気まぐれ

 歩美が走り去ってくのを見届けて、店へと入った峯田は東山と向かい合っていた。

「お前どういうつもりだよ。」

「どういうつもりも何もないよ。お前がいつまでもウジウジしてるから発破かけただけだよ。」

「ウジウジも何も。あの人は結婚してんじゃん。」

「けどさ。何か運命感じない?俺は感じてるけど。」

「彼女には惚れてないし、誑かそうなんて思ってないんじゃ無かったのかよ。」

「運命感じてるのは怜央と歩美さんに、な。」

 僅かに開いた峯田の瞳が何かを語るようだった。

「バっカじゃねーの、」

「だって、お前あの時に振った理由覚えてないの?」

 あの時と指したのが、浮気した彼女のことだと直ぐに分かった。

「覚えてるよ、そりゃ。」

「人妻を好きになったんだっけ?」

「ああ。」

「今まさにそうじゃん?」

「そんなんじゃないよ。ただの常連客だよ。」

「素直になれよ。見てたよ、俺は。」

 見てた、という言葉に峯田は柄にもなく動揺した。何を見たのか聞こうとして何度も言葉を飲み込む。

「旦那は浮気してんだろ、お前は歩美さんが好き、歩美さんも多分お前が好き。それでハッピーじゃん。」

「ハッピーじゃないだろ。」

「じゃあ。お前はあの人の幸せを望まないってことだな?」

「そういう次元の話じゃない。」

「だってそうだろ?子供がいるから離婚しない方がいい。あの人は母親の幸せは得るかもしれないけど、女としては不幸なまんま生きてくんだぜ?」

 東山の言葉に峯田は何も返せなかった。

「俺らより二つも下なのに、子供と義理の母親と浮気してる旦那相手に仮面つけて毎日暮らすのって幸せなんかな?」

「不幸がどうかはわかんないじゃん」

「は?正気かよ、怜央。」

「旦那の浮気がどっかで終わるかもしれないし、あの人の良さがまた分かるようになったら不幸じゃなくなる。」

「男の浮気なんか、する奴はどんだけでもすんだろ。どうかしたら死ぬまで浮気し続けるぞ。」

 東山の父親は、彼が十八の時に女と蒸発した。それまで浮気だろうと家族の誰もが察していたのに問い詰めなかった。母が体調を崩し、入院したのを知った父は逃げるように女と姿を消した。母に歩美を重ねて見ていたのだった。

 もし、母にも支えになってくれる人がいれば幸せだったんじゃないか。弱音を吐かなかっただけで、心も体もボロボロだったのに気が付かなかった。

「そもそもあの人の旦那の浮気に終わりがくんの?」

「こないんじゃないかな。」

 来ないのを望んでいるような言い方に東山は突っかかる。

「前にも言ってたじゃんかよ。旦那に会った後に我が儘で人の言うことに聞く耳なさそうな顔してるって。」

「それは本心だよ。けど千紗ちゃんにとってはあれが父親だろ。引き離すことなんか考えてねーよ。」


 信治が息を引きとったあの日を思い出す。何度か会ったことはあっても、突然いつも迎えにくるはずの母親ではなく喫茶店のマスターが母親の兄だと名乗って幼稚園まできたのだ。驚かない方がおかしい。助手席で一言「ママは?」とだけ聞く。

「お父さん、いや、千紗ちゃんのおじいちゃんが元気じゃないみたいで。病院行ってる。千紗ちゃんを連れてきてって言ってた。」

「おじいちゃん、だいじょうぶ?」

「わかんない。あゆみさん、えーとお母さんに聞いただけだから。」

「ママ、泣いてるかな」

「えっ?」

「ママね、おじいちゃんとおばあちゃんとおしゃべりする時はわらってるけど、おわるとね泣いてるの。涙はでてないよ。」

「そっか、」

「ママのくるまもカッコいいけどマスターの車もカッコいいね。」

「ははは。ありがと。ママの車の椅子と違うけど大丈夫?」

「だいじょーぶ。ちー四才だから。」

 いつもは一人で乗る黄色い車がその日はやけに賑やかだった。お父さんに何かあったのは分かったけれど、何でもないといいのに。そんな期待が打ち砕かれることになるなんて思ってもいなかった。


 病院でみた彼女は背中を丸くして、震えた声で話した。涙を溜め、安心させようと笑顔を貼り付けて。守りたい。抱き締めたい。いっそ俺が旦那なら良かったのに。

 千紗が俺のシャツをやんわり引っ張り、小さな声で呟く。

「ママね、ずっとがんばってるの。けど、パパはしらんぷりしてるの。」

「そう、なの?」

「ママ、ワガママだけど、がまんばっかりしてる。」

「ママ我が儘なの?」

「あかいくるまはママのワガママのかたまりなんだって。」

「あの車が?」

「うん。いつもそう言ってるよ。」


 車が好きな彼女は共通の趣味を持つ夫と結婚したのに赤い車を我が儘だという。ツーシーターの車は多分子育てには向かないだろう。お義父さんの通院には使えないのは想像に容易い。

 いつだったか、どうして子供もいるのに働くのかと聞いた時に車とバイクの為だと言っていたのを思い出す。

「働いてるママってかっこいいなって思ってたの。」

「ワーキングマザーは多いよね、確かに。」

 軽い相槌のように返事をした俺に彼女は一瞬泣きそうな顔をしてから口を開いた。

「そう言えばさ、大半の人は納得するでしょう?」

「大義名分ってこと?」

「私ね、子供を産んでも変わりたくなかったんだ。」

「人なんてそんなに変わらないでしょ。」

「そういうんじゃなくて、お母さんになろうとしてできなかったから、せめてかっこいい大人になりたかった。」

「いや、そんなことないよ。いいお母さんしてるよ。」

「いいお母さんって何だろうね。」

 机の木目をなぞるように見つめる彼女は、誰かの母とか奥さんではなく、一人の女性だった。

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