能ある鷹は爪を隠す

 突如頬に走った衝撃に、私は抗議の声を上げることすらできないでいた。あまりの驚きに次に取るべき行動を選択することすら────そもそも、何かを理論的に考えることが、今の私には不可能だった。


「……本気で言ってるのか?」


 硬直する私の前に立つカトラスが、低い声で呟くように問うた。一体何を言われるのかと気を張っていた私は正直困惑する。質問の意味が掴めない。どういうつもりだと叫びかけて────唐突に気づいてしまった。


 私の気持ちがどうあれ、これまで共に戦ってきた月日と義理、告発したはいいものの胸につかえる漠然とした不安、不快感、何より私自身の押し殺せない躊躇い。その全てを含んだ上で、彼は私に告げたのだ。


 本気で言っているのか、と。


 飛び出しかけた言葉は喉の奥で消えていった。舌が何かに張り付いてしまったのかと錯覚を覚えるほどに頑なに動いてくれない。何も言うことができない。なにも。


 目を見開いたまま一向に答えを返さない私に、カトラスが勢いよく掴みかかる。


「答えろよシルヴィア……! 本気で言ってるのかって聞いてんだよ……ッ!!」


「……ぁ……」


 カトラスの黒曜石のような瞳が激情を孕んでこちらを睨みつけた。恐ろしい敵意……いや、もはや殺気と同等のものが私の喉元へと突きつけられ、気づけば身体はがくがくと震えだして使い物にならなくなっている。意味の無い呻きを漏らす私を見て後ろのラウラが静かに言った。


「落ち着いて。喚いてもどうにもならない」


 空気を裂くような澄み切った声がカトラスを諌める。彼は荒々しく私から手を離すと、一歩後ろへ下がった。その間にも口は断固として動こうとしない。その理由はなんとなく分かってきていた。


 私は、怖いのだ。


 一言でも口にしてしまえば、聖氷教を盾に無味乾燥な言葉を並べ立ててしまえば、取り返しのつかないナニカがばらばらに砕けて、終わってしまう。そんな気がしてならなかった。


 でもそれと同じくらいの音量でがなり立てる声がある。私には、それでもどうしても譲れないものが………あ…………る?あるのか?本当にそれは自分の意思なのか?


 もう考えたくなかった。その先を考えれば「シルヴィア・クライオジュニク」というケット・シーそのものが崩壊してしまうという確信があった。


 目の前の現実全てと今向き合わないといけないはずなのに、私は目を伏せた。自分を守るためのいつもの思考停止。ここから進まなければ大丈夫。そう言い聞かせて、無感情な言葉を投げるべく今度こそ口を開こうとして……


「逃げるの?」


「っ…………!」


 強烈な一撃が私を完璧に叩きのめした。全てを悟っているかのごとく凪いだ瞳のラウラがじっとこちらを見つめる。


「貴方は今逃げた。自分からだけじゃない。エルラーンとアルフェからも逃げた。このままだと二人は死ぬ。貴方のせいで。それなのに貴方は自分の事しか考えていない。自分の事しか見えていない。二人が死んだ時、貴方は異教徒が減って清々したって言えるの? 二人の願いを踏みにじって、私たちが一緒に戦ってきた時を無視して、貴方はそうやって言える? だとしたら私は貴方を心底軽蔑する」


「わ、たし……私は……」


 ついに何も言えなくなった私に一瞥をくれる事もなく、カトラスが勢いよく立ち上がる。それと同時に、少しだけ空いていた窓から雪鴉が飛んできて、彼の伸ばした腕にとまった。


「ほっときなよラウラ。君の言う通り、この裏切り者に構ってたって仕方ない。それより、協力者と話がついたよ」


「……そうね。カトラス、行きましょうか」


 不穏極まりない会話が耳に届く。私は慌てて立ち上がった。


「待ってください!」


 咄嗟に呼び止めるものの、振り返ったカトラスの瞳にははっきりと苛立ちの色が見て取れる。私はまた怯んでしまいそうになって、それでもなんとか口を開く。


「何をするつもりですか」


「……もちろん、二人を助けに行くに決まってるでしょ? 馬鹿なの?」


「そんなこと……」


 出来るわけがない。聖氷教に背く気か。


 常なら口にするだろうどちらの言葉も選べなかった。私がその先を言う気配がないのを見て彼は溜息をつく。その前で扉を開けようとしていたラウラが手を止め、しかし振り返らずに呟いた。


「流石に…………私たちを舐めすぎ」


 直後、心臓を穿かれるような痛みと冷たさが走る。反射的に胸を抑えるが、もちろん誰からも刺されてなどいない。なら何故……そこまで考えて思い出す。そうだ、この感覚には覚えがある。ケット・シーたちが戦闘の前の威嚇に行うことがある────氷力マナの空吹かしだ。


「私たちは弱くない。この部隊に属するケット・シーたちは、みんな同じように強さを持っている。それは私たちに願いがあるから。誰にも譲れない芯があるから。一人で一騎当千。二人揃えば誰にも負けない。それが私たち……契約者」


「僕たちは後衛じゃない。ただ後衛向きってだけ。僕たちには僕たちなりの牙がある────侮るなら相応の報いを受けることになるよ?」


 ばたり、と扉が閉まった。消えた威圧感に膝から力が抜ける。どさ、と床に座り込んだ私を、不思議そうな瞳で雪鴉が見ている。そのつぶらな瞳ですら私を嘲っているような心地がした。


 私はどうすればいいの?どうすればよかったの?


 虚しい問いは誰もいなくなった部屋に反響するだけだった。


 ◇◇◇


「それで、どうやってここから逃げるつもりなの?」


 アルフェが声を潜めた。簡単に状況を説明すると、彼女は実にあっさりとウェルデンを信用することに決めたようだった。もちろんここで座して死を待つという選択肢は彼女にはないようで、脱出するためにはウェルデンの協力は不可欠だからだ。


 その彼は落ち着かなげに耳をぴくぴく揺らした。


「捕まる前にね、一つだけ細工をして来たんだ。僕の古い友人が軍に居るんだけど、そのケット・シーになんとか連絡をつけられたんだ。彼は、塔の四階まで来ることができれば僕を助けられるって言っていた」


「じゃあ、当面は四階まで降りるのが目標か……この塔って何階建てだ?」


 まあそもそも、この檻から出ることが先決ではあるが。アルフェは少しだけ考える素振りをしたものの、素早く答えた。


「確か十一階建てよ」


「……? なんか半端な数字だな」


 ウェルデンが笑って頷く。


「そうだね。聖氷教では、十一がもっとも縁起のいい数字とされているから、多分そのせいだと思うよ」


 そこで彼は窓の外をちらりと見て、俺たちにも外を見ることを促した。


「ほら、そろそろだよ」


 よく分からないまま、彼に習って空を眺めた瞬間────風を切り裂くような音と共に、一羽の白い鷹が塔の壁面すれすれを滑空しながら通り過ぎる。その理性を宿した瞳は間違いなくこちらを見据えていた。


「いつもこの位の時間に、僕が生きてるか確認しに来るんだ。とにかく、四階まで降りるためにもこの枷をどうにかしなきゃね……お願いできるかな?」


 檻の外を念の為に確認して、ウェルデンはアルフェに尾を振って合図を送った。それを見た彼女が呼吸を整えるのを見て、俺の胸が何故か微かにざわめく。思わず彼女の方を見てしまう。視線に気がついたアルフェは、私は大丈夫だから、とでも言うように首を横に振った。本当はそんなわけがないのに。


 アルフェの魔法である「氷歌」は扱いが難しく、一歩制御を誤ればすぐに暴走してしまうという。彼女が契約したデウス・エクス・マキナ、波紋ラフィラは魔法制御型で、ラフィラの協力を得ることで初めて魔法をまともに使うことが出来るのだ。しかしそれは、魔法を使う度に代償を払わなければならないということでもある。彼女が背負う代償は「苦痛の倍加」、魔法使用から一時間の間に負った痛みを全て二倍にするというものである。


 だから俺は、できればアルフェに魔法を使わせたくはなかった。しかし、そんな事を言っていては三人とも処刑の憂き目に遭うわけで、死んでは元も子もない。だから納得したはずだった……少なくとも理性の上では。


 どうしてか疼き続ける心臓に顔を顰めると、ちょうど戻ってきたウェルデンが訝しげな顔をした。俺は笑って誤魔化す。と、同時に空気が張り詰めるような感覚が肌を這い回った。「氷歌」だ。


「────────!」


 音にならないおとが弾けて消えて、僅かな耳鳴りと共に重い手枷が真っ二つに割れて床に落ちた。少し疲れたような顔をしているアルフェは、それでも少しだけ微笑む。


 第一関門突破だ。















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