第二章 廃都

廃ビル(1)

『ハロー、迷える子羊たち。皆既月食とクリスマスイブが重なるなんてロマンチックだよね。今夜の「金曜日のミサ」は、そんな特別な夜からお送りします』

 暇つぶしに聞いていたラジオから、雑音交じりに声が響く。

『あの事件の被害者のほとんどがまだ見つかっていません。だけど、こんな時こそ俺は、彼らへの祈りのために、いつも通りに音楽を届けたい。今夜の特別ゲストには、女優のアンさんをお招きしています』

 ふわり、と白い雪が落ちると同時に、急に電波が乱れた。途切れがちな音の中に聞こえた、ゆったりとしたピアノのイントロ。

 屋上の手すりに肘をかけ、手元の重たいカメラを覗く。月の輪郭は少しずつ影と重なりつつある。空に雲はないのに、月光に照らされた細かな雪がちらつき始めていた。

 ハル、と声がして、ぼくはゆっくりとカメラを下ろした。振り向くと、出先から帰って来たらしい博士が、心配そうな表情でぼくのことを見ていた。

「外で何やってるんですか。風邪ひきますよ」

 手元のカメラに気が付き、呆れたような微笑。

「月食を待っていたんです。冬の夜は空気が澄んでいてきれいに撮れるから」

 吐く息が白い。「そうか、予報によれば確かもうすぐですね」と、少し考えてから、博士が続ける。

「気が済んだら戻ってきてくださいね。温かいコーヒーでも入れておきますから。ケーキをもらってきたので、せっかくだから一緒に食べましょう」

 待ってますよ、と言い残し、彼は室内へと引き返す。ぼくは再び空に目を向けた。周りに光源が少ないからか、細かい砂を撒いたような星々が一面に瞬いている。

 雪のひとつひとつが徐々に大きくなる。時折吹き抜ける風と、何もかも凍らせてしまうような空気に、耳や指先がひりひりと痛む。

 月に重なる地球の影は、すでに月の大半を覆っている。ここまでくれば、もうすぐ。耳障りなラジオを止め、ぼくはカメラを空に掲げた。

 ファインダーの中で、ぼんやりとした影が完全に月と重なり――その瞬間、いつもは白く輝いている月が、ほのかな紅色へと姿を変える。皆既月食だ。

 思わず息を呑む。ひとつ瞬きをして、ぼくは指先に力を込めた。


 部屋に入ると、凍り付きそうだった体の末端が、ふわりと溶けていくような感覚がした。

 室内は暖房がきいていて温かい。ぼくはカメラをテーブルに置き、重たいダッフルコートから腕を抜いた。

「皆既月食は堪能できましたか?」

 コーヒーを二つ、テーブルに置きながら、博士が尋ねた。はい、と答え、コートを背もたれにかける。

「よかったですね」

 まるで自分のことみたいに笑いかけ、彼は椅子に腰を落とした。

 テーブルにはマグカップと食器が二組ずつ。それから、博士が出先からたまに持ち帰って来るケーキの箱。『オリエント』とロゴの入った箱の中には、円柱や直方体の小ぶりなケーキや、ガラスの容器に入った赤色のゼリーが、あわせて四つ入っていた。赤色のゼリーはいちじくを使っているらしい。

 好きなものを選んでいいと言われたので、四角いチョコレートケーキを自分の皿に置く。ダークチョコレートの艶やかなコーティングと、控えめに散りばめられた金箔は、先ほど見ていた夜空とどこか似ている気がした。

「雪が降り出してきましたか。……寒かったでしょう」

 窓の外を一瞥し、博士が苦笑する。彼は箱の中からレモンタルトを取り出すと、壊れ物でも扱うようにそっと皿に置いた。

「博士はいつもそれですね」

「いいじゃないですか。美味しいんですよ?」

 彼はわざとらしくむくれる。そうですか、と返しチョコレートケーキに口をつけると、博士は「つれないですねえ」と笑いながらぼくをからかった。

 洋酒の染みたスポンジがほろ苦い。

 博士、という児童漫画のキャラクターのような彼の呼称は、彼自身から要求されたものだった。彼は名乗ろうとしなかった。理由はわからない。ぼくはもう一年近く彼の研究を手伝っているが、いまだに謎は多い。

 例えば、なぜこんな廃墟の中で研究をしているのか。彼の出生。白衣の下に見える、首元の包帯。見た目はただの若い男性だが、経歴や年齢もぼくは知らない。

 ぼくらの共有する事実はこの古びた研究室だけだ。

 博士の研究の目的は、日本のほとんどから姿を消してしまった桜の原種をよみがえらせることだった。

 たった一度でもいいから、咲いている桜を見てみたい。そう博士は言っていた。ぼくも、資料でしか見たことがない桜は一体どんなものか興味があったから、彼の研究に加担することにした。それが一年前の話。

 ただ、樹化病が人災だという噂が出てから、生物犯罪法が強化され、桜に関する研究は政府の認証が必要になった。そうでないものは違法となり処罰の対象となる。博士のこの研究は、おそらく限りなく黒に近い。

「今日もいつものお店、ですか」

 口にケーキを含んだまま尋ねる。博士はおよそ二週間に一度、知人の経営している店を訪れている。この箱のケーキはそのお土産によく持って帰ってくるものだ。

「よくわかりましたね」

 子供扱いするような声音。「いつもそうじゃないですか」と言い、ぼくはマグカップを手に取る。温かくて落ち着く香りがする。

「どんなお店なんですか」

「興味があるんですか?」

「……少しだけ」

 誤魔化すようにコーヒーに口をつけた。水面がぼくの息でかすかに揺らぐ。

「連れて行ってあげましょうか」

 博士はなんとなしに言い、タルト生地にフォークを入れた。

 ぼくは思わず固まった。

「え」

「気になるんでしょう?」

「迷惑じゃない、ですか」

「彼女ならきっと君を歓迎してくれます」

 さくり、とタルトを頬張る音。

 外はますます寒くなってきたらしい。暖房が上げる音が心なしか大きくなった。

「彼女はデータベースなんです。情報提供者として僕の研究に協力してくれている。君にもいずれ紹介しようと思っていたから、ちょうどいい機会です」

 博士の表情は柔らかだ。「恋人ですか?」と尋ねると、彼は少し笑って「いいえ」と答えた。

「どちらかと言うと、きょうだい……ですかね」

 含みのある言い方だ。「そうなんですか」と表面上は無関心を装いつつ、ぼくは内心に何かわだかまるものを感じていた。

 いつだったか、首元の包帯について尋ねた時。博士はぼくから目をそらして、どこか遠くを見つめて、言った。僕にはとても大切な人がいたんです。この包帯を取ると、それを思い出してしまう。

 首吊りでもしようとしたんですかと訊くと、そんなところです、と彼は微笑した。

 何かをはぐらかすような口調だった。彼は時々、どうしようもなく優しい表情を浮かべながら、ぼくを何かから遠ざけようとする。

「そういえば、ハル、聞いてくださいよ。音声ポストイットをいただいたんです。これはすごいですよ」

 博士が嬉しそうに何かを取り出す。見た目はただの付箋紙と大差ない。パステルカラーの小さな長方形だ。

「なんですか、それ」

「知らないんですか。つい最近開発された使い捨て型のボイスレコーダーです。まだ試験段階ですが、試供品が当たったんですよ。すごいですよ」

 先ほどとは打って変わった明るい表情。「試しに何か録ってみません?」と迫る彼を「遠慮しときます」とかわしながら、この人がこんなに浮かれることも珍しいな、と思う。

 何かをはぐらかすような彼の口調。不自然なほどの高揚。ぼくは胸のもやもやとした何かを、コーヒーで飲み下す。


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