永遠の鎖

逆塔ボマー

永遠の鎖


ってどういうことだと思う?」


 先輩の問いはいつも唐突でした。二人きりの閲覧室、並んで本を読みながら、彼女は不意に口を開くのです。

 その時わたしは何と答えたのでしょう。文学少女気取りの思春期真っ盛りの乙女として、何かしら哲学っぽいことを言ったはずなのですが。


「わたしはね、それはだと思う」


 先輩は窓の外を眺めながら持論を語ります。

 確かその時は夏も終わろうかという頃。少しだけ紅の色の差す空に、遠く薄い雲が流れていました。


「不滅も不死も、ヒトの身では叶わない。なら、手が届くはたったひとつ……駅伝レースのように、バトンを繋ぐこと」


 その時には、先輩はまた何かわたしの知らない本を引用して言っているのかな、と思っていました。

 元ネタになるような本も名言もなにもなかったと思えるようになったのは、だいぶ後になってからのことです。


 先輩が髪をかき上げます。いつもの癖です。

 その動作でどうしても見えてしまう、右の手のひらの真ん中にすっぱりと走る例の傷跡が、やけに印象に残っています。


 ★


 その部屋を見つけたのは、入学してまだ一週間も経っていない頃でした。

 窓の外に、桜の花びらがまだ舞っていたのを覚えています。


「なんだろ、ここ……」


 読書好きを自任していた小娘として、けっこうな大きさの図書室が嬉しくて、一人で棚を見て回っていた時に、ふと気づいたのです。

 入り口から一番遠くの角。窓にも近い片隅に、何の掲示もされていないドア一枚。

 小ぶりな覗き窓から覗いてみると、六人くらいは余裕で座れる木の机がいくつも並んでいます。

 好奇心に誘われて、ドアノブを握ってみました。鍵はかかっていません。


「あっ……」

「おや」


 きぃ、と音を立てて扉が開いて、初めて室内に先客がいることに気付きました。

 セーラー服の襟元のスカーフの色は紫。三年生の先輩です。けっこう小柄……まあそれはわたしも同じなんですけど。

 奥の方の椅子に腰かけて、分厚い本を読んでいたようでした。


「あ、ご、ごめんなさい。お邪魔しました……」

「いいよ。別にここ、立ち入り自由だし」


 反射的に謝ったわたしに、彼女は微笑むこともなく、しかし、決して威圧感のない落ち着いた口調で応えました。

 あたりを見回します。今入ってきたドア以外に出入り口の無い、盲腸のような行き止まりの部屋。窓際に花瓶ひとつある他には、図書室に置かれているものと同じ机と椅子が三セット分、押し込まれているだけです。部屋の広さに比べてどう見ても机と椅子の占める面積が大きすぎて、窮屈な印象を受けました。


「あの、先輩、ここって、この部屋って、何なんですか?」

「そうね、図書閲覧室……ってことになるのかな。オリエンテーションでの説明はなかったろうけど」


 先輩は私の襟元をチラリとみると、本を閉じて首を傾げました。ちなみにわたしのスカーフの色は赤。一目でわかる一年生です。なるほど確かに、学校の設備の説明で図書室の使い方なども聞きましたが、閲覧室なんて一言も触れられはしませんでした。


「自分も又聞きなんだけどね。元々は司書の先生の控室、休憩室だったらしいんだ。ただ図書室の本棚を増やした時に、机の置き場所がなくなったとかで。部屋を空けてこっちに移動させたってわけ」

「はぁ」

「でもま、勉強したいならみんな自習室に行くだろ? だからここを使う人はほとんど居ないよ。狭苦しいしね」


 確かに寮の方にはしっかりとした自習室が用意されていました。友達同士でグループ学習をするための小部屋も複数ありました。

 知る人ぞ知る隠れ家のようなスポットで、この先輩は事実上そこに居ついた部屋の主。そういうことのようでした。


 先輩が何気なく髪をかき上げました。

 右手の手のひらの真ん中に、深い、痛々しい傷跡が刻まれているのが見えました。それはとても彼女には不釣り合いで、完璧な人形にたったひとつ残された不備のようで……でも、どうしようもなくその傷が気になってしまいながらも、わたしは一言だってそれについて尋ねることはできず、その後もとうとう聞くことはできなかったのです。


 ★


 旧華族の方々も多く通う、小高い山の上の全寮制の学校。

 世間一般にはお嬢様学校のように扱われることも多かった学校ですが、入ってみれば拍子抜けするほど普通の学校、と感じました。

 放課後になれば級友の多くは山を下りて街に遊びに行きますし、門限に間に合わずに叱られて反省文、といった様子もちょくちょく目にしました。

 そんな中、わたしはいつしか、ヒマを見ては例の図書閲覧室に入り浸るようになっていました。


「万有の真相は未だ一言にして尽くす、曰く、不可解――ってね」

「厳頭之感、ですか」


 先輩とは並んでそれぞれ好きに本を読みながら、細切れの、短い、くだらない話をたくさんしました。

 わたしと先輩とは本の趣味がかなり合い、しかし、先輩はわたしよりも多くの本を読んでいました。先輩はわたしよりも幅広い領域をカバーし、ジャンルも様々で、ミステリもSFも哲学書も何でも片端から知っていて、そして、先輩が勧めてくれた本は大抵がわたしの好みに合いました。

 図書室はかなり広く、多くの本棚には天井近くまで本が詰め込まれており、果たして在学中に全て読みきれるものかどうか怪しいものでした。


「さて、じゃあ返してくるかな」


 先輩は読むのが早く、しばしばわたしよりも先に一冊読み終わって、また別の本を借り直してきました。

 図書室のシステムの上では、図書室内で閲覧する分には貸し出しの手続きは不要であり、閲覧室も図書室の延長線にある以上、そんな手間はかけなくてもいいはずなのですが。先輩は必ず貸し出し・返却の手続きをしたうえで次の一冊に取り掛かるのです。いつしかわたしもそれを真似るようになっていました。


 ★


「ねえ、大丈夫なの、あの先輩って」

「大丈夫って、何が?」


 それは確か梅雨が明けた頃のことだったはずです。何のはずみか、自分のクラスで図書室の話が出た時に、級友の一人が変なことを言い出しました。噂好きで情報通で交友関係が広くて、でも、わたしはあまり好きになれず、さりとてあえて嫌ってみせるほどでもない……そんな距離感の子でした。


「あの先輩、って噂だよ」

「えっ」


 彼女の、あまり要領を得ない言葉を要約すると、こういうことであるようでした。

 先輩の所属する三年生が一年生だった頃、先輩は何か事件に巻き込まれたようなのです。公式にはそれは、先輩の先輩……当時の三年生がひとり、自殺してしまって、それを先輩が見つけた、第一発見者だった、ということになっているそうですが。

 それに前後して、先輩も不可解な怪我を負って入院する騒ぎになっていて……『事件の真相は、先輩がその三年生を殺したのだ』と。あるいは『先輩がその三年生に殺されそうになって、正当防衛で逆に殺してしまったのだ』と。まことしやかに囁かれているのだそうです。


 馬鹿なことを、と笑い飛ばすことはできませんでした。

 この閉鎖的な学校で、人脈とか政治力とかもフルに使ったなら、それくらいの隠蔽はできてしまうかもしれない……ギリギリ可能だとしても不思議ではないくらいの線に思えました。

 何より――あの、右手に刻まれた傷。

 確かミステリとかでは防御創というのでしたっけ。刃物で切り付けられた時に咄嗟に防ごうとしたのなら、まさに。


 ★


「ふうん。それで、それが本当だったらどうする?」


 先輩はむしろどこか楽しそうに、でも全く変わらない表情のまま逆に問い返してきました。

 わたしは少し考えて、別に何も変わらないな、と思いました。

 その日はそのまま、いつもと同じように並んで本を読んで、いつもと同じように過ごしました。


 ★


 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が来ました。

 わたしたちは狭い閲覧室に通い続け、本を読み続けました。


 その日は窓の外に雪が降っていました。その冬の初雪でした。

 いまだにわたしには、何がきっかけでそういうことになったのか、まったく分かりません。先輩が何に背を押されたのか想像もつきません。

 いつものように並んで本を読んでいて、そして先輩は、本当に何気ない風に立ち上がって、静かに言いました。


って、どういうことだと思う?」


 いつかそんな話をしたっけな、でも先輩が同じ話を持ち出すのはちょっと珍しいな、と思いつつ、本から目を上げました。

 どこに隠し持っていたのか、先輩の手の中には、鋭く光るナイフがありました。


 その時、わたしが何と答えたのかは覚えていません。どう動いたのかも覚えていません。

 たとえ『そう』だったとしても構わない、先輩が相手なら仕方ない、と、ぼんやりと覚悟を決めていたはずなのに。


 ただひとつ、閲覧室の窓際に置かれていた花瓶を咄嗟に掴んだことだけは覚えています。


 ★


 高い所の本を取ろうと踏み台に乗って手を伸ばした先輩は、うっかり転落して頭を強く打った。

 動揺したわたしは、慌てて衝突したドアのガラス窓を割ってしまって傷を負った。

 そういうことに、なりました。


 学校の息のかかった病院で、わたしはそう聞かされました。

 実家から両親も駆けつけてきて、先生方や寮監さんと色々と話し合ったようです。

 先輩の御両親もいらっしゃったのでしょうか。まさか先輩をそのままにしておけない以上、引き取りにいらっしゃったはずですが、わたしにはよく分かりません。お葬式とかもいったいどうなったのか、知りません。


 お医者さんからは、顔の傷は一生残るだろうと言われました。

 なぜかその時、妙に嬉しく思ってしまったことを覚えています。

 傷そのものはそう深いものでもありませんでしたし、結局、冬休み明けには学校に戻ることができました。

 わたしの生活は、何も変わりませんでした。


 ★


 ドアの覗き窓は割れたまま直されることはなく、代わりの花瓶が置かれることもありませんでしたが、図書室も図書閲覧室も閉鎖されることなく残されていたので。

 わたしはやがて、ヒマさえあればそこに籠るようになりました。

 もうそこには先客はおらず、本を勧めてくれる人も居ませんでしたが、時間も本もたっぷりとありました。


 ひとりきりで本を読み進めるうちに、図書室の蔵書の一番後ろ、紙のポケットに収まった図書貸し出しカードに、先輩の名が残されている本がたくさんあることに気付きました。閲覧室で読む際にもわざわざ貸し出し手続きをしていてくれたおかげです。わたしも同じように貸し出し手続きをして、先輩の後を追いかけます。


 雪が解け、再び桜の季節が来て、桜が散って梅雨が来て。


 この頃になってやっと、先輩の名よりも一、二年前に、いつも出てくる名前があることにも気づきました。

 たぶん、先輩の先輩です。

 彼女も同じようにこの部屋でこれらの本を読んだのでしょうか。先輩は一言だって語ってくれたことはありませんでした。

 自分の顔を斜めに大きく横切る傷跡に指を這わせます。身体に刻まれたこの傷と、先輩たちの名の刻まれた蔵書の山。自分はたぶん、幸せ者なのだと思いました。


 夏が過ぎ、紅葉が舞い、雪が降って。


 ふと思い立って、歴代の卒業アルバムを確認してみました。学校の図書室ですからそういうものも揃っています。

 先輩の先輩とおぼしき人は、卒業者のリストに居ませんでした。集合写真の右上に、丸に囲まれて浮かんでいました。

 さらに年を遡ると、貸し出しカードで何度も見たことのある名前が、同じように集合写真の枠外に存在していました。その数年前にも、さらにその前にも。

 どこまで続いていたのでしょう、この関係は。


「始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを、か……」


 五尺150cmの小躯のわたしたちが、不思議とともに好きだった厳頭之感の一節。華厳の滝に身を投げた青年が傍らの木に刻んだ言葉。意味もなく口をつきます。


 雪が解けて、再び桜のつぼみがほころんで。

 わたしの襟を彩るスカーフも、二年生の緑を経て三年生の、先輩と同じ紫になり。


 ★


「し、失礼しました! その、何の部屋なのかな、って思って……!」

「謝らなくていいよ。かしこまる必要もない」


 いつも通り閲覧室で本を読んでいると、不意にドアを開ける者がありました。

 まだ着慣れぬ制服に着られているような印象の、赤いスカーフの新入生。ひとりきりです。一見して賢そうな子だな、と思いました。

 彼女の視線が自分の顔の傷に注がれていることに気付きますが、わたしは素知らぬ表情で寛容な先輩を装います。

 やがて何もない、机と椅子だけがある窮屈な部屋を見渡す余裕が出てきた彼女に向かって、わたしは教えてあげます。


「そうだね、図書閲覧室……とでも呼べばいいのかな。これはわたしも人から聞いただけなんだけども」


 窓の外には、あの日と同じ桜の花びらが舞っています。

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