廃ビル(2)

 後日、夕暮れ時のこと。博士に連れられて向かった場所は、ぼくの予想とは少し違った様相だった。

 研究室からは歩いて二十分ほどらしかったが、薄暗い中、瓦礫を乗り越えながら歩いていくのは骨が折れる。息ひとつ乱さず歩く博士に必死について行っていると、とある建物の前で彼は足を止めた。

 見たところ、普通の廃ビルだった。砂埃とガラス片を踏みしめながら、地下へと続く階段を下りる。階段は常闇へと続いていくようだ。足元に気を付けながら慎重に下っていく。

 扉を開けると、からん、という涼やかな音と共に、喧騒が圧を伴って押し寄せて来る感覚がした。

 豪快な笑い声と、アルコールのにおい。思わず閉じた瞼をこわごわと開ける。

 薄暗い照明。古びた木樽と、棚にずらりと並ぶ酒瓶。どうやら酒場の類のようだ。客入りはまちまちといったところか。博士がよくケーキを持って帰って来るから、てっきりケーキ屋なのだとばかり思っていた。

 カウンターと、ソファの置かれたテーブル席がいくつか。客に擦りつくように座っているドレスの女の、寒々しい肩が目に入る。耳につくような甘い声。

 カウンターの中央にも女が立っていた。肩のあたりで髪を切りそろえていて、濃い色の口紅が派手な人だった。胸元と背中の大きく空いたドレスを着ている。

 博士とぼくの存在に気が付き、カウンターに立っていた女がこちらを向く。首元にチョーカーをつけている。歳は博士と同じくらいか、それより上と言ったところ。鼻梁が整っている。少し化粧を控えめにして髪を伸ばせば、アンという女優と似るかもしれない。

「あら、いらっしゃい。それ、前に言ってた子?」

 グラスの中身を混ぜながら、若い女が博士に尋ねる。お喋りの声が飽和している中でもよく通る、はきはきとした声だった。

「ええ。ここに興味があるようだったので、あいさつに連れてきてみようかなと」

「まあ、おませさん」

 大袈裟に驚いた表情。ぼくはぎこちなく会釈をする。

 女は混ぜていたグラスを客の一人に渡し、カウンターからこちらに歩いてくる。ひらひらとドレスのすそが揺れ、隙間から高いヒールの靴が覗いた。

 正面に立つと、女はぼくよりも背が高い。気圧されたぼくにお構いなしに、彼女は手を差し出してきた。

「私はミヤ。あんたがジロウちゃんが言ってたハルくんね。色々と話は聞いてる」

 差し出された手をとりあえず握り返す。

 ジロウ。博士の名前だろうか。

 博士が諫めるように彼女を見ていることに気がついた。こんな博士の表情は初めて目にした。

「実際に見るとかなり若いのね。本当に大学生?」

「正真正銘、T大学の二年生です。彼は優秀ですよ」

 博士は溜息混じりに言葉を返す。確か「きょうだい」と言っていたが、どちらが兄か姉かは一概にはわからない。露出が多く派手な彼女と、どう見ても堅物の博士との組み合わせは、きょうだいとしてもどこかミスマッチに見えた。

 ミヤ、と名乗った女は、奥のカウンター席へとぼくたちを通した。博士に白っぽい色の飲み物が出され、ぼくの前にはオレンジジュースのグラスが置かれる。

 どうやら完全に子供扱いされているようだ。

「そういえば、都市再生化計画とやらが動いてるらしいわね。パパのところにも告知書がきたって。あちこちで警察の目が厳しくなってるみたいだし、この辺も目をつけられたら危ないかもしれないわよ」

 ミヤは一転して真剣な表情になる。確かにこの店は正規のものには見えない。警察に見つかれば少々の拘束では済まないだろう。不許可での居住や店舗営業は名目上は禁止だったはずだ。

「『地下』さえ生きていれば問題ないのでは? そこには触れないのがお上の暗黙の了解だったでしょう」

「どうだか。どうも計画そのものが胡散臭いのよね。『豊かな東京をもう一度』なんてキャッチフレーズまで打っているわりに、詳細はほとんど明示されてないの。近々東京市庁のサーバーに潜り込んでみようとは思うんだけど、まあ一筋縄じゃいかないでしょうね」

 頬杖をつきながらのため息。前かがみになった拍子に、深い谷間が見えた。

 都市再生化計画、という単語は、父親が言っていたのを耳にしたことがある。東京が財政再生団体のレベル五に認定されてからゆうに十五年が経った。今年は節目の年になる、とも。

「そういえば、昨日頼まれていた奴、半分くらい仕上がってるわよ。どうする?」

「さすが、仕事が早いですね」

 グラスをカウンターに置き、博士が立ち上がる。それから彼はぼくの方を一瞥し、申し訳なさそうな顔をした。

「……すみませんが、ここで少し待っていてくれませんか。すぐ終わるので」

 博士はぼくに囁き、ミヤと共に店の奥へと姿を消した。

 ひとり取り残され、ぼくはとりあえずグラスに口をつける。アルコールが加えられているわけでもない、よくあるオレンジジュースだ。人工甘味料の味がする。

 店の中を見渡してみる。色味のない東京では、板張りの店内はどこか新鮮だった。客は肉体労働者なのか、浮浪者なのか、薄汚れた軽装の者ばかりだ。ぼくの存在は気になるようで、喋り声は絶えないが、目線はちらちらとこちらを見ていた。舐めるような嫌な視線もあった。

 目元に大きな傷のある中年の男が、ぼくと一瞬だけ目が合うと、露骨に大きな舌打ちをした。手にはもうもうと煙を出す短くなった煙草。

 ――居心地が悪い。

「坊やぁ、ひとり?」

 耳に残るような甘い声が、ぼくに話しかけてきた。見ると、入り口で目にしたドレスの女だった。大きく露出した肩に、飴色のウェーブがかった髪がかかっている。女はぼくの隣に座り、自分のグラスをカウンターに置いた。

「ああ、そっかー、保護者同伴だっけえ。置いてかれちゃってかわいそうねえ。退屈でしょう? ミヤさんってばあの男のヒトが来た時だけ奥の部屋いっちゃうのよー、なんかやらしーよねえ」

 次々と言葉を連ねながら、女の指がぼくの手に触れる。ぼくが咄嗟に身を引くと、女は少しだけ寂しそうな顔をして、「ごめんねえ、癖なのよおこれ」と目を伏せたまま笑った。

「お詫びに面白い話聞かせてあげようか、ねえ」

 頬杖をつき、女がぼくを見上げた。わざとそうしているみたいな上目遣い。

「さっきのお客さんから聞いたこと。ほんとはミヤさんに一番に教えなきゃいけないんだけどお、こっそり最初に教えてあげちゃう。馴染みのヒトみーんな帰っちゃって暇だし」

 そう前置きをして、女が足を組みなおす。

「東京の一角がね、突然砂漠になってたんだって」

 え、と自分の認識していなかった部分から、声が出た。

「どういうことですか」

「あ、意外といい声。もっと喋ればいいのにい」

 くすくすと笑う彼女の声が耳障りだった。ぼくはグラスに口をつけ、苛立ちをべたつく甘さと一緒に飲み下した。

「なんかあ、ホント、真っ白な砂ばっかりになったんだって。木も建物も、あったはずのものがほとんど消えて。郊外の、昔あった大っきい病院のとこらしいよお。変だよねえ急に砂漠なんて。そういえば昔の歌に東京砂漠ってあるよねえ、知ってる? 小さい頃におばあちゃんが歌ってたなあ」

 女はそれからも一方的に喋り続けていた。ぼくは聞いているそぶりを見せながら、ふと壁際に目をやった。

 昼間から酒浸りの大人たちの中に、ひとりだけ、景色に馴染まない人影があった。

 十歳を過ぎたくらいに見える女の子だ。多くの客からは死角になる位置、壁にもたれながら座り込んでいる。頬に大きな絆創膏を張っていて、他にも見える場所にいくつか擦り傷があった。

「あの」

「ああ、あの子?」

 ぼくが一言発しただけで、女は何かを悟ったような顔をした。

「例のバスジャックで唯一助かった子だって。ミヤさんが急に拾って来たのー。かわいいのにちっとも笑わないのよお。やっぱりね、あんなことがあった後だとねえ」

 その時、「おーいジュンちゃん、こっちにも酒ついでくれよ」と怒号にも似た声がこちらに飛んだ。

「はあーい、今いきまぁす」

 じゃ、ごめんねえ、と言葉を残し、女が席を離れた。

 緊張が解けるのを感じる。ぼくは再び背後に目を向けた。

 膝のあたりで手をきつく結んで、女の子は床に座り込んでいる。何かを探すみたいに顔を上げたり、目線を動かしたりしている彼女と、不意に目が合った。だが、すぐに目をそらされる。

 ぼくは高い椅子を飛び降り、彼女に近づいた。

「ねえ」

 女の子は無言で顔を上げる。まっすぐな髪がさらりと揺れた。

「なんでこんなところにいるの」

 こんな子供が東京に居座るのはかなりの自殺行為だ。もっとも、ぼくが言えた話ではないが。

 ぼくをぼんやり眺めながら、女の子は小さく口を開く。

「お母さんを、探してて……」

 活力はないが、鈴のような澄んだ声だった。

 彼女は薫と名乗った。つい数日前、首都高を横切るバスが襲撃され、中にいた多くの男が殺され、子供や女が攫われた。犯人は散弾銃を持っており、乱射された弾によって六人が死亡した。薫は命からがら逃げだしたところをミヤに保護されたらしい。

 逃亡犯たちは地下に逃げおおせたと聞いた。廃線になった鉄道の駅跡が密集している東京の地下は、多くの人間が住み着いてスラム化している。警察の目も届かない、文字通りの無法地帯。被害者の子供や女の居所がわかっても、せいぜい売春婦か臓器で見つかるのが関の山だ。

 ぼくは「見つかるといいね」と返した。それきり彼女との会話は途切れた。


 博士たちが戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。具体的な時間経過はわからないが、彼らが話し込んでいた時間は随分と長いものに感じた。

「これ、パパからのお土産」

 帰り際、ミヤはそう言ってぼくたちに例のケーキの箱を渡した。中を見ると、先日も見たいちじくのゼリーが六つ入っている。

「あの人は本当に適当ですね」

 博士は露骨に顔をしかめた。「売れ残りだってさ」と、ミヤも苦笑で応える。

「困ったことがあったらいつでも頼ってね、かわいい坊や」

 ミヤがぼくの頭を乱雑に撫でる。それじゃあ、とドレスのすそが翻ったのを横目に、ぼくと博士は酒場を出た。

 外に出ると、日はすっかり沈んだ後だった。今日も月が明るい。

「どうです、疑念は晴れました?」

 正直なところを言うと、謎はますます深まったばかりだ。ぼくの釈然としない表情を見て取ったのか、博士は朗らかに笑った。

「……なんだかいかがわしい店でした」

「そうですか? まっとうな客商売ですよ」

 博士の口調は子供をいなすようだ。

「彼女の本業は情報屋ですよ。言ったでしょう? あの子はデータベースなんです。あの店はカモフラージュと情報収集を兼ねているんですが、ついでに小遣い稼ぎをしているのがあの子らしいところです」

 彼の話によれば、ぼくたちの研究の手助けを含め、ミヤは東京で手広く仕事を引き受けているそうだ。その話を聞いて、ほんの一瞬、母親を探しに来ていたあの子のことが頭に浮かんだ。


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