猫神伝説

いとうみこと

猫神伝説

 昔々ある山奥のそのまた山奥の山の上に、いつ誰が建てたのかわからない小さな祠がありました。大きな一本杉の根元に安置された祠には、珍しいことに猫の木像が祀られておりました。その辺りはとても良い木材が取れたので、たくさんの木こりが住んでおりました。木こりたちはその山を訪れるたびに祠にマタタビを奉納して、仕事の無事を祈りました。

 ある年のこと、その年は長雨や台風が続き、国中で山崩れが起きて多くの人が亡くなりましたが、何故か祠のある山の辺りでは、ただの一箇所も崩れることがありませんでした。

 人々は、猫神様のお陰に違いないと、満月の美しい晩に祠にお礼参りに行きました。その際、傷みの酷かった祠を真新しい木の香りのする物に取り替えました。するとどうでしょう、狼ほどの大きさの真っ白い猫が杉の大木から祠の上にひらりと舞い降りたのです。その神々しいことといったらありません。その場にいる者は、皆ひれ伏して祈りを捧げました。

 以来、人々はますます猫神様を崇拝し、毎年秋の収穫の済んだ頃の満月の晩にお礼参りに行くようになったのですが、猫神様が姿を見せるのは不思議と4年に一度だけでした。

 その後もこの地方は林業で栄え、戦後の復興期には大層賑わったものでした……


「なんすか、これ」


 昌志は古びた小冊子を煩わしそうにダッシュボードに放り投げた。それからポケットをまさぐってタバコを取り出し、断りもなく火をつけた。昌志はまだ成人していないはずだが、史朗は文句を言う気にもなれず、4つの窓を少しずつ開けた。


「俺が小学生の時に学校でもらった猫神様の伝説の本さ」


「坂田さんはそんな話信じてるんすか」


「信じてるも何も、もう40年も前になるが、俺は猫神様を見たことがあるんだ」


「は、マジすか」


「昔のことさ」


 呆れた様子の昌志にこれ以上大切な思い出話をする気になれず、史朗は会話を終わらせた。ルームライトを消すと、くねくねと続く山道を照らす月明かりの青白さが際立った。


「で、俺はその祠の取り替えを手伝えばいーんすね」


「そうだ。疲れてるとこすまないな」


「いや、いーっすよ。どうせ暇だし、手間賃もらえたらラッキーって感じで、今月ピンチだったんでちょうど良かったっす」


 そう言うと、携帯灰皿にタバコをねじ込んだ。


「でもここ、高速道路通るんすよね?春には工事が始まるってうちの社長が……祠を新しくする意味あるんすか?」


「まあな」


 史朗は曖昧な返事をした。市役所に勤める史朗が高速道路の計画を知ったのは随分前のことだ。そして昨年、そのルート上にあの祠があることに気づき、移設を上に掛け合ったが相手にしてもらえなかった。この山は来年の春には祠ごと崩されてしまう。昌志の言う通り、無駄と言えば無駄だ。


 だが、史朗は長年この祠の世話をしてきた集落の最後のひとりとして、祠がなくなる前に猫神様にお礼とお詫びを言いたかった。そして、あわよくば、もう一度あの美しい猫神様をこの目で見てみたかった。


 山頂が近づくにつれて木がまばらになり、視界が開けてくる。それまで退屈そうにしていた昌志が身を乗り出して外を眺め始め、行き止まりの広場に車を停めた途端飛び出した。


「すげえ、ここ絶景ポイントじゃないすか!」


 北には満月に照らされた山並みが延々と続き、西には街の夜景が広がり、東から南にかけては、海面がキラキラと輝いている。昼間も見事だが、満月の夜は格別美しい。


「こんなすげえポイントがあるなんて知らなかったっすよ」


 そう言うとポケットからスマホを取り出し、あちこち写し始めた。


「悪いが後にしてくれ」


 史朗が声をかけても、昌志は暫く撮るのをやめなかった。同じ集落の出身で、今は会社を営む幼馴染みに手伝いを出してくれるよう頼んだが、今日空いているのはこの昌志だけだったらしい。「悪いやつじゃないんだが」というのはこういう意味だったかと思いつつ、史朗はひとりで祠の取り替えの準備を始めた。


 1年ぶりに見る祠は、いつもの場所に静かに佇んでいた。あちこち傷んで、とても神様を祀っているとは思えない有様だ。林業が廃れてからは、祠の交換の頻度は年々下がり、今回新しくするのは恐らく16年ぶりになる。前回は史朗の父が一切を取り仕切った。今はその父もこの世にはおらず、史朗が生まれた集落には既に誰も住んでいない。


 史朗は軍手をはめて合掌すると、昌志に手伝ってもらって石の台座から祠を下ろした。そこへ新しい祠を据えると、古い祠から猫神様の木像をそっと取り出し、新しい祠の中央に納めた。お供え物を手際よく並べ、ろうそくに火を灯し、マタタビの木に火をつけた。


「それ何すか?」


「マタタビさ。猫が好きなんだ」


「へえ?大麻みたいなもんすかね」


 昌志はウヘウヘと笑った。史朗は相手をする気にもなれなくて背を向けた。


「悪いが祝詞をあげる間、車で待っててもらえないかな」


「それならまだ写真撮りたいんで、その辺ぶらぶらしてますよ」


 そう言うと、さっさと離れて行くのがわかった。


 史朗は祠の前に敷いたゴザの上に正座してニ拝ニ拍手一礼をした後、父が残したメモを見ながら静かに祝詞を捧げた。風が木の枝を揺らす音が祝詞に重なって、大木に吸い込まれていくようだった。


 ふと気配を感じて顔を上げると、祠の上に白い毛玉が見えた。史朗が驚いて祝詞をやめると、毛玉の真ん中に満月色に輝くアーモンド型の瞳がふたつ現れて、続けろと言わんばかりに史朗を睨んだ。瞳に促されるまま、史朗は再び祝詞を唱え始めた。見る間に毛玉は大きくなり、耳やら脚やら尻尾やらが具現化した。それは猫神に違いなかったが、目を閉じ、満足そうに腹を上下させているその姿は日向で眠る猫そのもので、何故か史朗は畏れ多いという思いよりも親しみを覚えた。


 祝詞が終わっても、猫神はすやすやと眠っているように見えた。史朗は手を合わせたまま心の中でこの山の運命を伝え、自分の非力を詫びた。


「坂田さん!祠の上に何かいる!」


 心地良い静寂は突然破られた。昌志の荒々しい靴音が近づいた時、猫神はすっくと立ち上がり、史朗に一瞥をくれると、杉の大木の幹を駆け上がって姿を消した。


 呆然と立ち尽くす史朗のもとに荒い呼吸の昌志が駆けつけた。


「見た?見ました?ぼーっと白い物が祠の上に見えたんすよ!ほら、これ、写真!あっ!」


 勢い余った昌志が祠の脇にスマホを落とした。慌てて拾おうとしたその時、お供えの載った三方に足を引っ掛けて派手に転び、火のついたろうそくが転がった。


 この時期の枯れ葉、特に乾いた杉の葉は着火剤よりも火がつきやすい。史朗は咄嗟にろうそくを拾おうとしたが、何故か足が動かない。


「そこで見ておけ」


 史朗の頭の中で誰かの声がした。


 昌志と反対側に転がったろうそくの火はあっという間に枯れ葉に燃え移り絨毯のように広がった。


 やっと動けるようになった史朗は、痛みでうんうん唸っている昌志を助け起こして祠からできるだけ離れた。もはや火は消せる状態ではなくなっていた。


 最初、大木を取り囲むように広がった火は、徐々に上へと伸びて、終いには大木をすっぽりと覆い尽くし、まるで巨大なろうそくのように夜空を焦がした。


「まるでお焚き上げだな」


 こんな大失態をしでかしたにもかかわらず、史朗の心は不思議と穏やかだった。


 幸い周りへ燃え広がることはなく、消防車が到着する頃には火はあらかた消えていた。これは史朗が後から聞いた話だが、祠のあった一本杉は既に寿命を迎えており、そのため短時間で燃え尽きたのだそうだ。もちろん祠も猫神様の木像も、跡形もなく燃えてしまった。


 そして、これも後から聞いた話だが、麓から見えた炎は、まるで猫がじゃれているように見えたそうだ。

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