閏桜(うるうざくら)

未翔完

閏桜


 目が覚めた。

 といっても目がえているわけではない。

 むしろ意識はぼんやりとしていて、まるで夢の中のようだった。

 ……いや、これは現実なのか? 

 このこそが夢の中だという証左しょうさなのではないだろうか。


 俺は起き上がって、目の前にあった壮麗な景色に息をんだ。

 見渡してみれば無数のさくらの木。しかもそのすべての花が満開だ。

 そしてそれらの桜に守られているかのように、一際ひときわ大きくピンク色が綺麗な一本の桜の木が俺の前に立っていた。

 地面は桜の花びらで満たされており、遥か遠くには白く淡い光しか見えない。

 一体、此処ここはどこなのだろう。


 優しいながらも力強い、何とも矛盾した感情を抱いてしまう風が吹き抜ける。

 その風の勢いに一瞬だけ目をつむる。

 再び目を開けると、目の前の景色は少しだけ変わっていた。

 強い風に木の枝は揺れ、その末節についていた花びらは風に運ばれて消える。

 無数にある桜の木から離された花びらも、また数えきれない数で。

 たちまち大きなさくら吹雪ふぶきをつくって、何処どこかへと行ってしまう。

 そんな、どこかはかなげな光景に目を奪われていた。


『あなたが、導かれた人ですね』


 突然、声がした。当然俺の声ではない。

 「誰だ」と声を発そうとした。しかし、声が出ない。

 呼吸はできるし、吐息といきを漏らすこともできる。ただ喉を震わせて、声を出すことだけが叶わないのだ。

 

『ああ、声を発すことはできませんよ。此処は現世うつしよではないのですから』

 

 現世じゃない? 俺は死んだっていうのか。

 じゃあ此処は天国っていうことなのだろうか。地獄という可能性もあるけれど、この光景を見てそう考える人間はあまりいないだろう。

 

『あなたは死んでいるわけではありません。むしろその逆……。今まで生きてこられたからこそ、此処に導かれたのです』


 つまり俺は生きていて、何かの目的の為に此処に導かれたっていうことか? 

 正直よくわからない。というか、一体この声は何処からなんだ?


『私はあなたの目の前にいますよ』


 ……目の前? 

 といっても眼前にあるのはこの桜の巨木だけで、誰も人なんか……。

 いや、待てよ。まさか。


『ええ、この声はまぎれもなく私……〈閏桜うるうざくら〉のものです』


 そのまさかだった。なにかしらの女神みたいな感じかと思っていたから、少し驚きだった。とはいえ、巨木が無数の桜に囲まれているこの光景を見れば、この閏桜とかいうのがいわゆる御神木ごしんぼくだと考えるのは容易たやすい。

 ……それで、その閏桜が俺に何の用だというのか。


『単刀直入に言いましょう。私、閏桜は四年に一度しかない〈2月29日〉に強い想いを持つ人の願いを聞き、それを叶える役目を持っているのです』


 ……っ。

 そうか、なるほど。そういうことか。

 その短い言葉だけで、俺が此処に導かれたというわけを理解してしまっていた。

 2月29日。確かに四年に一度しかない閏年うるうどしに現れる日付だ。

 そして俺は、その日を心底憎んでいる。

 いや、憎んでいるというよりはむしろその逆か。

 俺は自分自身が憎いんだ。己の無力さが。

 

『私と周りの桜の花たちは四年に一度、2月29日にしか咲きません。といってもその日以外に誰かを導くことは無いので、確かめようがないですが。……そして、私たちは今日の内に全ての花が桜吹雪となって、散ってしまいます。その前までにあなたがその願いを口に出せば、それは叶うでしょう』


 何とも都合の良い話だと思う。ただし、俺がそもそも声を出すことができないという点を考慮しないのであれば、だが。

 やはり夢か。こんな無茶苦茶な話を寝ながら考えられるほどに、俺の想像力があったことには少し感心するが。


 ……ああ、何だか意識が遠のいていく感じだ。

 これから俺は自宅の寝室で起きて、朝食を食べ、仕事に行くのだろう。

 

 そういえば、明日って何日だっけ。確か……。

 その答えを自答する前に、俺の意識はプツリと途絶えた。


 


「ん……」


 目が覚めた。今度は本当の意味でだ。

 

「……本当の意味?」


 一体何を言ってるんだ。自分が発した言葉の意味が分からない。

 まあいいか。俺は寝ていたベッドから抜け出し、すぐ傍に置いてあったスマホを手に取った。今は何時だろう?

 スマホを起動させて、俺は日付と時刻を確認した。


「2月29日の6時30分か」


 いつもより少し遅いくらいの時刻。

 そして2月29日。四年に一度だけ、閏年だけある日だ。

 ただ、俺にとってはただそれだけの日ではない。

 四年前のこの日に起きたある出来事がきっかけで、俺にとっての2月29日は強い意味を持つようになってしまった。

 

「母さんはまたパートか……」


 二階にある寝室から階段を下りて、俺はリビングへと来ていた。そこには母の姿は無く、テーブルの上には作り置きの朝食があった。

 俺はその朝食を食べた。少し冷えていて、味気なかった。

 

 母さんは俺を避けている。それは被害妄想とかじゃなくて、本当のことだ。

 いくらパートだからって、こんな朝早くから出かけるなんておかしい。それも毎日のことだ。そして、俺が深夜に仕事から帰ってくると大抵は寝ている。

 たまに酒をかなり飲んでいて、俺に怒鳴り散らすことがある。そのほとんどは要領を得ないことばかりで、あまり気にしないことにしている。

 四年前はそんな人ではなかった。明るくて、元気で、酒に呑まれるような性格ではなかった。けど、四年前の2月29日がそれを壊してしまった。

 

「やっぱり去年の三回忌さんかいき、行った方が良かったかな」


 食洗器に食べ終わった朝食の食器を入れながら、そう呟く。

 いや、あのときは母さんが行こうとしなかったのだ。俺一人が行ったってしょうがなかったはずだ。そうだ、きっと。

 ……それがただの言い訳だと、分かっている。

 結局は自分を納得させるための方便であるということも。

 俺も母さんと同じで、変わってしまったのだと。

 あの日のことをずっと引きずって、今日までの四年間を無力感にさいなまれながら、過ごしてきてしまったのだということを。


「……一応、線香ぐらいあげとくか」


 出社するときのスーツに着替え、すぐ傍にかばんを置いて仏壇ぶつだんの前に立つ。

 畳の部屋の奥にあって、四年間極力見ないようにしてきたもの。親戚に形式だけでもと言われて、買ったものだ。


「父さん……」


 線香にマッチで火をつけ、燭台しょくだいにも火を移す。

 確か、仏具ぶつぐりんはむやみに打つものではないのだとか。

 そして、俺は四年前に交通事故で亡くなった父親と向き合う。手を合わせて目を閉じ、過去を少しだけ追想する。

 俺が成人になる少し前のことだ。運転手の泥酔によって暴走したトラックにかれたのだという。警察からの電話で、初めて知った。

 

「大人になった姿、見せたかったな……」


 今になっては大学を卒業して、土曜出勤も珍しくない一般企業に勤めるただのサラリーマンだ。そんな俺でも、父さんに見せたかった。

 きっと褒めてくれるんじゃないだろうか。

 『まさかお前が就職できるなんてな』とか酷い冗談を言いながらも、笑って。

 俺の父さんはそういう人で、母さんも俺もそれに影響されて明るくなった。

 元から暗かったわけじゃないけど、きっと父さんは俺たちの精神的な支柱になってくれていたんだろう。それが四年前に崩れてしまった。


 父さんの死を聞かされた時でも。

 これからも母さんと二人で、笑いあって生きていけるんだろうと思っていた。

 けど、駄目だった。一度崩れてしまったものはもう二度と戻らなかった。

 父さんがいなきゃ、俺と母さんは駄目だったんだ。

 俺にとっても、母さんにとっても、父さんはかけがえのないものだったんだ。


「そんなこと言ったって、父さんは戻ってこないのにな」 


 そう自嘲した。だけど。


「けど、せめて……」


 母さんと、元の家族に戻りたい。

 父さんが生き返るなんて奇跡じみたことは望まない。

 これからも、母さんと心から笑いあっていたい。

 ただ、それだけでいい。

 

 でも、そんな些細な願いでさえ叶うはずがない。


「はぁ……」


 ため息をつきながらも、なんだか吹っ切れたような気持ちになっていた。

 そして、俺は燭台の炎を手であおぐようにして消した。

 なるべく素早く、一瞬のうちに。ぱっ、と。


「さて、行くか」

 

 俺は立ち上がり、鞄を持って玄関に行った。

 今日も今日とて出勤だ。

 父さんのことは少しだけ、忘れよう。


「行ってきます」


 誰もいない家の中に向かって、そう言った。

 扉の取っ手に手をかける。

 ガチャリとして、扉が開かれる。


 「――――、え………?」

 

 刹那せつな一片ひとひらのピンク色の花弁が玄関に入ってきた。

 優しい風に乗せられて。

 

 遠くの白くて淡い光の中に、かすかな桜の影を見た。


 


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