第7話 正史『日本書紀』ついでに『古事記』(前編)

 古代史の事績の多くは、正史『日本書紀』並びに もう一つの歴史書『古事記』の記録に準じている。これらは 第40代 天武天皇が命令し 編纂を開始されたと見受けられているが、前者は 720年に 時の天皇に撰上され 後者は712年に完成したとされていた。

 正史の中で、天武天皇は 壬申の乱(672年)という大乱を起こし 甥 大友皇子を討って至尊の座に就いたと記録されているが、ここに勝者による取り繕いがあったことが 概して主張されている。

 先帝 天智天皇(第38代)が亡くなって壬申の乱が起こるまで おおよそ半年の皇位の空白期間が存在するが、その間に大友皇子は即位していたのではないかと疑われているのだ。この疑念は 近代 明治になって受け入れられ、1870年 大友皇子に"弘文"(第39代)というおくりなが贈られた。そして、この素姓に関する疑惑の目は、敗者のみならず 勝者の身にも向けられている。


 英雄 天武天皇は 正史『日本書紀』において 全三十巻のうち二巻を占める,いわば主役ともいうべき存在だった。彼が歴史書の編纂を指示したわけだから当然といえば当然だが、その中で 彼の没年齢は分からず、また前半生も語られていなかった。

 特に年齢に関しては、兄 天智天皇との兼ね合いもあり、わざと隠されたのではないかと狐疑されていた。後世の書物における天武天皇の年齢と正史『日本書紀』における天智天皇の年齢を比較すると、2。このことなどから、壬申の乱の勝者 天武天皇の素姓を訝しむ見解が展開されていた。

 しかし、この件に関して言えば、私は 天武天皇その人ではなく、天武の次代 持統女帝(第41代)の関与を疑っている。彼女は 天武天皇のきさきであったが、同時に 第38代 天智天皇の娘でもあり 壬申の乱で敗れた大友皇子とは姉弟だった。おそらく、持統は その素姓から天武天皇のことを心良く思っていなかったのだろう。正史には、天武天皇が 皇室の象徴である"三種の神器"の一つ 草薙剣くさなぎのつるぎに祟られたとの記述すら存在していた。

 私は、正史『日本書紀』は とニラんでいるが、かの書物は、天武天皇が亡くなってから(686年) 実に30年以上の月日を経過して完成していた。

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