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「それじゃあ、胸につっかえているものも解決したことだし。なってくれるよね?」

「……分かりました。貴方の偏食が治るまでお仕えします」

「うーん。まぁ、今はまだそれでいいや。うん、よろしくね」



 


 ことさら強調されたわけでもないというのに、何故かその言葉が凛莉の耳に残る。けれど、気づかないフリ、知らないフリを通してその場をやり過ごす。下手に刺激すると前世の二の舞だ。


 姿勢はそのまま、月新と合わさる視線だけ落とすと、回廊をこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてくる。



「殿下! 晧月ハオユエ皇太子殿下! どちらにおいでですか!?」



 誰か分からないけれど、若い男の人の声が探し人の名を大声で呼ばっている。足音の主と同じ人物のようで、凛莉が僅かに視線を上げると、月新はその両方の音がする方を冷ややかに見ていた。



「……今世でも、皇太子にお生まれになられたのですか」

「今までと同じ口調で構わないよ。君はトクベツだから」

「え?」



 凛莉は月新――皓月の言うトクベツの意味を図りかねた。


 紅華の時でさえ、彼は自分で婚約破棄しておきながら鳥籠のような室に閉じ込め、本人曰く大切に愛でるという理解できない振る舞いをした前科がある。


 彼に仕えても、決して信用も信頼もしてはいけない。


 それが自分のためだから。



「あぁ、こちらにいらっしゃったんですね!? 本日は今度迎える皇太子妃様を皇族の皆様にご紹介なさるための準備があると……と、失礼いたしました。妃殿下もご一緒とは」

「……え?」



 扉を開けて入ってきた文官風の青年が二人の姿を見つけるなりまくし立てるように口にした言葉に、凛莉は束の間言葉を失った。



浩然ハオラン



 冬の底冷えのごとき低い声音で名を呼ばれた文官の青年――浩然は自分の失態に今更ながら気づいたらしく、顔をサァッと青ざめさせた。そのままその場で急いでひざまずき、頭を床にり付けている。



「も、申し訳ございません!」

「……どういうことですか?」

「ん? あぁ、そういうことだよ」



 分かった?と、晧月は笑みを深める。

 けれど、凛莉の方はそうはいかない。むしろ、分かりたくもないのが本音だ。眉を寄せ、先ほど口にした約束を反故ほごにする手立てがないものかと考えを巡らせる。


 しかし、やはり晧月の方が一枚も二枚も上手だった。



「あれ? 一度是と言った言葉を撤回するつもり? それなら、こちらも撤回しても文句は出ないはずだよね?」

「……何をされるおつもりですか?」

「君の父親、帰すのをやめようかな。それとも、皇族として一度約束したことを守らないのは体裁が悪いから、帰すには帰すけど、二度と料理ができないよう腕を潰してしまうっていうのは?」

「……相変わらず、ご自分のことしかお考えにならないのですね」

「だって、他の者のことを考えていたら、いつまで経っても手に入らないじゃないか。まずは自分が手に入れてから。他のことを考えるのはそれからだよ」



 いくら時を経て、姿形が変わろうと、目の前で笑みを深める男が持つ根本は変わらなかった。他者に厳しく、酷く冷ややかで、容赦がない。己が文武揃いの優秀さをおごるわけでもなく、さりとて利用しないわけでもない。そして、なにより、目的のためなら手段を選ばない。



「安心して。自分の料理は自分で作っていいから」



「これで毒殺の心配はないね」と続ける晧月は、血の跡に目をやり、その跡を踏みにじる。余程紅華の最期となった毒殺事件が腹に据えかねているのだろう。その瞳は酷くくらい。


 ふと凛莉が傍に控えていた浩然の方を見ると、肩を震わせてまだ頭を下げたままだった。


 晧月の横を通りすぎ、凛莉は浩然の前で膝を折った。晧月は黙って腕組みをしてそれを見ているだけ。それが余計に恐ろしい浩然は気が気じゃない。



「頭を上げて、立ってください。掃除はしてあるみたいですが、汚れます」

「い、いえ!」

「さぁ、早く」



 浩然の腕を掴み、半ば無理やり立ち上がらせる。


 紅華の時は高位貴族の娘として人にかしずかれる身分だったが、今の凛莉は一料理人の娘だ。もっといえば、紅華の時も本当は美琴としての感覚があったためにもどかしさしかなかった。


 今の自分の立場と、この後宮にまで入ることができる浩然の立場。どちらが上かといえば、考えるまでもなく浩然だ。


 それに、衛生面を大事にする料理人の娘として、不衛生な事をする者は見過ごせない。



「殿下」

「なんだい?」

「お時間もないようですし、呼びに来た彼の立場もあるでしょうから、一旦は受け入れます。ただし、条件が二つ」

「二つ? 聞き入れられるものならいいよ」

「まず、父をここに連れてくる前と同じ状態で家に帰し、家族には手を出さないこと。それから、先ほど言ったとおり、私がここにいるのは貴方の偏食が治るまでということ。これを聞き入れられないというなら」

「……いうなら?」

「皇后陛下、ひいては皇帝陛下にお願いし、こちらを辞去させていただきます」

「……へぇ?」



 いくら皇帝の息子である皇太子の妃であっても、この国では皇宮内の女の地位は後宮のソレに準じる。あくまでも、住む場所と仕える相手が違うというだけに過ぎない。

 現在の後宮の実質的な頂点は皇后。二大権力となりがちな皇帝の母親である皇太后は現在病で床にしているというから、皇后で間違いはない。

 その皇后に、妃は定期的にご機嫌伺いに行かねばならないのが宮中のおきて。申し出はその際にいつでもできる。



「でも、その脅しなら、その条件を飲んだとしても別の時でも使われるでしょ?」

「たとえ使って逃げられたとしても、貴方には家を知られていますから。無意味でしょう?」

「そうだね。今度は目に入れても痛くないほど可愛いがっている弟もいるしね」

「……貴方のそういうところ、私は本当に嫌いです」



 嫌いと言っているのに嬉しそうにそっかと笑う晧月に、凛莉はなんだか複雑な心持ちになった。


 一人、晧月と凛莉のやり取りを黙って聞いていた浩然は、なんとか場が収まったようだと分かると、ホッと胸を撫でおろした。もちろん気づかれないように小さくだ。



(今度こそちゃんと逃れ切ってみせなきゃ。血溜まりあれの二の舞になってたまるもんですか。……仔空、待っててね。お姉ちゃん、頑張って急いで帰るから!)



 こんな時、思い出されるのは家族の――大切な弟の笑み。


 凛莉は密やかに固い決意を胸に刻み込んだ。


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