足音

 仕事終わりで千紘と飲みにいき、とてもいい気分で帰りの電車に乗った。アルコールには強い体質なので、前後不覚になるほど酔っぱらっているわけではないが、それでも気分は高揚する。傍目には理性的に見えるかもしれないが、自分の感覚としては今日は結構酔っぱらっている方だと思う。

 もう終電も近い時間だし、乗り過ごさないようにしなくちゃと、ともすると眠ってしまいそうになる自分を奮い立たせる。

 そうして気をつけながら降り立った駅で電車が走り去る風を受けながらふと気がついた。

(しまった、ここ俺の降りる駅じゃないわ)

 ついうっかり降りてしまったここは恋人である久間の家の最寄り駅だ。会いたいなあなどと思っていたらつい体が勝手に動いてしまったらしい。

(最近あんまり会えてないからな)

 基本的に仕事の休みが合わないので、会いたくてもなかなか簡単にはいかない。うまくタイミングが合わない時には一ヶ月以上顔を合わせない事もある。電話くらいはするけれど、顔を見たい、触れたいと次第に飢えていくのだ。

(せっかくだから会いに行っちゃおうかな)

 約束をせずに家を訊ねた事なんてないけれど。

 突然の訪問を、繊細な心の久間は快く思わないかもしれないし、あるいは訪ねたところで家にいないかもしれない。普段の自分であったなら二の足を踏んでいるところだが、それでも俺の足を突き動かすのは大量に摂取したアルコールのせいだ。

(いや、酒のせいに出来るぐらい飲んだという事実のおかげだ)

 気を使いすぎるのが自分の短所であると思っている。客観的に見ればそれは長所であると思うのだが、相手の気持ちを慮って自分だけの思いで突っ走る事が出来ない歯がゆさを覚える事が多く、自分では邪魔な感覚だと感じる事の方が多い。もっと鈍感な人間であったなら、もっと自由に生きられるのではないかといつも思う。

(こんな免罪符がないと恋人の家も訪ねられないなんて)

 そう自嘲しつつ、終電間際の深い時間でもそこそこに人通りの多い駅を後にした。

 一歩外に出ると明かりはぐんと少なくなる。煌々と光を放っているのは駅ばかりで、周辺の店にも一般家庭にももうほとんど明かりはともっていない。街路灯だけがぽつりぽつりと一定間隔で道路を静かにてらしている中、帰宅する人々が足早に歩いている。

 駅を離れるにつれ人の数は減っていき、少し前方にも小さな人の固まりがある事に気がついた。一本前の電車を降りた人たちかもしれない。

 その中でひときわ目立つ大きな体を発見して俺はふと口元を緩めた。

 遠くからでもすぐわかる愛しい人の姿。突出した体型というのはこういう時にとても便利である。当人はきっとその他大勢に紛れ込めない事を気に病むのだろうが、俺から見たらその存在感は羨ましい。愛すべき巨体だ。あの体があるからこそ中身の可愛らしさが更に際立つ。

 大きくて強くて不器用で可愛い久間の背中に駆け寄ってぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られながら、けれどここまで来てもためらう自分がいた。はたして久間は自分の来訪を喜んでくれるのだろうか。俺に会うための準備をしていないとか、そんな乙女のように繊細な恋心を持っている人なのだ。それに、こんな時間に、仕事で疲れているだろう彼の元へ無断で押しかけるなんて、非常識なやつだと思われるかもしれない。

 久間が嫌だと思う事はしたくないのだ。ほんの少しでも、彼の心を傷つけたくはないし、嫌われたくもない。

 そんな葛藤をしながらいつまでも距離を詰められないでいると、なんだかストーカーでもしている気分になってくる。こんなふうに彼の後をつけて、俺は何がしたいというのか。

(まあ、クマくんの後ろ姿を見れただけでもよかったかな)

 やっぱり帰ろう、そう思って足を止めた時だった。前方を進む久間が突然くるりと振り返った。その距離約5メートル。ばっちり視線が絡み合う。

 このバツの悪い状況をどうしたらいいものか、慌てて言い訳の言葉を探すけれど見つからない。嫌な汗を吹き出しながら慌てる俺の姿が、この暗い中で久間に見えるだろうか。見えないといい。むしろ消えてしまいたい。

 そうして前にも後ろにも進めずにいると、久間はにっこりとクマのプーさんばりのスマイルを見せて、立ち止まっている俺のところまで戻ってくる。その表情を見て一気に体の力が抜け落ちた。危うくその場に崩れ落ちそうになるのをぐっとこらえて、やあとぎこちなく手を挙げた。

「どうしたの!?」

 驚きながらも久間は嬉しそうで、安心した。

「いやあ、ちょっとね、ちーさんと飲んで帰ってきたんだけど、酔っぱらっちゃって。気付いたらそこの駅に降りてたんだよね」

 あははと頭を掻くと久間は大きな体を少しかがめて俺の顔を覗き込んだ。

「そっか、最近会えてなかったから…」

 久間は小さく呟いて、照れたような仕草で鼻をこすった。

 酔った勢いでの奇行をする俺ではない事なんて、久間はすっかりわかっているのだ。そんなただの言い訳から久間は俺の思いを汲み取ってくれた。

「もうじき電車なくなるし…、泊まってく?」

 ためらいがちに俺を誘って、久間は視線を泳がせた。

「いいの?」

「…あー、部屋は汚い、けど…」

「ありがと、クマくんっ」

 その大きな体を思うままにぎゅっと抱きしめると、久間は少し困ったように俺の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。ずっと欲しくてたまらなかったぬくもりが腕の中にある。来てよかったと、心からそう思った。



 肩を並べて久間の家への道のりを歩く。こうして一緒に歩いているだけでもこんなにも楽しいのはどうしてだろうか。

 隣を歩くクマさんを見上げてみれば、家に近づくに連れて少しずつ表情が翳るのに気付く。きっと、そういえばあれ出しっぱなしだったなとか、自分の家の状態を思い出してあれこれ思い悩んでいるに違いない。申し訳ないと思うけれど、そんな久間を可愛いと思う自分もいて、既にこうなってしまった以上、思いは後者が圧勝してしまうのだ。

「あ、俺着替えとかないけどどうしよう。クマくんパンツ貸してくれる?」

「ええっ!…い、いや、それは…」

「うっそ。コンビニ寄らせて。だってクマくんのパンツじゃ俺ぶかぶかじゃん」

 耳まで真っ赤にして本気でうろたえる久間が可愛くて愛しくて。ついからかってしまうけれど、こうして彼の思いを感じられるのがとても快感なのだ。

「そういえばさ、なんでさっき振り返ったの?俺が後ろにいるの気付いたって感じだったよね?」

「ああ、足音。…足音だけでも俺わかるんだ、晋のこと」

 今度は俺が真っ赤になる番だった。

(なんて殺し文句…)

 不器用なくせに繊細で真っ直ぐなところがたまらない。

 こうして俺はこの可愛くて格好いいクマさんに何度惚れさせられるのだろうか。

 キュンと苦しくなる心臓を押さえ、もう一方の手で久間の大きな手を絡めとった。



<終> 

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