第18話 大人と子供

 翌日、昼前にチョビ髭の好々爺は、半次に連れられて下谷のバラックを訪れた。銀次に急かされて此処まで来たが、急ぐ理由が分からない。


「銀さん。ここですよぉ」

 半次はトタンの扉の前に立つ。ノックをしてみるが反応がない。耳を澄ますが、どうやら人気ひとけが無いようだ。

「皆、稼ぎにでも出たんですかねぇ」

 銀次は近所の奥さんと、和かに世間話を始めた。しばらくして、バラックの前に戻ると、無造作にトタンを退かした。中はがらんどうで、ほとんど物がなかった。


「参ったね。逃げられたようだよ。奥さんが言うには、子供たちの親戚の家に入ることが出来るようになったと、引越しの挨拶に来たらしい」

 好々爺の言葉に半次は、あんぐりと口を開ける。

「恐らく半次の尾行はバレていたんだね。お前が私の家に来た時、男の子が後を付けていたと、若い者から報告があってね。もしやと思ったんだが……」

「尾行に気付いて、翌日にヤサを移るとはねぇ…… 何という行動力でしょうか」

 ステッキで軽く地面を叩くと、銀次は肩を竦めた。

「こうなったら仕方ない。縁がなかったと思うとしようか。半次、昨日食べ損ねた鰻を食べに行くよ」



「前川や初小川も悪くは無いが、アタシには色川が一番だね」


 浅草の老舗鰻屋である、「色川」で鰻が焼けるのを待つ間、肝焼きとお新香をつまみに、燗酒を傾ける銀次はため息をついた。

「生きてまた、こんなに旨い物が喰えるとはね。平凡でも娑婆が一番だよ」

「そうですねぇ。物相飯とは大分違うでしょう」

「臭い飯っていうけどね。本当に匂うんだよ。半次。できればお前も堅気になった方がいい」

「……そうですねぇ」


 バタン!


 乱暴に引き戸が開けられる。結構な酔っ払いが入り込んで来た。背広をだらしなく着崩している。酔眼は睨むもの全てを疑うように鈍く光っていた。元は色白なのだろうが、酒が回ってピンク色になった顔を厨房に向けた。

「親父。酒だ! それから鰻も特急で持ってこい」

 勝手気ままにカウンターの奥へ、ドカリと座り込む。


「白ヒルだ。嫌な奴に行きあっちまったよ」

 銀次は顔を顰める。白ヒルと呼ばれた酔客は店全体を睥睨する。酔眼は小上がりに構えていた半次たちの所で止まった。

「おい! この店には掏摸がいるぞ!」

 白ヒルは、おぼつかない足取りで小上がりに向かう。

「掏摸の親分が、こんな所で何の悪巧みだ」

「嫌ですよぉ。そんなに大声をあげたら、他のお客さんに迷惑じゃないですかぁ」

 堪らず半次が抗議の声を上げる。白ヒルは彼を睨みつけた。

「何だ、この若造は。どうせ碌な者じゃあるまい。可愛い面をしているから、銀次の男妾か何かなんじゃないのか」

 白ヒルの話し方は毒が凄い。江戸弁は元から行儀が悪いが、彼の口からは物理的に目で見えそうな悪意が漂う。


「良いか。日陰者が日向で偉そうに鰻なんか喰うんじゃねぇ」

 男妾扱いされた半次が、立ち上がろうとするのを銀次が止める。

「旦那。巡回中おつとめじゃないんですか?」

「うるせぇ。掏摸ごときが警部様に意見するな」


 これはダメだ。何を言おうが通用しない。好々爺の顔を取り戻した銀次は、小上がりを降りる。

「お勘定を。うるさくして悪かったね」

「いやお客さん。申し訳ありません。 ……あの旦那は癖が悪くてね」

「親父! モタモタしてないで、鰻を焼け!」

 白ヒルの怒号。好々爺は苦笑いを浮かべた。

「もし良ければ、私たちの分を回して上げて下さいな」

「それは…… 誠にあいすいません」

「良いんですよ。また来ます」

 二人は白ヒルの罵声を背に、店を後にした。



 半次が生まれる前。江戸の昔から、ヤクザや掏摸は警察機構と持ちつ持たれつの関係を保っていた。火消や岡っ引きのように、町内自治に一役買っていた位だ。例えば曰く付きの盗品や財布は、警察が返せと言えば、人知れず返却されているような間柄だ。

 しかし時勢から、警視庁に掏摸専門の取締部署が出来て、関係は一変した。掏摸は一方的に取り締まられるだけになった。


「その中でも白ヒルは最悪だね。あいつは人の血を吸うんだよ。ヒルみたいにね」

 白ヒルは配属先の浅草七軒町署管内を自分のナワバリと称し、犯罪者から上納金を巻き上げていた。賄賂を払ったヤクザや掏摸の調査には手を抜く代わりに、金を出さない犯罪者の締め上げには、見せしめのため全力を尽くした。

 ヒルは喰らい付いたら満腹になるか、身体を炎で炙られない限り離れない。無理に引き剥がせば、吸い付いた皮膚ごと剥がれ余計に傷口を広げる。


 持ちつ持たれつの関係が消滅しても、彼のナワバリでは、旧態依然の悪事がまかり通った。白ヒルは貯めた資金を効率的に上役へ、ばら撒いた。悪を取締る警察組織にも腐った幹部はいる。

「だからどんなに密告や監査が入っても、奴は白いんだ。本当は真っ黒なのにね」

「大人びた子供たちが居ると思うと、どうしょうもない悪童な大人もいるものですねぇ」

「半次。しばらく浅草七軒町界隈には立ち入らない方がいい。あれだけ酔っていても、奴は一度見た人の面は忘れない。触らぬ神に祟り無しだ」

「白ヒルというよりは、毒ヒルですねぇ」


 半次は顔を顰めた。

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