二人の距離

 歩美の心境の変化に修平は気が付かなかった。それほど、黒河に入れ込んでいたからだろう。ただ、修平は黒河と交際はしても、身体を重ねていなかった。歩美に罪悪感はあった。黒河を抱けば、歩美への罪悪感は増すだろう。そしてもう戻れない。

「嫁がさあ、親父の介護してくれてんだ。こないだは娘がパパって似顔絵描いてくれてさ。似てっかなあ。」

と携帯の画面を見せる。

「仕事終わったんだから愛妻家の振りはもういいってば。」

「振りじゃないよ。」

「本当に愛妻家なら愛人なんて居ないでしょ?」

「そりゃあ、まあ、そうだけど、」

 いつものように歯切れ悪く答える修平に黒河は続けた。

「ねえ、いつになったら抱くの?」

 修平の考えなんてお構い無しに黒河が言う。黒河はまだ二十才、派遣社員。周りの友達はまだ学生が多い。ついこの間までは「年上だけど大学生の彼氏」という名のセックスフレンドが居た。ビー・トレディに派遣され、配属された部署で社内でも有名な愛妻家の修平と知り合った。愛妻家なら、きっと私を大切にしてくれる。奥さんから奪って、私が幸せになる。今までちゃんと愛されなかった、愛妻家なら私を愛してくれる。そう思って、それとなく修平に近づいた。一度でも身体を重ねれば、気が移ると黒河は思っていた。それに妊娠したと言えば、きっと結婚してくれるだろうと。けれど修平は黒河を抱かなかった。

「天音、悪い。」

 まただ。いつも今日はそういう気分じゃない、とか昨日嫁とシたから疲れてるし無理、と理由をつけて修平は黒河を拒んだ。

「妻だけEDとかってあるけどさ、愛人にEDって変じゃん。」

 気付けば口がそう動いていた。

「悪い、帰るわ。」

 修平は泊まることはなかった。いつも頃合いを見計らって家族が住む家に帰る後ろ姿を、黒河はいつも見送るだけだった。


 修平は残業ではない何かで帰りが遅い。その理由を歩美は察し、どうしてなのか答えの出ない問いを続けていた。そんな歩美に気付いたのは修平ではなく、峯田だった。

 何故、結婚して同じ家に住む修平ではなく峯田だったのか。

 半ば強引に用意されたコーヒーチケットだったが、チケット代を払うと何度通っても要らないとか無理にお金を手渡せばじゃあもう10枚追加だと峯田に言いくるめられてしまった。もうチケットは何枚になったんだろうか。仕事を終えると歩美は何となくジョーヌへと足を運んでいた。

「ねえ、ご主人の、その、」

 言葉を濁しながら聞く峯田だったが、歩美は顔色ひとつ変えなかった。

「浮気?」

「あー、うん。まだしてるの?」

「してるんじゃないかな、」

「してるんじゃないかなって、そんな他人事に、」

「だって、夫婦って言っても他人だもん。ただ紙切れで家族になったし、いつでも紙切れで他人になれるの。」

 それに歩美が浮気に気付いたあの日から、修平とどことなく距離ができた。歩美は修平に壁を作っていた。見えないけれど、厚く大きな壁だった。

「じゃあ、他人になるの?ご主人とは。」

「浮気相手と一緒になりたいと思ったら捨てられるね、わたしは。」

「そんな人と暮らして幸せ?」

 峯田の射抜くような視線が歩美にぶつかる。

「お父さんもお母さんも、もう年でつきっきりじゃないけど介護がいるの。新しい奥さんが来たら、それをやるんだろうけど、」

 そう言いながら歩美は煙草に火を点けた。煙を吐き出しながら、峯田と反対に視線を泳がせる。

「私、このまま浮気分かったからって離婚したら、何の為に嫁いだのかわからないよ。」

 ぐっと握った右手の拳が感情の大きさを表していた。

「千紗ちゃん居るから離婚はしないんでしょ?」

「きっとそうなるよ。」

 ふっと笑った歩美に峯田は胸が締め付けられた。

「無理に笑わなくてもいいよ、俺の前ではさ、」

「そんなことないよ。」

「いいや、無理してる。」

 二人の距離は少しずつ近付いている。峯田と歩美が話す姿を窓の外から眺めながら、東山は裏口のドアにもたれて時間を潰す日が続いた。

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