瓶詰めのエメラルド

umekob.(梅野小吹)

プロローグ

第1話 まるでおとぎばなし

 このような光景は、まるでおとぎ話のようだ。


 彼女を初めて見る者は、異様で美しいその姿に頬を上気させながら決まってそんな言葉を紡ぐ。

 ぷかり、ぷくり。こぼれるあぶくはエメラルド。揺らぐ水面に浮かんでは、音もなく消えていく。


 水の中を泳ぐのは一人の少女だった。長い髪に、愛らしい顔立ち。

 揺蕩たゆたう尾ひれがきらきらと、翠の鱗に包まれる彼女の半身を煌めかせている。


 窓もなければ人の姿もない、水槽が部屋の半分を占拠しているだけのこの場所は、とある屋敷の地下である。そしてその中を泳ぐ彼女こそ、長くこの場所で飼われている人魚だった。


 人魚は狭い水槽の中をほんの数秒で一周すると、水面に浮上して顔を出し、ガラス張りの世界の縁に手をついて退屈そうに唇を尖らせる。薄暗い部屋の壁に飾られた大きな絵画をじっと見つめた彼女は、そこに描かれた黒馬と穏やかな田園風景をぼんやり眺めていた。


 ぱく、ぱく、ぱく。


 彼女は数回唇を動かし、何らかの言葉を口にする。しかし、それが声として音を発する事は無い。


 人魚は地上で声が出せないのである。



 ──カチン。


「……!」



 その時、薄暗い部屋の中には突として明かりが灯った。人魚はハッと目を見開き、近付く足音から逃げるように水槽の端へ泳いで岩陰に身を隠す。


 色とりどりの宝石や、悪趣味な彫刻。それらによって装飾が施されたこの空間だけが、彼女の生きる世界の全てだった。


 人魚を捕らえて寵愛する、この男のせいで。



「ああ、エメリナ! 僕の美しい宝石! 愛らしいその姿を見せておくれ!」



 バンッ。乱暴に開かれた扉の向こうから現れたのは、色白で頬が骨張った細身の男。

 エメリナ──彼の紡いだその名こそが、人魚に与えられた名前であった。髪も瞳も鱗の色も、美しいエメラルドの色だからとそう名付けられたらしい。


 ぷくり、ぷかり。エメリナが不安げにこぼした声は泡となり、名前とたがわぬ翠玉色の光沢を放ちながら水面へ昇っていく。

 地上では声の出ない人魚だが、水中で発する声もまた、すぐに泡となってしまうため人間の耳には届かない。



「……ああ、そこに居たんだね、エメリナ」



 浮かんだ泡の出処を突き止めたらしく、やがて男は隠れていたエメリナの姿を見つけ出した。彼女は縮こまり、怯えた表情で泡を吐きこぼす。


 エメリナの主人である彼──ドビーは、下卑た笑みを口元に描きながら水槽のガラスに手を触れた。



「明日はお客様が来るよ、エメリナ。王都で有名な楽団出身の吟遊詩人ぎんゆうしじんだそうだ。演奏を聴かせてもらったが、見事な腕前だったよ! そこで、特別にここへ招待する事にした」


「……」


「楽しみだろう? 君と僕の結婚式が迫っているからね。せっかくだし、歴史的瞬間に彩りを添えるための歌を作曲して貰うのさ。そして華々しい挙式の最中に演奏させたら素敵だと思わないか? なあ?」


「……」


「ああ、楽しみだ! 絶滅したと言われていた幻の人魚に生き残りがいて、しかもそんな素晴らしい存在と結婚だなんて! きっと国中の民が僕を羨むぞ、王族だって僕を妬むに違いない! ははは!」



 恍惚と頬を上気させたドビーは興奮した様子で早口に語る。


 「ひいおじいさまは素晴らしい物を僕に残してくれた! 君もそう思うだろう、エメリナ!」


 ガラスに額を押し付けて凄んだ彼に、エメリナは一層縮こまった。


 彼女は長寿ゆえに、ドビーの曾祖父が産まれる前からこの場所にいる。そんな人魚エメリナは彼にとって自慢の骨董品コレクションの一つでしかない。自分を煌びやかに着飾るための道具──彼の語る「結婚」も、全ては自分が羨望せんぼうの眼差しを浴びるための演出なのだ。


 エメリナは水槽の奥へと身を潜め、透明なガラスに手をついてドビーに背を向ける。彼はフン、と鼻を鳴らして踵を返した。



「……まあいいさ。どうせ君はそこから出られない。たとえその水槽から逃げ出せたとしても、この屋敷の周りは何もない荒野だ。水がなければ生きられない君はどこへ行くことも叶わない」


「……」


「愛してるよエメリナ、僕だけの宝石。君との結婚が待ち遠しい」



 ドビーはそれだけ言い残し、再び部屋の明かりを消灯する。やがて音を立てて扉が閉まり、エメリナは物悲しげに瞳を伏せた。


 ぷく、ぷく。唇からこぼれた言葉は泡になる。


 水面に浮かんだ寂しい泡沫の表面には、壁に掛けられた大きな絵画に描かれる、まるで偶像おとぎばなしのような広い世界が揺らいでいた。


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