臨時休業になったなら

 鬼のかく乱というやつか、数年ぶりに千紘がダウンした。朝早くに熱でかすれた声で電話をよこした千紘は、店を臨時休業にすると言ってきた。千紘が動けなければうちの店に商品が並ぶことはなく、そうするしかないのだ。

 そんなわけでいつもよりゆっくりと家を出て、店主のいない店に出勤した。店を開かないとはいえ、やらなければいけない事はいろいろある。電話口で矢継ぎ早に頼まれたあれやこれやを全て滞りなくすませなくてはいけない。接客が天職だと思っている俺は正直その手の事務作業は苦手だ。得意でなくとも普段から触れていればたいしたことはない仕事なのかもしれないが、いつも千紘がひとりでやってしまっているのでまるで勝手がわからない。多分、この帳面を開くだけのことだって何年か前に同じように千紘が体調を崩した時以来だろう。そんな状態では、それが何でどういうやり方をすればいいのかなんて覚えているわけがない。

 千紘の見た目からは想像もつかない几帳面さで綴られたいくつかの書類を広げて頭をひねり、あちらこちらに連絡の電話を入れ、途中で一旦店を出て千紘の家に見舞いに行き、そしてまた店に戻り、なんていうことをしていたらあっという間に夕方だった。結局一日仕事になってしまったなと思いながらも、まだ明るいうちに店をあとにするという行為の物珍しさに少し感動する。たまにはこんなのもいいかもしれない。

(もう一回ちーさんの家に行って様子見て、それから…)

 久間に会えるだろうか。

 もう良くなったと千紘からは少し前に連絡がきたからそんなに千紘の部屋で長居するつもりもないし、久間の仕事が終わる頃には間に合うだろう。せっかく時間があるのだから、一緒にごはんでも食べられないだろうか。

 仕事中、携帯はずっとロッカーの中だという久間からすぐに返事が来ないことはわかっているが、メールを打っておこう。会えるかな?とお伺いを立てながらも、久間がメールに気付く頃にはもう職場の前で待っているつもりだ。久間の都合が悪かったとしても顔ぐらい見られるだろう。それだけでもいい。




 久間の働くスポーツジムの駐車場の端の植え込みに腰を下ろし、いつ終わるかわからない久間を待った。シフトによって早い時も遅い時もあるのだが、今日がそのどちらなのかは知らない。もともと何の約束もしていないのだから仕方がない。

 だけどこうして彼を待つのも楽しいものだ。普段はたいてい俺が待たれる方なので、こうしてドキドキと出てくる人影を目で追いながら待つという経験があまりない。好きな人を待つという滅多にない感覚を物珍しく心ゆくまで味わう。このあと何をしようかとか、今日のクマくんはどんな服を着ているのかなとか、俺を見てどんな反応をするのかなとか、そんなことを考えていると胸が躍る。不審者だと思われないかなという不安もそれはそれで刺激的だ。


 辺りはすっかり暗くなりジムの入り口だけが照明で照らされる中、ものすごい勢いで飛び出してくる大きな人影がひとつ。きょろきょろと左右を確認する彼には暗闇にたたずむ俺の姿が見えないらしい。

「クマくん」

 声をかけると一目散に駆け寄ってくる。

「ごめん、だいぶ待たせちゃったか?」

 メールに気付いて慌てて飛び出してきたのだろう。シャワーを浴びたらしい髪は濡れたまま、急いで着替えたシャツの襟は片方だけ中に入ってしまっている。嬉しさを噛み締めながら手を伸ばし、襟を直してやると久間は恥ずかしそうに濡れた髪をかき混ぜた。

「タオル持ってるでしょ?出して」

 久間のバッグから引っ張り出された丸めたタオルを奪い取り、頭を拭いてやる。

「ほら、もっと頭下げて。遠いよ」

 おとなしく言われるがまま俺の目の前に差し出された頭をタオルで包む。シャンプーの匂いが爽やかに漂い、思わず鼻を寄せてその匂いを嗅いだ。

「ちょ…なにして…」

 何かを感じ取ったらしい久間はがばっと顔を上げる。

「わっ。なんだよ、もう。クマくんの匂い嗅いでみただけなのに」

「嗅がないで」

「なんで?シャンプーのいい匂いがしたよ?」

 きっと赤面しているだろう久間の顔は暗くてあんまりよく見えない。

 恥ずかしさをごまかすように久間は自分で髪を拭き、そのままタオルを首にかけると乱れた髪を手櫛で軽く整える。その姿が妙に男らしくてときめいた。さっき匂いを嗅ぐんじゃなくてキスしておけばよかった。頭にあげられた手の、半袖シャツの袖口からのぞく二の腕の筋肉が綺麗で、子供のようにそこにぶら下がりたい衝動に駆られる。さすがにそれはしないけれど。

「急にごめんね。用事とかなかった?」

「大丈夫。真っ直ぐ家に帰るだけだから、晋に会えて嬉しい」

 久間の大きな手が俺の頬を包む。不器用なクマさんだけれど、気遣い屋な俺をこうして安心させてくれる繊細な心を持っているのだ。その掌の熱一つで愛されていると感じる。

「今日が早めのシフトでよかった。遅かったらまだ3時間は後だけどどうするつもりだったんだ?」

「遅くても待ってたと思うよ。待ってるのも結構楽しかった。俺、いつもクマくんを待たせる方だろう?申し訳ないなって思ってたんだけど、そうでもないのかなって」

「俺は、待つ方が楽。待たれてると焦る」

「だね。慌てすぎだよ。みんな驚いてなかった?」

「あー、なんかいろいろ文句を言われたような気がする」

 まるで周りが見えなくなるほど慌てて焦ってドタバタと迷惑をまき散らしながら支度をする久間の姿を想像したら可愛くて可愛くて、かみ殺しても笑いが溢れ出す。

「なんで笑う?」

「クマくんが可愛すぎてつい」

 俺の答えに久間は不服そうな顔をしたけれど。

「だけどサプライズは嫌いじゃない」

 拗ねたような声でそう言った。来て良かった。




 そのまま暗闇に紛れてイチャイチャしているのも魅力的だったが、腹の虫に追い立てられ近くの小さな居酒屋に入った。狭いカウンターに身を寄せ合うようにして座り、ビールの入ったグラスを合わせる。

「俺でかいから晋せまいな。ごめんな」

「堂々とくっついていられるからラッキーだよ」

 一番奥の席だから俺なんて久間の影になって、きっと何をしていたって他の客からはほとんど見えないだろう。悪戯し放題だと笑うと久間は切実な顔で変な悪戯はしないでよと小声で呟いた。そんなこと言われたら本当にしたくなるから困る。

「明日も休みだったらクマくんの家に遊びに行ったんだけどな」

 持て余す欲情を抑えるように、グラスに半分ぐらい残っていたビールを一気に飲み干した。

「明日は…千紘さんもういいの?」

「うん、さっき見てきたけど復活してた。朝は結構な熱だったんだけどね。そもそもが疲労だから体休めればそれでいいんじゃないかな」

「そう。大事にならなくてよかった」

「基本的に体力あるからね、あの人」

 おふくろの味というのか庶民的な味の料理をつまみながら次は何を飲もうかとメニューに目を落とす。俺がそれを選んで注文している間、ずっと久間が黙り込んでいるのが少し気になった。何か久間を傷つけるようなことを言ってしまっただろうかと自分の発言を思い返してみる。だいたいあんな顔をしている時は怒っているか凹んでいるか悔いているか、とにかくマイナス方向へ思考が向かっている時だ。

「おーい、クマくん?」

 筋肉質な太ももを軽く指先でつつくと、久間は先程の俺と同じようにグラスの中身を一気にあけた。カツンと勢いよくグラスをカウンターの上に置いたかと思うと、組んだ両腕の中に顔を埋め突っ伏した。

「どうしたー?」

 声をかければしばらく後で、耳を近づけてようやく聞き取れるぐらいの小さなくぐもった返事が返ってくる。

「…看病しにいったんだ…」

(ああ、そうか)

 どれだけ話してもいつも久間は千紘に嫉妬する。付き合いの長さも、仕事柄その密度も、確かに千紘との方がずっと深い。そういう部分において久間が劣等感を感じるのは仕方のないことなのかもしれない。俺の心は隅から隅まで全て久間のものだというのに、それでもきっと久間には足りないのだ。そばにいる千紘を羨ましいと思ってしまうのだ。それだけ求められているかと思うと嫉妬されることは決して嫌ではない。むしろ俺は嬉しいとさえ思う。けれど久間自身はそれを良しとしない。理不尽な思いを俺にぶつけてしまうことを激しく悔やみ、そうして今へこんでいるのだ。

「バカだなあ、もう」

 伏せる頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜて撫でる。

「俺以外看病しに行く人いないし、何かあったら困るだろ?まあ、行ったところで結局、あの人何でも自分でしっかりやっちゃうから俺がすることなんてほとんどないんだけどね。仕事の話だってあるし、ただそれだけだよ」

「…わかってる」

 俺が説明なんてしなくても、久間はちゃんとわかっている。わかっているけれど気持ちは頭の理解とは違うところで動いてしまう。そんな久間の気持ちはもちろんのこと、久間がそういう自分に苦悩するところも、俺は愛しくてたまらない。

「クマくんが寝込んだらもっと手厚い看病をしに行ってあげるよ。ちーさんにはしてあげなかったこと、いっぱいする。クマくんが指一本動かさなくてもいいぐらい全部俺がやってあげる」

 耳元で囁いてやると、久間はやっと立ち直ったのか顔を上げた。その顔はびっくりするぐらい赤くて、俺は表情だけで殺されるかと思うほど胸がキュンとする。

「何想像したの?クマくんやーらしー」

「ちがっ…一気飲みしたビールが回っただけだ」

「そう?」

 多分今俺はとろけるような顔で笑っているに違いない。可愛い可愛いとその大きな体を抱きしめて撫でくり回したい。小さなことを気にする繊細な心も、すぐにへこんでぐじぐじと悩むところも、そんな自分の女々しさを情けなく思っているところも、それを見せまいと虚勢を張るところも、久間の思いの一つ一つが全部俺を求めて愛しい愛しいと叫んでいるようで、俺はその全てにときめくし、嬉しくて胸がいっぱいになるのだ。

 久間自身が好きではない部分の久間も、俺がいっぱい愛してあげる。

「クマくん、好きだよ」

 久間の大きな体の陰に隠れて、その分厚い手の太い指先にキスを送った。




<終>

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