終着地

 近所を一回りと決めてバイクに股がったが、行き着いたのはジョーヌだった。21時、峯田は居ないと分かっているのに来てしまった。無意識とは恐ろしい。私は何をしてるんだろう。今は東山がバーをやってる時間。峯田が居るわけなのに。そもそも何で峯田にこんな曖昧な気持ちが抱くのか分からなかった。

「せっかく来たんだし。ソフトドリンクでも頼もうかな。」

 カフェ・ド・ジョーヌの立て看板は仕舞われ、代わりに東山の店の名前である、カプリス・アジュールの看板が出ていた。

「気まぐれな青?」

 ジョーヌと同じ扉なのに、今日はなんだか違って見え、カランコロンと鳴る音も違って聞こえる。

「いらっしゃい。」

 東山は扉の方を向き、驚いた。

「歩美さん?どうしたの?こんな時間に?」

「ちょっとね、」

「何か飲む?あ、けどバイクか。」

「うん。ウーロン、ロックで。」

 東山は鳩が豆鉄砲食らった顔を一瞬だけしたが、ウーロンロックね、と口に出して笑い始めた。

「初めて聞いたよ、そのウーロン茶の注文。」

「そうですか?よく使いますよ。友達と飲む時とかハンドルキーパーなんで。」

 いつもの喫茶店の雰囲気とは違って見えて新鮮な気持ちながらも、歩美はいつものカウンター席に座った。

「なるほどね。で、何で人妻がこんな時間に居るのかな?」

「特に何もないんです。本当に何も。」

「どうだかなぁ。」

 そう口にしながら歩美から見えないように峯田に連絡をする。

“あゆみさんがきてる。チャンスを逃したくないなら今すぐ来い。”

「お腹すいてる?」

「夕飯食べたから。」

「歩美さんならサービスしようと思ったのに。」

「ダメダメ。こんな時間に食べたら太っちゃうし。」

「けどさ、ちょっと痩せたよね?」

 しょっちゅう会うわけでもない東山でも痩せたと分かる程、歩美は憔悴していた。

「そうでもないよ。気のせいじゃない?」

「痩せてないなら疲れてる?」

「まあちょっとね、」

「じゃ、ちょっとだけ休憩しようよ?」

「そう思って来たんだ。」

「俺が言ってるのと歩美さんの思う休憩は別物だと思うけど?はい、ウーロンのロック。」

 東山がグラスに入ったウーロン茶を差し出す。

「ありがと。」

 歩美がグラスに手をかけると東山の手が添えられた。

「いっそ酔ってく?介抱ならするし。」

 ガタン、と音を立て扉が激しい音を立てて開く。

「マスター!?」

「ヒガシ!!」

「悪かったって、まじで。」

 東山は歩美の手に添えた手を離し、アメリカの刑事ドラマの真似事のように両手を挙げた。鋭い眼差しが東山から離れると、大股で歩美に近寄る。

「なんでこんな時間にフラいてる!?」

「ちょっと、落ち着いて、マスター。」

「今はマスターじゃない。」

 歩美の腕を掴む。

「一人の男として来た!なんでこんな時間にここにいる!?」

 振り離そうとしてもびくともしない。

「ねえ、何があった?」

「何でもない。ちょっと夜のドライブしてただけ。」

「来て。」

 ぐっと手を引き、店の外に出た。人目につかないように建物の裏へと導く手は凄く頼もしくて逞しい腕だった。

「何があった?」

「何にもないよ、本当に。」

「それなら何でそんなに泣きそうな顔してんの?」

 すうっと峯田の手が歩美の頬に触れる。

「そんなことないよ、」

「我慢しきれてないよ。」

 思わず溢れた涙を峯田の親指が優しく拭う。

「我慢とか、してないし。涙じゃないから、これ、汗だから、」

 ぐいっと引き寄せられた腕に従うように峯田の胸元に歩美の顔が近づく。ふわりと柔らかく優しい甘く苦い香り。やんわりと抱き締められ、今までの緊張が緩み、頬には涙がとめどなく流れた。

「わたし、私、」

「無理しないで、落ち着いて。」

「お父さんのこと助からないって分かって、介護することから解放されたって思って、それで」

「うん、」

「お母さんが落ち込んでるし、傍に居てあげないとって思ったり、千紗のこともあったり、」

「うん、」

「何かもう一人になりたくて、」

「頑張ったね。」

「がんばってなんか、ない。」

「そんなことない。」

「お父さんが亡くなるのが分かった瞬間に心肺蘇生する手に力が入らなくなった。諦めたの、わたし」

「諦めたんじゃない、他の人より少し早く分かっただけだよ。」

「お母さんはあゆちゃん、あゆちゃんって良くしてくれるけど、わたし、いい人じゃない!」

「落ち着いて。大丈夫だから、」

「でも、わたしは、」

「歩美さんがいい人だから、お母さんが良くしてくれるの?違うよ、歩美さんだからでしょ?ね、帰ろう。」

 やんわり抱き締められた腕に少しだけ力がこもる。

「帰るって言ってくれないと、困る。」

「帰るよ、ちゃんと。」

「好きな人が泣いてて、理性保ってられるような人間じゃないよ、俺は。」

 少しずつ顔を近づける峯田の視線が歩美を縛ったようだった。ぎゅっと目を瞑るしか為す術のない歩美の瞼に峯田はキスをした。

「マスター、」

 驚き、ぽかんと口を開けた歩美。耳が少しだけ赤らんだ峯田。

「隙あり。」

 ちゅ、と音がする。峯田の吐息をそっと感じた。唇が触れたのか触れていないのかさえ歩美にはわからない。

「俺、やっぱり歩美さんのこと好き。」

「ごめん。マスター、わたし、」

「怜央。振り向いてくれなくていい。離婚してなんて言わない。だけど泣くなら俺の前だけにしてよ。」

 キスをされた瞼も触れたのか触れていないのか分からない唇も熱い。掴まれていた腕も、抱き締められた肩も、自分の体ではないように熱い。いっそ、燃え尽きるほどの熱さなら良かった。ほんわりと温かくて気持ちがいい。これに良く似た感情を知ってる気がする。でも今は思い出してはいけない気がする歩美だった。

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