紙一重

 修平と歩美が結婚する前、修平の父は脳梗塞で倒れた。後遺症も軽度で済んだが、その時肺癌を患っていることが分かり、長期の治療と介護を要した。朝、血圧を測るのが歩美の仕事だった。少し前までは皆で食卓を囲んでいたが日に日に居間まで歩くことが出来なくなっている。どんどん病状が悪くなり、少しずつ体重も減っていった。

 家族の分は普通のご飯を炊き、信治にはお粥さんを作った。居間には並べず、信治と千代子の部屋へと運ぶ。千代子が食べさせることがあったり、そのまま歩美が父の口に一口ずつ運んだりした。


 病院の帰りに、信治と千代子と三人で百貨店のケーキ屋によるのが習慣だった。毎日デイケアへ通い、月に一度行くケーキ屋だけが信治の楽しみだった。千代子も季節限定のケーキを楽しみにしていた。

 三人でテーブルを囲みながら、信治が聞く。

「歩美さん、修平といると疲れるでしょう?」

「いいえ、優しいですよ。」

「優しさと優柔不断は紙一重だからね。」


 少しずつ弱っていく信治を千紗は毎日見て育った。

「おじいちゃんはどこが病気なの?」

 四つになる前の子供でも生き死にを覚る年になったのだ。脳梗塞、肺癌の発覚からもう七年が経った。

 七年前は「余命はおよそ五年。治療をすればなんとかなるかもしれないけど、余命なんてただの数字でしかない。」と医師から言われた。

 これは歩美もよくわかっていた。余命三年と言われた人が一週間後に亡くなるケースだって少なくない。早くお義父さんに孫を見せたい。そう思って修平に相談した。遠かった「結婚」の文字が猛ダッシュでやってきた。

 転職したいと口にしていても行動を起こさなかった修平が会社員になり、歩美もフルタイムからパートタイムへと勤務時間を変えた。結婚する前のことだ。奥さんになる人には専業主婦になってほしい、修平はそう言っていたのを歩美は律義にも覚えていた。修平と交際することになって、修平の両親にも会ったあの日から、いつか仕事を辞めることを想定としていた。しかし、だ。結婚までの準備を進めるうちに、修平の考えは変わった。

「仕事を無理に辞めなくてもいいんじゃないか?」

「えっ?」

「辞めたらバイクは別として、車は車検通さないつもりだろ?倉庫にしまっておくのか?」

「まあ自分の貯金でやれるうちは通すけど。お父さんの通院もあるし乗り替えようかなって。」

「父さんの通院は家の車を乗ればいいだろ?」

「お金かかっちゃうじゃない。専業主婦なのに無理でしょ。」

「だから、専業主婦にならなくてもいいんじゃないかって言ってんだよ。」

 専業主婦になってほしいと言っていたあの日はなんなのか。その夢を叶えるために歩美は時短勤務へとシフトを変え、いずれ退職することを考えていた。仕事を辞めず趣味を諦めなくてもいい。有難いこと。だけど、それは優しさなのか、優柔不断なのかわからずに居た。

 あの日の紙一重の意味がやっとわかった。

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