第2話 病院の怪

「血をください」

 枕元で若い女の声がして、私は目を開けた。

 天井が見える。ここが病院のベッドの上だと認識し、ようやく先ほどの恐ろしい光景が夢だったことを理解した。

 部屋は薄暗かった。それもそのはずで、窓の外は僅かに夕日の橙色が残り、群青色の闇に覆われようとしていた。すっかり眠気が覚めた私はベッドから体を起こして立ち上がった。薬を飲んですぐに寝たのが功を成したのか、気付けば腹痛は何処かへ消え去っていた。

 私は思わず自分の両頬に触れた。自分の頬を触った冷たい手の感触は、生々しく残っていた。それに、腕を掴まれた感触も。ふと腕を見ると、夢の中で掴まれた部分は心なしか赤くなっていた。

 目覚める直前に聞いた女の声は、妙に現実味を帯びていた。しかし部屋の中には当然のように、誰もいないし人の気配も感じない。背筋に寒気が走り、鳥肌が立つのを感じた。



 ーーいったいどこまで夢だったんだろう。それとも全て夢だったのか? 眠りが浅かったから、夢で聞いた声を現実のように感じたのか?


 廊下は蛍光灯が数個おきにしか点いていないため、薄暗い。先ほど本当に誰かが私に話しかけていないか、周囲を確認しようとしたが、廊下には誰一人いない。恐ろしいほど静かで人気を感じない。両隣の病室を除いても空室なのか、人はいなかった。一瞬、この病院には自分しかいないのではないかという錯覚に捉われた。

 不安を感じながらナースステーションへ歩くと、ナースの姿が一人見えてホッとする。病室への道を戻りながら他の病室の様子を伺っていると、3つほど隣の部屋に女性が一人いることに気がついた。ベッドの上で上体を起こし、ぼうっと宙を見つめている。

 私は社交的な方ではないが、心細さのあまり思わずその高齢の女性に話しかけた。

「貴方も入院しているの?」

「……あんた誰だい?」

「私はクリス。お腹を壊して、一晩だけここに泊まることになってしまったんだ」

「そうかい。可哀想に」

「お婆さんはいつからここにいるの?」

「わたしゃずっといるよ。何せ歳だからもう良くならない。多分死ぬまでいるよ」

「そんなこと言わないで、少しでも長生きしてくれ」

 女性は答えなかったが、微かに笑った。

「他に入院している人はいないの?」

「たまに来るけど、すぐにいなくなるよ」

 入院するのはクリスのような軽症の患者ばかりということだろうか。それでもこの空室の多さは、病院の経営が心配になる。

「邪魔したね、それじゃあ」

 会話が途切れたので私は病室を後にしようとした。

「……可哀想に。あんたもいなくなるんだね」

 背後から女性の呟きが聞こえ、私は驚き振り返った。

「お婆さん、今のはどういう意味?」

 女性はまるで今初めて私に気が付いたかのようにこちらを見る。

「……あんた誰だい?」

「私はクリス。お婆さん、私がいなくなるってどういう意味? そりゃ明日で退院するけど、そういう意味じゃないように聞こえたんだけど」

「……あんた誰だい?」

 私はため息をついた。彼女はそれきり、銅像のように言葉を発しなくなり、何も聞くことはできなかった。彼女の状態を察した私は、そのまま部屋を後にした。


 病室はすでに真っ暗だった。壁際で電気のスイッチを探る。その時、視界の中で何かが動いた。自分のベッドの反対側の壁で、黒い影が横切ったように見えた。心臓の鼓動が急に速くなる。

 室内を凝視しながらスイッチを探り、やっと電気が付いた。部屋の中には誰一人いなかった。その代わり、黒い影を見たような気がした位置にあったのは、鏡だった。洗面台の上に鏡がある。改めて部屋を見回しても、人はもちろん、自動的に動くような何かもない。薄暗い部屋の中に並ぶのは、空のベッドだけ。それぞれやや大雑把に白いシーツが敷かれ、布団が置いてある。ベッド脇には荷物置きのチェストが置かれているが、私の物以外は何もない。

 鏡の中に何かがいたとでもいうのだろうか? また一瞬にして鳥肌が立った。

 理由が分からなくては、気味が悪くていてもたってもいられない。私は鏡に近づいた。何の変哲もない洗面台と鏡だ。ここにあれば、うがいや歯磨きをするのに便利だ。

 自分の長い黒髪が、寝起きであまりに自由な方向へ飛び散っていることに気付き、両手で軽く整えた。顔が汗ばんで肌の調子も悪いのが気になり、よく見ようと鏡に顔を近づけた。

 すると突然鏡に映った自分の姿に、黒い影が重なった。自分の顔が真っ黒に染まり、鏡に映った姿が黒いもやに覆われたようになった。

「……うわっ!」

 鏡の異変に、思わず叫んで後ずさった。もう一度鏡を見ると、元どおり自分の姿が映っている。だが今一瞬、間違いなく鏡の中に自分ではない何かが見えた。

 私の頭は疑問で一杯になり、オーバーヒート寸前だった。やはり何かがおかしい。何が起きているのか全く理解できないが、普通でないことは確かだ。だが、必ず理由があるはずだ。それとも、人ではないモノがこの病院を彷徨っているとでもいうのだろうか?

 少しでも人との繋がりを感じたくて、ベッドに置いていたスマホに手を伸ばした。ユーティー、ライオネルとのグループメッセージに通知が来ている。二人がバーらしき場所でグラスを手に、自撮りした写真が届いていた。自分達は楽しんでいると伝えたいようだ。


 ーー私抜きで楽しみやがって。


 そう毒づきながらも笑みがこぼれる。二人の顔を見ると安心ができた。もう一度ベッドに横になり、しばらく暇つぶしに眺めていると、また眠気がやって来て私は安堵した。このまま眠ってしまえば朝になる。そうすればこの病院を出て、終わりだ。

 ふと、足音が近づいていることに気がついた。ここに来て以来、人の気配はまるでなかったので少し驚いた。革靴のような足音は廊下の方から聞こえ、徐々に大きくなる。そして部屋の付近で止まった。スマホに目を落としながら、誰かが入ってくるのを待った。しかしいつまで立っても扉が開く音は聞こえてこない。誰かが廊下に立ったままなのだろうか? 扉についた窓の向こうに人影はない。気になったため、起き上がり自ら扉を開けた。

 そこには誰もいなかった。先ほどから奇妙な出来事が続いたことで、余計に寒気が増した。念のため両隣の部屋を覗いてみるが、そこに誰かが入った気配はなかった。

 私はそのままナースステーションへ向かい、そのことを尋ねた。

「……病室へ誰かが?」

「そうだ。誰か来なかった?」

「いいえ。私はここにいましたが誰もそっちへは行ってませんよ。他の患者さんも歩いてなかったと思いますが」

「でも、足音が廊下から聞こえて、部屋の前で止まったんだ。……それだけじゃない、鏡に黒い影が映ったし、人がいないのに妙な女の声も聞こえた」

 自分でも奇妙な話をしていると分かったが、伝えずにはいられなかった。ナースは困ったように笑った。

「きっと薬の副作用で幻聴が聞こえているんですね。皆さんよく仰いますよ。後でお医者さんが巡回に行きますから、よく休んでください」

「今までそんな副作用起きたことないぞ」

 幻聴と言われればそうあっても不思議ではないが、私はにわかに信じられなかった。今まで薬を飲んでもそのような副作用は経験したことがない。

 ナースは続けた。

「……仮にそうでも、こんな病院ですから、お化けなんかがいてもおかしくないですよ」

 やや低い声で独り言のように呟く姿は一瞬別人のように見えた。

「私は冗談を言ってるんじゃない!」

「落ち着いてください。とにかく今からお医者さんが向かいます。少し別のお薬を試してみましょう」

 そうなだめられ、私は渋々病室へ戻った。これが幻覚と幻聴なら話は簡単だ。少しの間我慢して休めばいい。むしろそうであって欲しい。

 しかし、頭の中で警鐘が鳴っている。虫の知らせ、というのだろうか。このままここにいると良くないことが起きるような気がする。

 確証がない曖昧な理由で付き合わせるのは悪いと思っていたが、一人でいるには精神的に我慢の限界だ。私はスマホを操作した。

『病院で妙なことが起きている。もしかしたら私は危険な状況にいるかもしれない。お願いだ、来てくれ! 本当に頼む。場所は蛍野西病院、B病棟106号室』

 焦る手で送信ボタンを押し終えると、一度深呼吸をした。危険な状態というのは嘘ではない。最も危険なのがこの病院なのか、私自身なのかは分からないが。

 不安が徐々に大きくなっている。廊下の電気はいつの間にか消えていた。時計は午後9時を回っていた。部屋の電気は付けたままだ。見渡しても異変はない。あの鏡にもおかしなところは見られない。

 そう言えば医者が来ると言っていた。そろそろだろうか。


 ーー血が必要です。あなたの血が……。


 また声が聞こえた。はっきりと。寝起きに聞いた声とは違い、男の声だ。

「誰だ?!」

 私は問いかけた。同時に部屋の電球が点滅してまた点いた。


 ーーありがとう。ありがとう。あなたは運命が導き合わせた、選ばれた者。感謝します。


 いったい声はどこから聞こえているのだろう。私はベッド付近を探り回り、ベッドの下も確認した。ややくぐもっているが、まるで耳元で囁かれているようだ。館内放送のスピーカーではない。それに、機械音には聞こえない。まるで生身の人間の声なのだ。

 声は止み、また振り出しに戻った。原因が分からない恐怖に包まれている。

 私は病室を飛び出した。こんな気味の悪い場所でじっとしているなど、とてもできない。ナースステーションとは逆の方角へ、心を通わせられる誰かを探して歩いた。先程の様子では、ナース達も当てにならない。誰か、似た経験をした患者はいないだろうか。

 一階の廊下の窓にはどれも鉄格子がかかっていて、入ってきた通路以外外に出られそうな場所はない。徘徊や脱走する患者を防ぐためだろう。廊下の突き当たりに階段があった。上階と地下。案内板によると上階は他の病室で、地下は物品庫など業務用の設備があるようだった。人を探すなら他の病室だ。

 上へ向かおうと階段に足をかけたとき、背後から足音が聞こえ私は硬直した。病室で聞いた足音とよく似ていた。また姿の見えない誰かが近づいて来ているのかも知れない。


 ーーコツ、コツ。


 背後を振り返ろうとしても、中々体が動かない。振り向いて誰かいるか確かめるべきか、それとも階段を上って足音から逃げるか決心が付かない。

 私は意を決して振り返った。暗い廊下に何も見えなかったが、徐々に人が近づいて来るのが分かった。

「クリスさん?」

 正面に現れたのは医者の姿だった。背が低く、白髪混じりの髪だがその割に顔は若く見える。

「どうかしましたか? こんなところで」

 医者の背後には医療器具を積んだカートを押したナースと、もう一人大柄な男性看護師がいた。

「いえ、落ち着かないので散歩しようかと」

「診察をしようとしたらいないので、心配しましたよ。さあ戻りましょう」

 医者が言うと同時に、大柄な看護師が前へ歩み寄って来た。私は思わず一歩後ずさった。

「どうしました?」

 男性看護師が尋ねる。

「あ、いえ、今行きますから」

 後ずさった理由は自分でも分からなかったが、また頭に警鐘が鳴っていた。

「看護師に聞きましたよ。悪いものを見たそうですね」

「うん、まあ。さっきも聞こえたよ。病室の中で誰もいないのに人の声が」

「やはり幻聴がしているようですね」

 否定も肯定もできなかった。

「でも大丈夫ですよ。我々に全て任せてください。大丈夫、安心してください」

 私は少しも安心して身を任せられる気がしなくて、後ずさった。一歩ずつ近づいてくる彼らは、目が笑っていないのだ。

 足を引いたと同時に、背中が何か柔らかい障害物に当たった。何もないはずの廊下でいったい何にぶつかったのかと、振り向いて驚いた。

「お待たせ。お見舞いに来たよー!」

 ライオネルがこの場にそぐわぬ明るい調子で声をかけて来た。横にはユーティーもいた。

「二人とも、来てたのか!」

「あ、どうも。連れが心配で来ちゃいました」

 二人の登場は医者達も予想していなかったようで、言葉を失い互いに顔を見合わせていた。

「なんか、こいつ悪いんですか? 病気ヤバいんですか?」

 ユーティーが空気を読まずに医者に問いかける。

「……幻覚や幻聴の症状が強いようですね。でも見たところ元気そうですから、経過観察で良いでしょう。病室で休んでくださいね。後でまた巡回に来ますから」

 医者達は反転し、元来た方向へ去っていった。

「ライもユーティーも、よくこんなに早く来れたな。助かったよ」

「元々行くつもりで向かってたとこだったよ。この街なんにも遊ぶところないから早々に暇になってさー」

「迷って変なとこ周っちまったな」


 ひとまず病室へ戻った私は、これまで起こったことをありのまま話した。

「怖っ。お化けでも出るのかな」

「鏡に影? 何もなさそうだけど」

 ユーティーは鏡の前へ歩み寄り、顔を傾けて覗き込んだ。ライオネルもベッドの下を覗いたり、部屋の中を歩いたりした。更に念のため全ての戸棚を開け、窓の下を覗いた。最も病室の窓にも鉄格子が入っているため、顔を出して覗き見ることはできなかった。

 二人の存在が目の前にあるだけで私にとっては心強かった。仮に何か得体の知れない物がいたとしても、危害を受けないようこのままやり過ごせれば十分だ。

「でも、クリスの心配はちょっと一理あるかもね」

 ライオネルが口を開いた。

「どういうことだ?」

「さっきの医者達のカートの上に、モルヒネの瓶と何かの液体が入った注射針があったんだ。多分モルヒネかな。あと睡眠薬の瓶も見えた。すぐにでも誰かに注射したいみたいにね」

「詳しいな、お前」

 ユーティーが突っ込む。

「ああ俺……昔はやんちゃしてて、いつも病院にはお世話になってたからさ」

 ライオネルが恥ずかしそうに視線を下へ向ける。彼が昔、武術の心得があるのをいいことにストリートファイトで暴れていたのは知っている。過去の悪さを自慢する風でもなく、本当に恥ずかしそうだ。

 それを聞いて、私が彼らに対して感じた違和感と合致した。

「まさかモルヒネを私に? もしそうならおかしいよな。モルヒネは強力な鎮静剤だ」

「それにあの体のでかい看護師はどう見ても、暴れる精神病患者を抑える要員だったよな。クリス、やっぱお前どっかおかしいんじゃないか?」

 ユーティーが無造作に私の頭を鷲掴みにする。

「彼らは私の妄想だと言ってる。私もそれならむしろいい。ただの薬の副作用なら、朝まで大人しくいるだけだ。でもお前達から見て、私はどうだ?」

「いやどう見ても普通だけど」

 ユーティーが言い、ライオネルも頷いた。

「それに俺は、医者だろうが何処ぞの知らない奴よりクリスを信じて付いていくから、頭がおかしくなっても安心して構えててよ」

「ありがとう、ライ」

 ライオネルの励ましになってないような励ましに、思わず笑った。

 彼はそのまま続けた。

「そうそう、気になることが他にもあったんだ。さっきユーティーと行ったバーで」

「ああ、あいつら変なこと言ってたな」

 二人が言うには、スタンディングバーで飲んでいて近くにいた地元の若者と仲良くなったのだという。


「あんた達どっから来たの?」

「俺たちは旅の者で、国中を旅して回ってるんだ」

「何それ、かっこいい!」

 若者が意味も分からず目を輝かせる。

「俺たちの大将ーーもう一人の連れなんだけど個人投資家で、彼女の仕事に付き合ってるんだよ」

「へえ、その人どこにいんの?」

「ここに来てから腹壊して入院してる」

「可哀想に。どこの病院?」

「確か…蛍野西病院だったかな。この近くの」

 その名前を言うと、若者達は眉をひそめて苦笑いをしたという。

「ああ……有名な精神病院」

「はあ? 普通の総合病院だったぞ」

「あそこ、最近は変な精神病者が多いんだよね。マッド医者の吉塚って男も入院したし。うちら地元民はわざわざあそこ行かないよ」

 すると、別の若者が会話に混ざって来た。

「なあ俺さ、聞いちゃったんだよ」

 やや酔っている様子のその若者は、神妙な顔で語り始めた。

「こないだ行方不明になったダンていう、ほとんど仕事もしないでずっと路上で飲んで遊んで暮らしてるやついただろ」

「知ってるよ。たまにこの店でも見かけたな」

「ま、そんな奴だからいなくなったって聞いても、捕まったかふらっと他の街にでも行ったかくらいに思ってたんだけど、清掃会社で働いてるダチが見たんだよ。蛍野西病院の業務用廃棄物に、あいつのいつも着てたパーカーとリストバンドが捨てられんのを!」

 ライオネルとユーティーは話が飲み込めずにいた。

「つまりどういうことだよ? その友達が入院してるってことか?」

「いや、それなら行方不明扱いになってるのも変だろ。病院が何か隠してると思うぜ」

 それ以上のことを推察できる材料もなく、結局酔った若者はいつの間にかまた何処かへ消えた。



「昼の中華料理屋でもこの病院の話を聞いたよ。マッド医者が精神病院に入れられたって話していたが、多分吉塚って奴と同一人物だろう。この病院は妙な噂が多いんだな。……調べて警察に言うか?」

 どこで誰に聞かれているか分からない。私は声を潜めた。

「無駄なことに首突っ込まない方がいいぜ。噂程度じゃ警察も相手にしてくれない。とにかく荷物まとめろよ。腹痛も治ったんだろ? さり気なく出てって早めに退院したことにすればいい」

 この病院への違和感をそのままにしておくのは居心地が悪かったが、ユーティーの言葉はもっともだ。こんな時に彼の単純な性格を有り難く思った。

 私は病院着からTシャツに着替えて荷物をまとめ、髪も結い直した。そしてリュックを背負い、静かに病室を後にした。

「俺たち正面からじゃなくて、入院患者用の裏口から入ったんだよね。そこなら誰も人はいなかったよ」

 ライオネルが先導し、私は静かに続いた。真っ暗な廊下を、音を立てずに進む。足音が出ないよう、靴は脱いだ。先ほど二人と遭遇した廊下の突き当たりまで行くと、そこから2階へ上がった。2階にはB棟からC棟への連絡通路があり、そこを通過してC棟へ行き、また1階へ降りた。C棟もまた廊下は暗くて人気がなく、電気が点いている病室もないようだった。

 ライオネルによれば、二人はC棟の1階にある通用口から入ったのだと言う。

「この先が出口だよ。誰もいないかどうかちょっと見てくるね」

 そう言ってライオネルは廊下の突き当たりの角を右に曲がって行った。彼は身軽で、音も立てずにあっという間に消え去った。ユーティーは私の側に止まった。

 辺りは静寂そのもので、自分の吐息すら煩く聞こえてしまう。30秒ほど経っただろうか。遠くで微かに物音が聞こえた。廊下の突き当たりは非常灯でうっすらと見えるが、ライオネルの姿はまだ見えない。更に30秒ほど経って痺れを切らし始めた頃、ユーティーが囁いた。

「今、遠くで人の声がしたよな?」

「そう?」

 私は耳を澄ませた。微かに反響した何かの音が聞こえる。だが人の声かどうかまでは判別できなかった。ライオネルの姿がないのも心配だ。ユーティーが手で先へ行こうと合図してきたので、私は頷いた。

 周囲に人気がないことを確認してから、右へ曲がった。そこで遭遇したのは思わぬ物だった。廊下を曲がった先は行き止まりだったのだ。

「……!」

 ユーティーは目を見開いていた。手探りで近づいてみると、行き止まりの理由はシヤッターが降りていたからだった。廊下を曲がった先からシャッターの手前までは、隠れるような場所や他の出入口は見当たらない。ライオネルはシャッターの向こうにいるに違いなかった。しかしなぜシャッターが降りてしまったのだろうか。

 下から人力で開けようとするが、どうやら施錠されているようで動かない。こじ開けようとすれば音が出るし、防犯装置も作動するかも知れない。ユーティーも同じ考えに至ったようで、シャッターをどうにかしようとするのは止めた。

 その時、背後から足音が聞こえた。廊下の反対側の奥からだ。姿は見えないが、遠くから足早に近づいてくる音が僅かに聞こえる。ライか? と言いそうになって、堪えた。彼は靴を脱いでいた。革靴の音が聞こえるはずがない。

 私とユーティーは音がする方向へ走ってすぐに左へ曲がり、元来た廊下へ引き返した。鉢合わせをする前に逃げるためだ。そのまま階段を上がり、踊り場で一度止まった。2階の方を見上げても、非常灯以外の明かりはない。真っ暗だった。

 ゆっくりとC棟2階の廊下を進む。私のいたB棟と同じように、片側に窓、片側に病室が並ぶ構造だ。私達は適当な病室へ逃げ込んだ。転がり込むように這って入り込み、ゆっくりと扉を閉めた。月明かりで室内が僅かに浮かび上がり、4つの空のベッドが見えた。

 外を窺うように、ドアの側で身を寄せ合った。私と同様に、ユーティーの心音が非常に速く鳴っているのが伝わってくる。少し息も上がっていた。

 足音が追って来ないことを確認した後、ユーティーが口を開く。

「ライに何か起きたことは間違いない」

「ああ」

「マジで怪しくなってきたな。この病院」

「ここの連中は信用できない。今はライを助けて、ここを出ることだけ考えよう。……問題は出口だ。精神病患者や要介護者が入院していることを考えると、患者が簡単に脱走できない仕組みになっているかも知れない」

「でも俺とライは入って来れたぞ。……ああ、確かに外からは入れても、中からは開けられなくなっていたとしても不思議じゃないな」

 私達は考え込んだ。この病院の構造は全く知らないし、職員に見つからず闇雲に逃げるのは不可能に近いだろう。

「一般外来の建物の方へ行けば、正面の玄関から出ていけるかも。ナースステーションの前を通ることになるが」

 それは私が初めに入った診察室から、病棟へ来る際通過してきた道だ。少なくとも一度通った道ならば、他の出入り口を探すよりも容易い。

「賛成だ」

 私はユーティーを先導し、C棟の2階から通路を通り、またB棟の1階へ移動した。ナースステーションには誰かがいて監視していると思ったが、予想に反して誰もいなかった。そのまま通過し、外来へ向かう。

「……駄目だ」

 私は呟いた。病棟と外来を結ぶ通路の間にも、シャッターが降りていた。ライオネルが消えた入り口と同様だ。ユーティーもため息を吐くが、すぐに切り替えた。

「こうなったらどっかの窓を壊して……」

 その時、私達は二人とも言葉を止め、耳を研ぎ澄ませた。今度は私にも確かに聞こえる。


 ーークレーーココーーダーー


 人の声だ。反響してくぐもっているが、男の声のようだ。ーーここだ、と言っているのか?

「上か? ライかも知れない。様子を見てくる」

 ユーティーが即座に方向を変えた。

「待って、私も行く。離れればまたはぐれるかもしれない」

 付いていこうとする私をユーティーは静止する。

「お前は逃げる方を優先してくれ。場合によっては警察を呼べ。俺とライはこういうのが仕事だろ? 心配すんな」

 そう言い残すと、ユーティーは素早くB棟の階段を上がって行った。一人になると不安が増す。しかし今やるべきことは、助けを呼ぶことだ。記憶が正しければ、この階のトイレには小窓があった。私は足早にトイレへ駆け込んだ。

 やはり窓はあった。位置が高くそのままでは届かないが、用具入れからバケツなどを取り出して足場を作る。ようやく窓に手が届き、開けることができた。窓は中央の水平な軸を中心に回転させて開閉する仕組みで、半分しか開かなかった。これでは体格の小さい私は通れても、あの二人は通ることができないだろう。他に出られる場所を探さなくてはならない。

 一旦戻るため、掛けた足を戻した。その時遠くで悲鳴が聞こえた。


 ーーうわああっ!


 紛れもなくユーティーの声だった。続いて、何かがぶつかるような鈍い音が何度か聞こえ、やがて静かになった。彼に何らかの危険が及んだのは明白だった。

 このまま逃げて警察を呼ぶべきか、助けに行くか数秒間考え込んだ。彼は逃げて警察を呼べと言っていたが、ユーティーが今危険な目に遭っているのなら、警察を待っていては間に合わない可能性が高い。それは友人を見捨てて逃げることになってしまう。今向かえば、まだ助けられるかも知れない。

 私はトイレを出て、ユーティーの後を追った。階段を上がって行ったところ以降の足取りは分からず、居処を見つけるため焦りながら2階の廊下を駆け抜ける。すると突然足が滑り、体制が崩れた。足元の踏ん張りが利かなくなり、バランスを保とうとしたが結局床に尻餅を付くこととなった。目線が床近くに下がったことで、窓からの明かりに照らされた床が見えるようになった。廊下には雨漏りをしたかのように黒い液体が撒かれており、これに滑ったのだ。

 指に付いた黒っぽい液体をスマホの明かりで照らすと、鮮やかな赤色をしていた。間違いなく血溜まりだ。乾いていないし、発色も鮮やかだから新しいものに違いない。

 私は床を這いながら血痕を追った。しかし残念ながらすぐに途絶えてしまい、足取りを掴むことは叶わなかった。もうすでに物音はなく、人の姿もない。私はとうとう一人になってしまったことを悟った。


 私は即座に警察を呼び、到着するまで一階のトイレに隠れた。警察は私の言葉に半信半疑のようだったが、必死で二人の友人のことを伝えると、来ると約束をしてくれた。

 その間も二人のことが気が気ではなかった。

『どこにいる? 連絡を待ってる』

 グループチャットに送ったメッセージはいくら待っても音沙汰なく、既読も付かない。そうしている間に電池の残量だけが減っていく。

 二人はただの友人ではない。旅の途中に出会って一年足らずの仲だが、これまで数え切れないほどの苦楽を共にして来た。彼らなりに思うところがあって旅に付き合ってくれているにも関わらず、危険が迫れば常に守る姿勢を見せてくれることに、感謝してもしきれない。

 毎日のように一緒にいて、喧嘩はするが離れたいと思ったことはない。生馬の目を抜く世界で仕事をする私にとって、仕事と無縁の場所にいる彼らは精神安定剤のような存在でもあった。この三人の間には男女の垣根すらなく、家族のように思える。

 私のために彼らが危害に遭ったなら、とても耐えられない。


 サイレンの音が聞こえ始めたので、私は外へ出て、入院患者用出入り口へパトカーを誘導した。騒ぎに気付いた職員達がすでに集まって来ていた。

 私は二人の警官に対し、友人がこの病院の中で行方不明になり、血痕が残されていたこと、誰かの叫ぶ声のことなどを説明した。その前の、鏡に写る人影や人の呼び声のことは伏せていた。しかし彼らは淡々と事務的に頷くだけで、緊急さを理解しているように見えず、温度差を感じた。

「……そうですか。クリスさん、お話は分かりました。では少し調べてみましょう。ここの責任者の方は?」

「おやクリスさん、こんな所にいたんですか。探しましたよ」

 背後から声が聞こえて振り向くと、見覚えのあるあの白髪の医者と看護師達が立っていた。

「私が責任者です。またうちの患者がご迷惑をおかけしました」

 “また”ということは、この警官と医者は面識があるのだろうか。警官は医者の姿を見て安堵した表情を見せ、言わずとも何かを理解している様子だった。

「クリスさん、また病室を抜け出したんですね。また悪い夢を見ていたようですが、もう大丈夫ですよ。疲れたでしょう。……さあ戻りましょう」

 医者は優しい口調で促した。

「冗談じゃない、友達はどうなる?! ほんの一時間前私を見舞いに来たあの二人を、お前達も見ただろ?」

 医者は静かに首を振った。

「いいえ、お友達は始めからいませんでしたよ。最も、あなたの心の中にいつも存在しているのは知っていましたがね」

「訳のわからないことを言うな。彼らは血痕を残して消えたんだぞ。2階の廊下に真新しい血が広がっているのをはっきりと見た。お前達が何かしたんだろう?」

「信じられないのなら、見に行きますか? 警察の方も一緒にどうぞ」

 私は警官と医者を伴って再び建物の中へ入った。ライオネルとはぐれた廊下では、閉まっているはずのシャッターは開いていた。そのままB棟の2階へ向かう。

 しかしそこにあるはずの血痕はどこにも見当たらなかった。

「そんなはずはない。確かにここだった。どうせ拭き取ったんだろう? 証拠を隠すために」

「クリスさん、目を覚ましてください。どうか落ち着いて聞いてください。……お友達は最初から存在しないんです。あなたはここへ来てからもう1年も悪夢に悩まされている。恐ろしい幻覚や幻聴に。薬を飲んでも何度も繰り返していましたね」

 医者は私を刺激しまいと、穏やかな口調で優しく語りかけてくる。嘘を言っているようには見えない、慈愛に満ちた目で私を見つめながら。

「またふざけたことを。私がここへ来たのは昨日だ。旅の途中で鉄道が運休になったからで、食あたりになってこの病院を見つけたのもたまたまだ。そもそも来る予定もなかったんだぞ」

「ここにカルテがあります」

 ナースがファイルを開いて私に見せてきた。そこには1年前の日付が書かれていた。始まりは”失業による鬱”となっていた。それ以降も定期的に診断記録や投薬記録が記されている。

「覚えていないかも知れませんが、1年前あなたは破産して職を失い、死地を求めてこの見知らぬ町へたどり着いた。そして死に切れず、ここへ入院した」

「いや、私は破産などしていない。つい昨日まで仕事をしていたし、商談相手も待っている。証拠はいくらでもある。そうだ、携帯を調べてくれ」

 私は警官に向き直ってスマートフォンを差し出した。しかし画面は暗いまま、電源が入らなかった。警官は哀れむような目で見つめるだけで、受け取ろうともしなかった。

「クリスさん、あなたは辛かった記憶を別の記憶にすり替えているんだ。辛い幻覚に悩まされて、自分の心を守ため、心の中で新たに二人の友達を作った。それを受け入れてください」

 私は医者達と警官を交互に見た。医者達は穏やかに佇み、警官はただ私達のやり取りを静観している。

「おいどうしてこいつらを調べない? こいつらが言っているのがデタラメだと、調べればすぐに分かるんだぞ?」

 私は警官に詰め寄った。しかし、死角になった背後から誰かに腕を抑えられ、体の自由が封じられるのを感じた。

「どうしてと言われても、この病院の患者さんは皆さんそう仰いますから……」

 警官が困ったように返答する。

「お手間を取らせましたな、お巡りさん。これで調書は大丈夫ですか?」

「ええ。ご苦労様です」

「こちらこそ」

 警官は会釈をして去ろうとする。このまま帰らせるわけにはいかない。あの二人が永遠に消えてしまうような気がした。私は拘束から抜け出そうと必死でもがいた。興奮により心臓が恐ろしい勢いで鼓動している。

「この病院には何かあるぞ! 行方不明のダンってやつの服がこの病院に捨てられていたらしいからな!」

 警官は少し振り返り、また哀れみの目を向けてそのまま階段を降り消えていった。もがこうとする私の腕には、次第に力が入らなくなる。感情が昂っていたにも関わらず意識が朦朧として、酔っているような感覚に襲われた。そう言えば腕を掴まれた時、何かを注射されたような気がする。

 抵抗も虚しく、私の意識はブラックアウトしたように奪われていった。

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