第17話 統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)


 その日、半次は東京市電(路面電車)の座席に座っていた。横に座った和服姿の老人がニコニコ笑いながら、半次に話しかけている。

「こうやって半次と市電に乗っているなんて、夢のようだね」

「嫌ですよぉ。銀さんにそんなこと言われると、背中がこそばゆくなっちまいますねぇ」

「どうだい? このまま浅草まで足を延ばして、鰻でも」

 パナマ帽をかぶりチョビ髭を生やした好々爺は、そこまで話して右の眉を上げた。今でも微笑んでいるが、目が笑っていない。何かを察して、半次は表情を引き締める。


「おい半次。見たことのない掏摸モサがいるよ」

「大親分の前で仕事をするとは、大した度胸ですねぇ。でも銀さんが知らないだけで、新入りなんじゃないですかぁ?」

「大親分は止めとくれ。でもねぇ。年を取っても、東京市内の同業者の顔は忘れられないんだよ」

 老人はステッキの持ち手で美少女を指した。大した上玉だ。流行のワンピースアッパッパに薄いカーディガンを羽織り、色の薄い黒髪を伸ばしている。

「アタシには彼女が仕事をしたところが分かりませんでしたねぇ。さすが銀さんだ」

「まだやってないよ。でも分かる」


 ガタン!


 市電が交差点に入り、大きくカーブを切った。少女は遠心力に耐えられず、着流しのヤクザ者に、よろけてぶつかってしまう。

「きゃあ。どうもすいません!」

「気を付けやがれ! お、いい女じゃねぇか」

 ヤニ下がったヤクザは、美少女に掴みかかる。しかしまた市電が揺れ、少女は大きく反対側に身体を振られた。ヤクザの手が空振りし、舌打ちしながら少女の方へ一歩踏み出す。


 チンチン!


 市電のチャイムが鳴り、停車場に到着した。少女は昇降口のステップで蹈鞴を踏んだ。

「すいませーん。降ります! あの、本当に申し訳ありませんでした」

 間一髪で美少女は魔手から逃げおおせる。上げた手を所在無げに見つめるヤクザ。周りの乗客は笑いを嚙み殺している。


「今、やりましたね。しかしどうして仕事をする前から、掏摸だって分かるんです?」

「視線、立ち位置、指先の綺麗さかねぇ。何となく分かるんだよ」

「大した統帥権干犯ですねぇ。仕立屋銀次したてやぎんじの目の前で仕事をするとは」

 しばらく前から、統帥権干犯という流行り言葉が巷に溢れていた。時の宰相が天皇陛下の意向を無視して、軍縮を進めた事を指す。引退したとは言え、東の掏摸の大親分である銀次の前で仕事をするとは、確かに統帥権干犯なのだろう。


 大した統帥もいたものであるが。


「しかもあの短時間で札入れから、紙幣だけを抜き取っているよ。あれじゃあの与太者も、戻された札入れを開けるまで、掏摸にあったことさえ気づきはしない。全盛期のアタシでもあそこまでできるかどうか……」

 老人はステッキで軽く床を突いた。

「半次。鰻はお預けだ。一つ頼まれごとをさせておくれな」

 こうして半次は銀次の依頼で、美少女の素性を調べることになったのである。


「さて。住処ヤサは分かったと」

 近所のバラックで、彼らの評判を聞きこんだ。孤児が集まって生活していること。収入の伝手は分からないが、食事もできていること。朝晩には付近の清掃を積極的に手伝い、挨拶や世間話を欠かさないこと。


 皆が生きていくだけで精一杯のこの場所で、彼らの悪い評判を拾うことはなかった。子供だけであるから、周辺の大人の心象を良くし、地域に溶け込む努力をしているのだろう。

「恐るべき子供たちだねぇ」


 夕暮れの中、半次は報告の為、大親分の邸宅へと足を向けるのだった。

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