宗教じみており、この現代の文明社会で行われているとはとても信じ難い。

「その告発を、フリージャーナリストなどの有志と進めていた矢先でした。有志の何人かが言われなき罪で逮捕され、私はでっち上げの診断書で精神病院へ強制入院に……。どうやら、裏メニューを愛好している患者には権力者も含まれているようで……」

「オッサンはよく殺されなかったな?」

「私はそれなりに顔を知られていますし、身元もはっきりしている。殺されれば事件化してしまいます。病人扱いするのが、私の口を封じるには一番上手いやり方ですよ。……ただ、いつ自殺に見せかけて殺されてもおかしくなかった。だからずっと誰かに助けを求めようとしていたんです」

「分かった」

 私は腰掛けていたベッドの縁から立ち上がった。

「吉塚さん、ここを無事に脱出できれば貴方はこの病院を告発できるんだろ? 今度こそ警察も信じてくれるな?」

「ええ。あなた方という証人もいることですしね」

 吉塚は汗を拭った。

「じゃあ、後はライを助けるだけだな。この病院に詳しいなら、何処に連れて行かれたか当てはないか? 私のように、何処かの病室に監禁されているかも」

「そうですねえ。病室はここB棟の他にもA棟、C棟があって地下から3階までありまして……」

 吉塚は腕を組んで考え込んだ。そんな中、ユーティーがふと思い出したように呟いた。

「そういや、俺もライも血液検査されたんだよなあ。クリスだけでいいはずなのに」

「ユーティー、今はそれどころじゃ」

「そのお友達はどんな方ですか? お若いのですか?」

 言葉を遮ろうとした私と対照的に、吉塚は焦った様子でユーティーに食い付いた。

「若いよ。俺たちと同じ24、5くらい」

「ユーティーさん、見たところ貴方は異民族のようだが、もしやその友達も?」

「ああ、出自は全然違うけど俺もライも大陸の方の少数民族出身だ」

 それを聞くと吉塚は眉を潜ませた。

「……異民族同士の血を混ぜるとより免疫向上に良いとされていて、貴重とされているのです。三人とも若くて血の条件を満たしていますが、もしかしたら、このお嬢さんよりもユーティーとお友達の方が狙われていたのかもしれません」

「なら、尚更すぐ助けないと!」

「ええ。もうすでに処置室で血を抜かれているかもしれません。まだ生きていれば良いのですが……急ぎましょう」

 ライオネルが予想以上に危険な状況にある可能性が高いと分かり、焦燥に駆られた。自分自身は病室に監禁されただけだったから、漠然と彼も同じ状況だろうと考えていた。

「処置室へ案内してくれ!」

「分かりました。でも大勢の職員がいる中、どうやって助けるおつもりですか?」

「強行突破だ」

 私の目は前を向いた。この病院に来たとき、私を信じて守ると言った彼の真っ直ぐな瞳を思い出す。体温が高まり、彼を助けること以外何も考えられない。


 ユーティーと私は気絶させた男を担いで、吉塚が誘導した。処置室はA棟の地下にあるという。A棟はやや離れて独立しており、富裕層や要人向けの特別な病棟となっているそうだ。

 この人数で廊下を正面突破したため、早々に別の看護師に見つかった。

「お前達! ……うわああ! 誰か! 誰か!」

「うるせえ、死にたくなかったら大人しく人質になれ!」

 看護師が一人だったため、私達は気絶した男を手放し代わりに看護師を捕まえて人質にした。そのまま走って最短距離でA棟へ急ぐ。

「こ、ここです」

 地下へ降りたとき、廊下を指して吉塚がそう言った。処置室の表示板が並んでいる。その中に一つ、手術中の赤いライトが点いている部屋があった。ユーティーと私は顔を見合わせ頷く。そして、勢いよく扉を開けて突入した。

 真っ先に目に入ったのは、手術台の上に横たわるライオネルの姿だ。目を閉じて動かない。腕には注射針が刺され、管は何かの機械に繋がっていた。ライの腕からその機械には、真新しい血液がひっきりなしに送られていた。横のモニターには心電図が映し出され、まだ動いていた。

 ーー良かった、間に合った。

 次に目に入ったのは、白衣を着た複数の職員達。ざっと7、8人はいる。私は間を置かず叫んだ。

「動くな! こいつの命が惜しかったら!」

 ユーティーが看護師の首にナイフを当てるのを見て、職員達は動揺を見せた。まるで私達がとてつもなく悪人に見えるが、ライオネルの命がかかっているのだ。この際体裁などどうでもいい。

 その職員の中に、私を診察しようとした医者の姿も見つけた。私を病人扱いして警察を追い返した男だ。私はその医者に歩み寄った。

「お前はここの責任者だな? 今からお前も人質だ。ライオネルを解放しろ!」

 医者は看護師に促した。機械が止められ、ライオネルの腕から針が外される。

「全員そのまま動くなよ! 私達が病院の外へ出たら、こいつは解放する。妙な真似はするな!」

 私が医者を人質にしている間、ユーティーがライオネルをベッドから担ぎ上げた。ユーティー達を先に部屋から出し、私は腕を縛った医者を盾にしながら慎重に後退して部屋を出た。

「クリス、ライを背負ってたら俺は戦えないから、背後を頼むぞ」

「ああ任せろ」

 私達は廊下を走る。吉塚によればこの地下から1階へ上がれば、その最奥にA棟専用の出入口があるはずだ。

「つーか吉塚のオッサンいつの間にかいないぞ? 逃げたな」

 ユーティーの言う通りだった。だが、私達も後は逃げるだけだ。階段を上がり、全速力で廊下を駆け抜ける。

 しかし、私達は足を急停止させた。あまりに急に止まったので、滑って転びかけるほどだった。

「閉まってるぞ!」

 廊下の突き当たりには、ライオネルと私達が分断された時と同じようにシャッターが下りていた。他のルートはないかと振り返った私は、再び目を丸くした。たった今通過した廊下の、10mほど後方にもシャッターが降りていたのだ。私達はシャッターの間に閉じ込められた形になった。

 終始冷や汗をかいていたはずの医者が、不意に笑みを浮かべるのが横目に入る。

「いい加減に諦めなさい。このままではあなた方は刑務所行きですよ。今のうちに観念して自主することを勧めます」

「この後に及んで何言ってんだ! お前らの悪事は分かってんだ。捕まるのはお前らだよ!」

「たとえ病気でも、不法侵入に暴行、恐喝……罪に問われるのは間違いないでしょうね」

 医者とユーティーが不毛な問答をしている間に、後方のシャッターが静かに開き始めたことに気づいた。開き掛けのシャッターの下からは、複数の足が覗いている。

「ユーティー、新手が来るぞ! 無理にでも後ろのシャッターを開けよう。出口はすぐそこのはずだ」

 私は出口方向のシャッターに駆け寄ろうとした。しかし、そちらに気を取られた一瞬の隙をついて、医者が私の腕をすり抜けていった。気づいた時にはもう遅く、人質は病院側の手に渡っていた。

 そこには、病院の警備員と見られる服装の男が立っていた。見渡せる範囲に立っているのは6人ほど。整列した彼らが、私達に一斉に消火器を噴射してくる。視界が遮られ、私は顔を腕で遮りながら後方へ下がった。

 消火器の噴射が止むと同時に、警備員達が一斉に前進し始める。その手には警棒のようなものが握られていた。ユーティーが私を庇うように前に立ちはだかる。警備員達は、ライオネルを背負って動きの遅いユーティーへ向かっていた。このままでは袋叩きに合う。助けに入ろうと方向転換した、その時だった。

「クリスはそのまま逃げて!」

 声がしたと同時に、正面を走っていた警備員二人が床に倒れる。気づけば、ユーティーの背にはライオネルの姿がない。倒れた警備員を背にし、向かってくる警備員に立ちはだかるように立っていたのは、ライオネルだった。

 それを見たユーティーも、一人もこの先へ通さんとライオネルの横に並ぶ。二人が盾となってくれたのを察した私は、二人を背にし走った。

 左の壁にスイッチのようなものがあるのを見つけ、すぐにそれが開閉装置だと悟った。非常用ボタンを押してスイッチを開き、開放ボタンを押す。すぐにシャッターが開く様子はなく、どうやら操作が制限されているようだ。いくつか操作を試すとやっとリミッターが解除され、ようやくシャッターが開き始めた。

「ユーティー! ライ! こっちだ!」

 二人が乱闘から逃れこちらへ向かうのを確認して、私はシャッターの下を潜った。

「絶対に逃すな!」

 先ほどの医者の声が響く。

 シャッターの向こう側へ入ると、予想通り出入口らしきものがあった。VIP専用というのも頷ける。他の出入り口のようなガラスの扉ではなく、金色に縁取られた不透明で重厚感のある扉だ。

「うぁっ……!」

 扉へ駆け寄ろうとした私は死角から衝撃を受け、気づけば弾き飛ばされ床に突っ伏していた。衝撃を受けた方向を見ると、警備員が立っていた。予めこちら側にも警備員がいたのだろう。タックルを受けたようだ。

 警備員が倒れた私へ覆い被さろうと向かってくる。私は床を転がりマウントを回避した。

「気を付けろ! こっちにもいるぞ!」

 ライオネルとユーティーに向かって声をかける。しかし二人の姿は現れない。

 床を転がりながら、警備員を蹴り上げて突き放し、即座に立ち上がる。そのまま重厚な扉の方へ向かった。持ち手に手をかけるが、予想通り鍵がかかっている。下部に二つ錠が付いていたので、二つを解錠した。

 そして背後にいるであろう警備員をもう一度退けようと振り返った時、頭上から網が降ってきた。回避する間もなく、私の全身が網に包まれた。そのまま網が引かれ、私は魚のように床に倒れて引きずられた。上がり切ったシャッターの向こう側を見ると、同じように網に捕らえられたライオネルとユーティーの姿があった。

 腕を解かれた人質の医者が、私へ歩み寄る。

「全く大変な世話をかけてくれましたね。でも、これから血の糧となる貴方方だ。これくらいは大目に見ましょう。すぐに血を処置しなくては。クライアントが待っていますから。……後で最期の言葉くらいは聞く時間を作りましょう」

 医者は冷徹な目で笑いながら、私を見下ろす。

「本性を表したな」

「お前達のようにこの世にいてもいなくてもいい人間など、こうやって他人の役に立って死ぬことでやっと存在価値があるんだよ」

 口調がやや乱暴に変わる。私達を確実に捕らえたことで、安心して心の内を曝け出したのだろう。

 医者は注射器を手に歩み寄る。私はもがいたが、網は強く体を締め付け腕も動かせない。ここから抜けるのは至難の技だろう。

 私の腕に注射器の先が当たる。警備員が腕を押さえつけ、その直後にチクリと痛みが走った。何かの液体が体に注入されたことを感じた。ついにここまでかと、覚悟を決めた。

 意識が朦朧としていく中で正にその時、重厚な扉が開いた。私を始め、医者や警備員達も動きを止め、注意をそちらへ向けた。扉の向こうには外の景色が見え、赤いライトが旋回しているのが見えた。扉の前に立っているのは警官と、いなくなったはずの吉塚だった。

 吉塚が口を開く。

「お前達の蛮行は全て分かっている! 行方不明になった人々をここで殺害していたことも、たった今その三人を殺して血を奪おうとしていたこともな!」

 言い終わらぬうちに、扉から警官がなだれ込む。吉塚は先に逃げ、通報していたのだ。そしてどう言い包めたのか、警官達をここへ連れてくることに成功した。

 ーー助かったのだ。

 それを悟った瞬間体の緊張が解け、自覚する間もなく私の意識は暗闇に落ちていった。

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