人差指奇譚

下村アンダーソン

人差指奇譚

某日

 古びているとはいえ指は目一杯に働いていたので、指売りが訪れても何も買う気はなかった。今が何代目か記憶してはいないが、かつてないほどにしっくりと馴染んでくれている。仕事は裁縫だ。思いどおりに、細やかに動かなければ使い物にならない。そう告げて追い払おうとしたのだが、指売りは平然と家に入り込んできて宣伝を始めた。まったく図太い女と見える。

 仕方なしに指売りが広げた標本を覗いてみても、案の定めぼしい指はなかった。屈強さとしなやかさのいずれが欠けても、私の仕事には適さない。

「そういうわけだから、今日はいらない。帰って」

「まあ、そう仰らずに。試してみれば気分も変わりますよ」

 指売りの女が一本を摘まみ上げてみせた――途端に電流が走った。売り物の指のせいではない。指売りの指だ。商品を得意げに私の眼前に差し出している、その指だ。目が釘付けになった。

「ほら、お気に召したでしょう」

「違う。あなたの指。その指を売って」

 女は表情を変えた。顎に添えられた、親指と人差し指。幽かな湾曲、血色のよい肌、桜色の爪。私は顔を突き出した。

 自然と吐息が洩れた。唇を押し当て、舌を這わせ、それから順番に口に含んで、溶けるほど愛撫してやりたくなるような――そんな指だった。

「これは、売り物じゃありませんよ」

「いくら欲しいの? いくらなら売るの?」

 顎を掴む指先に力が籠ったのが分かった。関節が緩やかに動き、絶妙な線を描く皺がわずかに形を変える。悩ましげなその様子は、私をますます虜にさせた。

 女は莫大な金額を提示してきた。十本一揃いではとても手が出ない。交渉に交渉を重ね、一本だけを買うことに決めた。

「毎度ありがとうございます。切断と縫い合わせは、私のほうで?」

「いいえ、私が。その手の仕事は手馴れたものだから」

 こうして私は新しい指を手に入れた――もっとも美しい人差し指を。


某日

 今日も飽きることなく人差し指を眺めている。裁縫にはからきし向かない指だったが、私はまるで気に留めなかった。近く寄り添ってくれる親友であり、憧れの恋人でもあり、しかもそれが、自分の思うままに動くのだ。これ以上の幸福が、果たしてあるだろうか? 選び抜いた一本。私の宝物。これさえあれば、他には何もいらない。


某日

 人差し指に比べると他が醜く見えてどうしようもない。耐えかねて、すべて切り落としてしまった。こんなものが自分の一部だったのかと思うと吐き気がする。九本の指は離れると同時に腐りはじめ、瞬く間にとろけて消えた。


某日

 裁縫は出来なくなったが、私と人差し指は新しい仕事を見つけた。それは物語を書くことだ。人差し指も私に似て、自分が働いているところを見られるのが好きではないらしい。たいがいの物語は、私が眠っているあいだに生み出される。床に就く前に、紙と墨を用意しておくと、目が覚めたときにはすっかり書き上げられている。初めての原稿が売れたとき、私は喜びのあまり人差し指に接吻を繰り返した。何と素晴らしい。私の愛しい相棒。


某日

 私たちの物語が評判になった頃、あの指売りがまたやってきた。何を言い出すのかと思えば、売った人差し指を返してほしいとのこと。どの指を繋いでみても癒着しない、やはり最初のものでないと駄目なのです、など顔を歪ませて喚く。おおかた私たちの成功に嫉妬して、あいだを引き裂こうという魂胆なのだろう。心底醜い女だ。無論のこと、いっさい取り合わずに家から叩き出した。この人差し指はもう、私だけのものだ。


某日

 家を官憲が訪れた。人差し指のない女が死体で発見されたという。会ったことはないかと問われたので、確かにその女から指を買ったのだと答えた。官憲たちは途端に表情を変え、私の手許を覗き込んで呻いた。私を気狂いだと言う。気狂いの私が女を殺し、その証拠として指を持ち帰ったのだと言う。死体から切り落とした指で自分を飾り立てている化物なのだと言う。

 そんな馬鹿な話があるものか。あんな女になど、私はいっさい関心がない。惹かれるのは指だけだ。 

 そもそも私が、どうやってあの女を殺せたというのだ。生まれつき両脚を欠いて、一歩も動けないというのに。


某日

 独房の壁に、血でこれを書いている。与えられる食事は家畜の餌のようだが、人差し指を生かさなければならないから、文句を言わずに食べている。栄養はすべて人差し指に回れ、回れと念じているからか、いまだによく動いて私を楽しませてくれている。物語を生み出す才能も健在のようで、喜ばしい限りだ。この人差し指と一緒に居られるなら、どこだって構わない。


某日

 人差し指の感触はまだある。これが書かれている位置も、おそらくずいぶんと低くなったことだろう。顔を上げることも叶わないから、悲しいことにもう、人差し指の物語を私が読むことは出来ない。ただ指が動き続け、生き続けているという実感だけが、私をこちら側の領域に繋ぎとめている。そうでなければ、とうの昔に発狂していたに違いない。


某日

 とうとう体中の血を使い果たした。だからこれは、人差し指がただ、壁をなぞる感覚としてのみ私の中に生じている。知覚できるということは、私がまだ生きている証明なのだろう。おそらくは。

 

某日

 人差し指が、自分を食べろと訴えてきた。そんなことは出来ないと断ったが、彼女は聞き入れない。私の意識が朦朧としているあいだに、自ら私の口の中に入り込もうとする。だから私はそのたびに、美しい指を舐めて、柔らかく噛んで、吐き出した。ふたりとも元気だった頃は、よくこうして互いを愛撫して愉しんだのだった。私たちは幸せだった。狂おしいほどに。


某日

 ひとつになろう、と人差し指が言う。もうひとつじゃない、と私は答える。あなたは私の、私はあなたの一部。それ以上、望むことはないでしょう?


某日

 私は、あなたになりたい。


某日

 ……


某日

 女を殺した本当の犯人が見つかったからといって、私はまったく唐突に独房から放り出された。すぐさま病院に担ぎ込まれ、あれこれと処置を受けたのち、真っ白な寝台の上でこれを書いている。

 いや、書いている、という言葉は適当ではない。私が語っている言葉を、傍らの医師が書きとっているのだ。治療の一環としてなのか、あるいは別の目的があってのことかは、定かではないが。

 一連の物語は、官憲の拷問によって十本の指を切り落とされた私が、その事実を受け入れるべく作り上げた偽の記憶だというのが、彼の大筋の解釈のようだ。きちんと心身を治療して健康になれば、自ずと本当のことを思い出しますよ、自身と向き合うのはつらいでしょうが、と、医師は私に語りかける。

「あなたは大事なものを失ってしまわれた。もう二度と戻ってくることはありませんが、それでも生き延びることです」

「そうすれば指は、私の中で生き続けるでしょうか」

 医師は驚いたように私を見返す。一瞬の間を置いて頷く。

「ひとつに、なれたかな」

 私は小さな自分の掌を見つめる。かつて彼女のいた場所に、短く口づけをする。

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人差指奇譚 下村アンダーソン @simonmoulin

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