ガラスのリンゴ

遥飛蓮助

ガラスのリンゴ

 血痕が付着している。その言葉を定年後に使うとは思ってもみなかった。

 梅雨を思わせる長雨がここ何日も続いていた。朝も昼も、もちろん夜も、雨が降り続く。

 賃貸アパートに一人暮らし、というだけで気が滅入るというのに。仕事一筋に生きてきたせいで、趣味も友人のなく、惰性のような余生を送るこの身にも、長雨が否応なく打ち付けた。

 煙草が切れた。食材の買い出しついでに忘れ、まだ一箱くらい残っていると記憶違いを起こしてこのざま。

 諸行無常。意識は若いまま、体だけが老いていく。喉までこみ上げた虚しさをビールで流し込んだ後、ビニール傘を手に部屋を出た。煙草のついでに缶ビールとつまみ。あと牛乳も、切れる前に買わなければ。

 血痕に気付いたのは、コンビニに入って、レジを横切ってから。足の形に滴る雫が赤く見えたのだ。

 そろそろ目もいかれたのか。それともコンビニの、嫌に明るい照明のせいか。目をもみほぐし、もう一度下を見る。雫は依然として赤く、ズボンの裾にも、雨が跳ねたような赤黒い痕が付いていた。

 どこかで事件が起きたか、もしくは今も起きているのか。であればすぐ、現場に向かわなければ。

 水を得た魚とでも言おう。雨は憂鬱と共に、しわくちゃな俺の背筋を伸ばす水となった。

 再びビニール傘を差してコンビニを出ると、薄暗い周囲を見回しながら来た道を戻った。いわゆる職業病というヤツなら、刑事の勘も健在なはず。自惚れでもなんでもいい。裾に付いた血痕だけでは証拠として弱い。もっと確実なものはないのか。俺は目を皿にして探した。

 このまま自分の部屋に戻っていくのかと諦めかけたその時。一メートル先に佇む、全身ずぶ濡れの若者がいた。

 真っ暗な視界を照らす街頭の、白い灯りを跳ね返す白い服。こちらからは半身しか見えないが、体格は中肉中背。いや、それ以下かもしれない。最近の若者は男女問わず胸板が薄い。濡れた髪が重く垂れ下がっていて、前髪も後ろ髪も長く見える。故に性別も不明。

「ここでなにをしている」

 ここ何日の話していないせいか、想像よりしゃがれた声が自分の喉から出た。若者は気怠そうに頭を動かすと、前髪の下から俺に視線を送った。俺と目が合っているかは分からない。頬も白く痩せていて、シャープな顎が目に付いた。

「風邪引くぞ。それとも迷子か?」

 一向に返事が来ない。仕方なく近づくと、街頭の下には、白以外の色が見えた。

 若者は、近づいてくる俺に体を向ける。白い服の裾と白いズボンの半分を赤黒く染め、服の袖口から赤い雫が滴り落ちていた。段々と、焦点の合わない黒い目に近づいていく。涸れ井戸のような暗さの黒だと思った。

「自殺するなら、他人の迷惑にならないところでしろ。家の浴槽とか」

 家の、という言葉に反応して、若者の肩が震えた。怯えているのは明らかだった。袖口の他に目立った傷は見えないが、傷は体だけに付くとは限らない。刑事になりたての頃、交番勤務中に出会った非行少年少女共を思い出した。

 俺は汚れていない方の若者の腕を掴んだ。『骨と皮』という表現が頭に浮かんだ。

 若者は、見ず知らずのじじいのお節介に抵抗しなかった。この様子では、無気力なのは雨に打たれたせいとも限らない。

「お前も運が悪いな。いくぞ」

 どこへ、とは言わなかった。若者も俺に引っ張られるがまま、ズルズルと足を引きずりながら付いてきた。もうどうにでもなれといった感じだった。


 若者がどこにいたのか、その時どんな様子だったか。俺は交番に常駐していた男性警察官に向かって簡潔に伝え、後は若者を押しつけて帰ろうとした。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。せめてあなたの名前だけでも聞かせていただけませんかっ」

 時代劇の台詞だろそれ。だが今のご時世、「名乗るほどの者でもない」が通じなくなってきた。めんどくさそうに振り返ると、顔の輪郭も眼鏡も四角四面の警察官に吐き捨てた。

「ヒバリだ。俺の身元が知りたいなら、本庁に『鬼のヒバリ』で聞いてみろ」

 我ながら至極丁寧に言うと、さっきの若者がぬっと出てきた。とはいえ俺と同じ百七十センチの身長じゃ迫力に欠けるが。

「どうした? そんなに家に連絡されたくないんだったら、俺に突っかかるより逃げた方がいいと思うが」

 男性警察官の驚く声が聞こえ、若者の手当をしていた丸顔の女性警察官も出てきた。

「ちょっとあなた! 熱もあるんだから、じっとしてなきゃ駄目じゃない!」

「だそうだが?」

 どうすんだ、と若者の顔を見返すと、服の袖に重みを感じた。若者が、俺の裾を掴んだのだ。袖を持ち上げて振り落とそうとしても、若者の手は落ちない。女性警察官が「やめなさい!」と言って若者の腕を掴んでも、びくともしない。どこにそんな力があったのか。

 男性警察官は俺達の様子をまごまごしながら見守っている。それでも警察かお前。

「……てめぇがしたいことを行動で示すのはいいが、状況を考えろ。お前は何がしたいんだ」

 家に連絡されたいのなら、元刑事のじいさんではなく、そこで泡を食っている男性警察官に訴えるべきだろう。なのになぜ俺に白羽の矢が立った?

「……あの」

 俺よりも嗄れた声が、若者の口から出た。雨に濡れていたのに、唇だけは砂漠のように乾いていた。

「……ヒバリさん、の、家に、行きたい、です」


 どうしてこうなった。どうして、同じ身長の奴が、俺んちのリビングのソファで寝ているのか。

 それを思い出すにも、夜が更けすぎている。午前四時。空はまだ雨雲がたれ込んでいる。

 俺と警察官二人の説得も甲斐無く、若者は人の布団を頭から被り、規則正しい寝息を立てている。

「若者の説得もできないなんて……警察官として恥ずかしいです」

 途中で何かあるといけないからと、部屋まで付いてきた男性警察官が、四角い体を小さくした。

「ああ、こちらはいい迷惑だ。あいつの身元が分かったら、俺の携帯に連絡しろ」

 自分の過失を反省するのはいいことだ。俺は警察官を見送った後、コンビニへ引き返し、風邪薬とスポーツドリンクと、ポテトサラダを買って帰宅した。缶ビールとつまみと煙草は、なんとなく買いにくくて諦めた。

 リビングのテーブルに風邪薬とコップ一杯の水を置いて、キッチンに向かった。

 買ったばかりのポテトサラダを皿に移し、冷蔵庫から出したリンゴの皮を剥く。剥き終わると角切りにして、ポテトサラダに混ぜた。風邪の時はすりおろしたリンゴの方がいいだろうが、若者だったらポテトサラダくらい腹に入れられるだろうと甘く見積もった。

 それも箸と一緒にテーブルに置いた。若者はまだ起きない。俺は散らかしたままの服やゴミを片付け、手持ちぶさたな時間を潰した。

 片付けも終わると、今度こそ手持ちぶさたになって、汚れた窓から空を見た。午前五時。夜明けが近いというのに、今日も雨雲は太陽の邪魔をするつもりなのだろうか。

 部屋に、雨の音と、若者の寝息と、冷蔵庫の機械音が流れる。俺は物書きじゃないから、今の状況を情感たっぷりに伝えることはできない。事情聴取の内容を報告書にまとめるぐらいならできるが。

 だからお父さんは情緒がないのよ、と生前の妻の言葉を思い出した。あれは、あいつがピンピンしていた頃に行った美術館の帰りだったか。それとも、あいつを乗せた車椅子を押して、病院の桜を見上げた時だったか。

 そういえばあの警察官、若者の名前を聞かずに帰ったような気もしなくもなくなってきた頃、やっと若者が起きた。濡れていた髪は、耳かきのボンボンみたいにぼさついている。

「起きたか。それ食って薬飲んでろ」

 俺が『それ』と言ったものを探して、若者は寝ぼけ眼を彷徨わせる。「ここにあるぞ」と、皿の端を指で弾く。キンと冷たい音が響いて、若者の目が止まった。同時に頭も傾いた。

「すりおろしたリンゴでも出てくると思ったか? 勝手にウチに来たいとか駄々捏ねた仕返しだ」

 言葉にすると嫌に子どもっぽいな。言ってから後悔した俺は顔を顰め、若者から顔を逸らした。

 午前六時。咀嚼する音が聞こえる。コリコリでもなくポリポリでもない、なんとも言えない音が響き、やがてシャクシャクという音に変わると、咀嚼音が途切れた。

 もう一度若者を見ると、若者はまた咀嚼し始めた。シャクシャク、シャクシャク。さっきのコリコリとポリポリよりしっかり、味わっているように見えた。

「――なんで俺んちに来たいって言ったんだ」

 俺が聞いても、若者はポテトサラダを咀嚼することに専念した。コップの水に手を出そうとしたので、冷蔵庫に入れていたスポーツドリンクを持って来て手渡した。若者は礼も言わずに封を切り、口を付けた。

「……雨宿り、させて、くれると、思った、から」

 鳥だけにか、と冗談を言うと、若者は軽く頷いた。女にしては低く、男にしては高い声だ。

「お前、名前は?」

 そろそろこいつを『若者』と呼ぶのも辛くなってきた。名前なら、性別も判断できるだろう。

 若者はポテトサラダを飲み込んでから「カラス」と言った。おいおい、勘弁してくれ。こいつは鳥の名前じゃないと、雨宿りの一つもさせてくれないと思ったのだろうか。

「俺の名字はあだ名じゃねぇからな」

 言ってやると、カラスは体を小さくさせて、口の中でモゴモゴと動かした。

「だって……自分の、名前……嫌いだから……」

 試しに「どんな名前だ?」と聞くと、ポテトサラダの残った皿を置き、布団を掴んで引き寄せた。顔に赤みが差したのは風邪のせいだろうか。

「しょ……しょうこ……『ガラス』って漢字で……硝子しょうこ

 声の低い女だった。なるほど、だから『カラス』か。随分ハイカラな名前だな。

「なんだ。『カラス』より綺麗な名前じゃないか」

 心からそう思って口にしたところ、カラスは小さい悲鳴を上げて布団を被ってしまった。そんなに自分の名前が嫌いなら。しばらく『カラス』と呼んでやるか。

「カラス、寝るなら薬飲んでからにしろ。残りのポテトサラダとスポーツドリンクは冷蔵庫にしまっておくからな」

 布団越しに声もかけるも、カラスは身動き一つしなかった。仕方なく自分の言葉通り、残りのポテトサラダにラップをかけ、スポーツドリンクと一緒に冷蔵庫にしまった。

 雨が上がるまでの辛抱だと思えば、カラスの面倒くらいどうってことはない。俺も欠伸しながら、自分の寝室へ引っ込んだ。

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