第一章 / 人魚は大海を知らず

第2話 暗い世界を出た翠玉

 人魚の歌には魔法が宿る。

 そののどの肉を喰らわば、終わることのない永遠の命を得るだろう──。


 そんな伝承が信じられ、人間による人魚の乱獲が盛んに行われていたのは、遥か昔の話である。今となっては全ての人魚が狩り尽くされ、その存在は幻に等しい。


 けれど、ここには人魚がいる。とある屋敷の仄暗い地下。

 設置された水槽の中でこぽりこぽりとあぶくをまとい、美しい人魚が一人、誰の目にも触れられる事なく人間に飼われて過ごしている。


 透き通った長い尾ひれを揺蕩たゆたわせながら物憂げな表情で遠くを見つめる彼女を、青年は細く狭めた視界にまじまじと映していた。



「へえ、これが人魚……初めて見ました。二百年以上前に絶滅したと聞いていたのですが、まだ生き残りがいたとは感激です。──まるでおとぎ話の世界を見ているみたいだ」



 優しげな笑みを浮かべ、銀の竪琴たてごとを持った彼はお決まりの言葉を呟く。


 白い肌に、片側だけ・・・・を長く伸ばした金の髪。ややくすんだ色味の毛髪を左耳の下で一つに結った青年は、薄手の布が掛けられた大きな荷を背負い、随所に繕った跡の残る旅装束を身に纏っていて些かみすぼらしい。


 しかし人魚を褒められた事にご満悦のドビーは彼の身なりなど気に留めていないのか、「そうだろう?」と鼻を高くした。



「僕の自慢のコレクションさ。どうだい、素晴らしく美しいだろう」


「ええ、とても美しいです。私もお噂だけは耳にしておりましたが、本当に人魚が実在するとは……」



 青年はごく自然に微笑みながら振り向き、灰鼠はいねず色をした双眸そうぼうでドビーの姿を映す。


 上流貴族、ドビー・トレイシー。

 数日間この男と関わって来た青年だったが、出会った時から今に至るまで、彼に抱く印象は一貫して変わっていなかった。


 ──どこまでもいけ好かないクソ野郎。


 内心だけでそう毒づきながら、青年は努めて穏やかに口を開く。



「そういえば、トレイシー卿は知っておられますか? 人魚の歌には魔法が宿るそうです。喉の肉を食べれば不老不死になるとか。ご興味はないので?」



 問えば、ドビーは嘲笑混じりに肩を竦めた。



「ああ、アレはデマだよ」


「デマ?」


「そうさ。人魚って、そもそも地上では声が出せないみたいでね。僕も何度かコイツを水槽から引きずり出して歌わせようとしてみたんだが、口がぱくぱく動くばかりで声なんて聞いたことがない。きっと不老不死の噂もデマだろう、古代の人間は夢見がちなのさ」


「へえ……」



 言い切るドビーの傍ら、青年は人魚を一瞥する。憂いを帯びた翠の瞳は、水槽の外の壁に掛けられている何の面白みもない風景画をじっと見つめていた。


 その横顔に目を細めた頃、ドビーは更に続ける。



「しかも、人間の体温は人魚にとって熱すぎる・・・・みたいでね。困ったものだよ、触れると肌が焼けてしまうんだ」


「おや、そうなんですか。繊細なんですね」


「ま、自然治癒力は高いからすぐに治るんだがね。でも折角のコレクションなんだ、見た目も美しい方がいいだろう? もし人魚が顔を出しても触らないでくれたまえよ」


「貴重な人魚に触れるだなんて、とんでもない! あの美しい肌には指一本触れないとお約束いたしましょう」



 大袈裟にへりくだり、青年は胸に手を当てる。ドビーは満足げに頷いた。



「ああ、そうしてくれ──何にせよ、歌は歌わないよ」



 はっきりと言い切ったドビーに、青年はにこりと人当たりのいい微笑みを浮かべる。


「それは残念です、私の演奏で歌って頂きたかったのに」


 しおらしく眉尻を下げれば、ドビーは鼻で笑い、水槽のそばに歩み寄った。



「ああ、本当に残念だよ」



 彼がガラスに触れた瞬間、人魚──エメリナはびくりと肩を揺らして逃げるように水槽の奥へと泳ぎ去る。その様子を黙って青年が見送る中、ドビーは再度口を開いた。



「あの美しい顔は一級品だっていうのに、触れられないだなんて本当に勿体ない。存分に奉仕・・して貰おうと思ったんだが、触れた肌は焼けるし、喘ぎもしないし、気味が悪くてね。使い物になりゃしない」



 ま、観賞用には十分だけどね、とわらう彼。ああなるほど、と青年は人魚が逃げた理由をすぐに理解した。

 いびつな笑みを描いている隣の男の横っ面が心底不愉快に感じて、吐き気すらしてくる。



「……下衆ゲスが……」



 密やかに放たれた低い声。しかしドビーの耳には届かなかったようで、「ん? どうかしたのかい?」と何の疑心もなく彼はこちらに視線を戻した。


 青年はすぐに笑顔を取り繕い、「いえ」と穏やかに答える。その場しのぎの演技だけはうまいと自負する彼の年季の入った作り笑顔は、やはり見破られる事は無かった。



「──ところで、トレイシー卿。ひとつお願いがあるのですが」



 たくみに話題をすり替え、青年は荷袋の中から小さなスケッチブックを取り出す。怪訝な表情を浮かべたドビーに怪しまれぬよう、出来うる限り明るい印象を繕って微笑みかけた。



「作曲の件ですが、着想を得るために、しばらくここで彼女の絵を描かせて頂いてもよろしいでしょうか?」


「……ふぅん? 人魚の絵を?」


「ええ。ラフだけ取れれば充分ですので、三十分もかかりません。被写体と向き合う事で曲作りの精度が増すんですよ、私の場合は」



 青年の申し出にドビーは暫く黙り込む。流石に二つ返事で承諾が出る事はないだろうと予測していたが、やはり渋っているらしい。


 さて、どう説得するか──考えを巡らせ始めた彼だったが、程なくしてドビーは「いいだろう」とあっさり頷いた。青年は拍子抜けし、『は?』と思わず飛び出しかけた素の声を何とか飲み込む。



「よ、よろしいのですか?」


「僕も絵をたしなむからね、美しい物を描きたい気持ちは分かるさ。曾おじいさまの代からあるコレクションを誰かがスケッチする機会なんて滅多にないし、他人の描いたエメリナも見てみたい。……それに、君の腕には期待しているからね」



 目尻が下がり、穏やかに緩む骨ばった頬。

 青年は微笑み、胸に手を当てて深々と頭を下げる。



「ああ……それは光栄です。ありがとうございます」



 ──愚鈍な馬鹿で助かったな、と内心ほくそ笑む素顔を隠しながら。


 表情を引き締め、顔を上げる青年。同時にドビーが「おや、僕はそろそろ行かないと。来客の予定があるんだよ」と嘆息した。


 ああ、そうだろうとも──青年は胸の内だけで呟く。

 彼の今日の予定は全て把握済みだ。この後、少なくとも三十分は来客の相手をして此処に戻って来ないであろうことも、もちろん。


 しかしあくまで何も知らない振りに徹しながら、「そうなんですか? 私一人でここに残ることになりますが、よろしいのでしょうか……」と白々しく眉尻を下げる。するとドビーは彼に背を向けて頷いた。



「別に構わないさ、三十分ぐらいで戻るし。好きに絵を描くといい」


「……承知しました。ありがとうございます」


「ああ、そうだ。君に限って、そんなことはしないと思うけど──」



 ドビーは扉の前で立ち止まり、ドアノブを捻りながらゆらりと振り返る。



「間違っても、何か盗もうだなんて思うなよ。……殺されたくなければね」



 最後にそれだけを言い残し、彼は穏やかな笑みと共に部屋を出て行った。


 遠ざかる足音を耳で拾い上げる。

 それが消えてしばらく経った頃、青年はハッと短く嘲笑をこぼし、低い声を発した。



「……殺せるもんなら殺してみろよ、ボンボン貴族の甘ったれが」



 貼り付けていた仮面を取り払い、本性をさらけ出した青年。楽しげに喉を鳴らし、彼はスケッチブックを投げ捨てると水槽の奥で身を縮こめているエメリナを見据えた。



「おい、人魚。こっちに来い」



 呼びかければ、俯いていた顔が上がる。彼女は翠色の瞳で青年を見つめ、ややあってひらひらと尾ヒレを揺らしながら、こちらの指示に従って興味深そうに近寄って来た。


 従順なその様子に、青年は「へえ……」と口角を上げる。



「口が聞けないって話だったが……人間の言葉は理解出来るみたいだな」


「……?」


「それにしても、〝伯爵邸の地下に人魚がいる〟って話が本当で助かった。あのクソ野郎のご機嫌取りに苦労した甲斐があったってもんだぜ。……まあ、俺はあの坊ちゃんと違って、人魚なんか嫌いだがな」



 青年は一方的に語り掛け、背中で〝何か〟を固定していた肩掛けベルトの留め具を外すと、被せていた布ごと取り去った。

 その手に握られたのは、銀の装飾が施された古い〝鏡〟だ。エメリナは状況がよく分からないらしく、きょとんと首を傾げている。



「とうの昔に絶滅したと言われる、人魚の生き残り。名はエメリナ」


「……」


「──今日からお前は、俺の〝商品〟だ」



 にたり。青年が不敵な笑みを浮かべた瞬間、彼の持つ鏡が煌めき、その鏡面にエメリナの姿が映り込む。


 鏡の中の自分と目が合った途端──彼女を映していた鏡は、まばゆい光を放った。



「……!?」



 淡くほとばしる閃光が鏡面から飛び出し、エメリナの体をぐるりと巡って包み込む。一体何が起こっているのかを理解する事も出来ぬまま、あっという間に彼女の体は光の中へ閉じ込められてしまった。


 固く閉じたまぶたの裏。こぽりこぽりと、こぼれる泡沫の音だけが耳に届く。


 やがて、エメリナは恐る恐る目を開けた。

 すると、先程まで自分に話し掛けていた青年の顔がすぐ目の前にあり、彼女は息を呑む。



「……!」


「ふーん。どうやら上手く行ったな」



 不敵に微笑む青年。エメリナは状況が分からず、何度も自身の瞳をしばたたいた。


 ──と、言うのも。

 彼と自分との距離が、やけに近い。


 つい先程まで、彼女は狭い水槽の中にいた。分厚いガラスの壁によって、外界との接触を隔たれていたはずだった。


 ところが現在、自分の周囲にはガラスの壁が見当たらない。

 視界に映るのは、綺麗に透き通る水で満ちた、どこまでも続く広い空間。こんなに広い場所を見たのはおそらく生まれて初めてだ。



「……? ……?」



 エメリナは困惑し、広い水の中を何度も見渡した。そんな果てしない空間の中央には、見覚えのある銀のわくがぽつんと浮かんでいる。どうやら先ほど見た鏡の枠と同じものらしい。


 その向こうは外の世界へと繋がっているらしく、金髪の青年はそこから満足げに自分を見下ろしていた。



「さて。鏡の中・・・の居心地はどうだ? 囚われの人魚姫」


「……!」



 ──ここが、鏡の中。


 そう告げられたエメリナは更に大きく目を見開き、目の前の銀の枠から顔を出した。

 その瞬間、分厚いガラスの壁に阻まれる事など一切なく、容易に外の世界へと繋がってしまう。


 彼女の正面には、からっぽになった水槽。

 そして、エメリナのいる鏡を手に持って支えている、不思議な青年のいびつな笑顔だった。



「どうも、美しいお姫様」


「……っ、……!? ……!」


「ああ、悪いね。何か言いたげなのは伝わるんだが、生憎その文句を聞いてやる暇はない。さっきも言ったが、俺は人魚が嫌いなんだ。本当は顔も見たくない」



 青年は冷淡に吐き捨てる。エメリナは困惑し、臆した様子で鏡の中の水にちゃぷんと顔を半分沈めた。


「従順で助かるな」


 冷たく微笑み、彼は続ける。



「お前は今日から、俺の〝商品〟だ。この場所に未練があるってんなら悪いが、このまま持ち帰らせて貰うぜ」


「……? ……?」


「俺の名はジゼ。吟遊詩人を名乗っちゃいるが、実際は盗難目的でこの屋敷に忍び込んだだけのロクデナシだ。……で、お前は俺の獲物ってわけ」



 淡々と告げられ、明らかになる真実。エメリナが目を見張るうちに、彼──ジゼは、ついに彼女の入った鏡を抱えて地下の扉を開け放った。


 明るく差し込む、知らない世界の光。

 生まれて初めて触れるそれが、チカチカと、無垢な翠玉の瞳の中で煌めく。



「……!」


「さてさて、人魚のお姫様、外の世界へようこそ。これから俺の商品として、せいぜい良い額の路銀カネになってくれ」



 鏡の銀枠を指先で撫で、くすりとこぼれた冷たい微笑み。


 けれどそんな冷笑も気にならないほど、エメリナの瞳に映る新しい世界は、広大で煌びやかな光に満ちていたのだった。



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