輝く煙

 突風だ、とルルトが両腕を眼前で交差して直撃を避け、風圧が和らいでから目を開けたときにはもう、松明の炎もそれに照らされていたナッシュの姿も消えていた。


「ナッシュ?」


 呼びかけた相手からの返事はなく、辺りを見まわしても松明の炎は見えず、満月の青い光の筋だけが繁った枝葉の天幕をところどころ貫いて差し込んでいる。


「ナッシュ、どこだ?」


 ルルトは恐る恐る足を踏み出しながら再び呼びかけたが、やはりナッシュからの返事はない。森には冬の訪れを知らせる虫、クグナグスの金属を擦り合わせているかのような、ともすれば赤子の泣き声にも似た鳴き声が満ちている。


 月明かりに頼った歩行は困難を極める。松明なしで帰ることは不可能だろう。すでに森の深部にまで入り込んでおり、つまりは魔物が出没するという祭壇にも近いということ。加えて、魔物や猛獣ではない、別の脅威となる存在の噂まである。父はそれを『輝く煙』と言っていた。


 輝く煙に剣や銃は効かず、触れられると人体のその部位が消失するという。父の友人でありメルノの父親でもあったノドーは、全身を輝く煙に包まれて跡形もなく消えてしまった。狩猟から帰るなりそう口にした父の狼狽ぶりを思い出し、ルルトは堪らず身震いした。


 もしやナッシュは輝く煙に襲われてしまったのではないかと、ルルトは急に恐ろしくなり、歩みを止めると息を殺して周囲の気配を窺った。変わらずクグナグスの気味の悪い鳴き声だけが響いている。


 背後を確認しようとしたルルトは、ナッシュが消える直前に言った『うしろを振り向くな』という言葉が頭をよぎり、右肩が視界の端に入った辺りで首の動きを無理やり止めてその場に固まった。そこに何かがいるはずがなくとも、濃密な闇が何者かの息遣いを聴かせ、異形のものが繁みに身を潜めているのではないかと錯覚させる。


 本当に何かがいれば、とうに襲ってきているはずだ。大丈夫、問題ない。とルルトは己を鼓舞したものの、背後を確認するまでの時間を少しでも長引かせようと、右に向けていた顔を反対の左肩のほうへわずかずつ動かしてゆく。


 己の左肩が見え、やけに月明かりが強いなと思ったところで、視界の左端が白く光り輝いていることに気がついたルルトは、頭から冷や水を浴びせられたような感覚に動きを止めた。炎とは違う、見たことのない銀色の光だ。


 輝く煙に触れられた身体の部位は消失する。


 父の言葉が繰り返し脳裏に浮かぶ。動いた途端に襲われるのではないか、声を上げるまもなく身体が消えてしまうのではないか、と。まるで闇の中から伸びた見えない鎖が、両の手足に絡みついているかのように、背後の何かから距離を取ろうとするルルトを萎縮させる。


 視線を正面に向けたままで固まっていたルルトは、視界の隅で銀色の光が輝きを増したように思え、それが徐々に近づいてきているのだと気づいて観念し、もう駄目だとギュッと両目をつぶってそのときが訪れるのを待った。


「ねぇ、キミ。ひょっとして道に迷ったのかい?」


 唐突に声を掛けられたルルトが思わず目を開けると、ちょうど顔の高さ辺りに銀色に輝く光が浮いているのが見えた。あまりの眩しさに両手を翳し、再び目を閉じて光を遮ろうと試みる。


「あ、ごめん。ヒトには眩しいよね」


 五、六才くらいの小さな子供のような、あどけない高い声をしている。まぶたの裏に映る光が弱まり、会話ができる相手だと判断して警戒を緩めたルルトは、ゆっくりとした動作で両腕を下げていき、輝く煙の正体を見極めてやろうと両目を見開いた。


「やぁ、はじめまして」


 やや大型の昆虫が宙に浮いていると思ったルルトだったが、人語を解する虫などいるわけがないと己の考えを訂正し、眼前にいるものが何なのかをよく観察しようと少しだけ顔をそれへと近づけた。


「キミ、名前は? 一人かい? 明かりも持たないなんて危ないなぁ。ん? キミ、まだ成人の儀を受けてないね。なら親が悪い! 子供に明かりを持たせるという親としての責務を怠っているじゃないか! 何かあったらどうするっていうんだい。そもそも暗くなってから子供を森へ遣わすのが間違ってる! って、ねぇ、聴いてる?」


 相手が何なのかもわからず、一方的に捲し立てられて圧倒されたルルトは、「おまえが輝く煙?」と質問とは関係のない言葉を口にしていた。


「なんだい、それは? ボクはヒトがいうところの妖精ってやつだよ」


 もしや夢を見てい




 「キャー!」


 先ほども耳にしたばかりの女性の嘘臭い悲鳴が部屋に響き、総一は執筆の手を止めてラップトップから顔を上げ、モニター上部の『11:19:11』と表示された制限時間を睨んだ。また誰かが死んだのだろうと、正面に並ぶ二つのモニターへ視線を移す。画面には何も映っていない。


 ほんの数十分前、髪の長い若い男性が、何か巨大な物体に潰されて死んだ映像が流れた。あれが誰だったのかはわからない。ランキングを執筆名で発表しておいて脱落したら本名を使うなど、残った参加者に対する明らかな隠蔽だ。しかし、隠したからといってなんだというのか。


 右のモニターがわずかに明るくなり、画面の中央に『本名 小久保良昭』という白い文字が浮かびあがった。文字が消えると、黒い画面がじわじわと浸食されて白い壁に変化し、頭を左へ向けて床に俯せとなっている男性が現れた。よく見ると腹這いのまま進んでいる。


「早く、早く!」


 床を這う男性の逼迫ひっぱくした声が、荒い息遣いとともに部屋に響く。続けて大量の硬貨がぶつかるような音がして、画面のなかの男性が背後を振り返り「クソがッ! 一体どうなってんだよッ!」と叫び声を上げた。急いでいるなら立ったほうが早いのに、どうして寝転がったままなのか。


 おそらく、ポイントが減少したか負債が加算されているのだろう、と総一が考えたことを読みとったかのように、カメラのアングルが男性を正面から捉えるものへと切り替わった。男性の背後の壁に『270』という赤い数字が見える。その途端、硬貨の落ちる音がして数字が『280』に変わった。


 白いものの混じった髪を振り乱し、吊り上がった細い目で正面を睨み這い寄ってくる男性の姿は、瀕死の猛獣が自分を追い詰めた相手に対して、最期に一矢報いようと足掻あがいている姿を想像させた。


「吹っ飛ばして、ブッ殺してやる!」


 物騒なことを口にしながら、画面の男性がじりじりとこちらに近づいてくる。硬貨の音は一定の間隔を保って鳴ってはいるが、もはや男性が背後を気にしている様子はない。


 再びアングルが切り替わって男性の足先側からの映像となり、彼が部屋のドアへ向かって進んでいることがわかった。が、どこか違和感がある。何がおかしいのかと目を細めてモニターへと顔を近づける。


 足だ。片方だけ赤い靴下を履いているのかと思ったが違う。床に何かを引き摺ったような赤いいびつな線が残っている。よく見えないが、どうやら左足に怪我を負っているらしい。


「おぉしッ! セットしてやったぞ! ブッ壊してやるッ!」


 主語が抜けているせいで、男性が何をセットして何を壊そうとしているのかは不明だ。通例、何かを壊すためにセットして使うものといえば、時限爆弾やダイナマイトといった爆発物ぐらいだろう。だが、そんなものが連中からもらえるのなら、とっくに誰かが試して脱出しているはずだ。


「って、オイッ! 導火線がねぇよッ! あとライター! 早くしろッ!」


 アングルが変わり、白い四角い物体に黒い線香のような細長いものを差し込もうとする、男性の手元の様子が大写しとなる。導火線だろうか。だとしたら、一体いつのまに手に入れたのか。男性が叫んだ次の瞬間にはもう手に持っていた。


 じゃらじゃらとひときわ大きな金属の音がして男性の姿が消え、代わりに『7,800』と桁違いの赤い数字が画面に表示された。


「おま、おまえら、大馬鹿らッ! ごて、ごてて、ご丁寧ニヒッ! ブッ殺してやるッ! やるッ! おまえ……おまえッ! おまえだよ、おまえッ! 殺すッ! 殺すぅッ!」


 数字が消え、正面から男性の顔面を捉えた画がモニターに映った。興奮しているのか、それとも恐怖でおののいているのか、男性の呂律がまわっていない。


「火、火、火ぃつけんぞッ! これ、ここれで終わりだッ!」


 導火線に火がつく様子がアップで画面に映る。すぐさまアングルが男性を真上から見下ろすものへと変わり、画面下方から四本のロボットアームが彼に向かって降りてゆく。男性は死角から迫るアームに気づいていないようだ。


 突然、男性が右へと転がった。アームを察知しての行動ではないのは、天井を向いた彼の目が見開かれ、「なんッ⁉︎」と声を発したことからもわかる。もしや、セットしたのが本当に爆発物で、巻き込まれないように避難したつもりなのだろうか。


 ドアを破壊するのだとして、それほどの威力のある爆発物から身を守らねばならないのに、その対処法が横にちょっとずれただけというのは、いくらなんでも素人だからでは済まされないだろう。常識的に考えれば、身を守るために可能な限り距離を取ろうとするはずだ。


「やめろッ!」


 男性の顔のアップ、全体の半分近くまで燃えた導火線、それからどうやって撮影しているのか、こちらに迫り来る四本のロボットアームと、映像が次々に変わって再び天井から床を見下ろすアングルへと戻った。


「くく、来るなッ!」


 仰向けのまま叫んでいるだけで男性は動こうともしない。映像で確認する限りアームの動きは遅く、逃げるには十分な余裕があるように思える。はじめから観念してしまうほどの脅威には見えない。男性が導火線を気にしている様子がないのも不可解だ。


 アングルが切り替わり、頭を左にして仰向けに横たわる男性と、天井から迫る四本のアームを真横から捉えた広角の構図となった。アームはまだ遠い。今からでも逃げられる。


 続いて、導火線の火が白い物体に到達する寸前の画が現れ、またもや男性を見下ろす天井からのアングルへと変わった。これでは爆弾のほうが間に合わない、と総一が思うが早いか不自然に音声が途切れて、画面内上方から突如として噴出した濃灰色の煙で男性の姿が見えなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る