水は低きに流れ、人は易きに流れる

 違和感を胸の下に覚え、瞼の裏に眩しさを感じた優香は、急速に覚醒して目を開けた。冷たさの失われた床に仰向けになったまま、右手に見えるモニター上部の『11:45:20』という数字を見やる。眠ってしまっていたようで、術後から約三時間が経っている。


 局所麻酔の効果が切れてきたらしい。左右の乳房の下、第七肋骨を切除された辺りに鈍い痛みがある。


 執筆はまったく進んでいない。というか、執筆のためのデバイスにすら手が届いていない。サウナ並みに暑い部屋も健在だ。


 パンツはデニム生地の不快感が堪らず、かといって下着になるのも嫌で、頼んだ薄地のハーフパンツに履き替えた。それだってもうTシャツ同様、汗を吸いまくってビショビショに濡れてしまっている。


 スマホがあるトレース台までまだかなり距離があるな、と優香はもう一度首を右へと傾けた。台の上は見えないが、二つ並んだモニターの左側には、最前から執筆画面が映りつづけている。この三時間、何かが起きた様子はない。だからといって事態が好転したわけでもないが。


「キャー!」


 再び目を閉じようとしていた優香は、部屋に響いた女性の悲鳴を聴き、演技臭いとは思いながらも緊張で身を強張らせた。もうどれが誰に対する何の合図なのかわからない。音や人の声を耳にするだけで神経が擦り減るようだ。


 目を開いて視線の先にあるモニターを眺める。さっきまでの執筆画面は消えており、『本名 多田博史』という文字が現れては闇に溶け、続けて白い壁を背景に黒っぽい服装をした人物の立ち姿が浮かぶなり、「あー、あのさー。もう一回トイレ」という男性の甘ったるい声が聴こえてきた。


 今度はこの男の排泄映像でも流してこちらの羞恥心を煽る作戦か。などと考えていると、床からドアつきの箱型物体が現れ、男がなかへと消えてわずか数秒で再び出てきた。箱はどうやらトイレらしいが、男という生き物はそんなに素早く排泄を済ませられるものなのだろうか。


 トイレ箱が床下へと沈み、何も起きないではないかと優香が目を逸らそうとすると、一瞬のうちに画面から男の姿が消えた。何があったのかと考える暇もなく、モニターの映像が白から暗室のような赤黒い色へと転じた。


 照明が赤になったのかとも思ったが違う。男が部屋を移動したのだ。消えたように見えたのは、トイレと床のあいだにできた隙間から階下へと移ったためらしい。この建物に入って地下へと降りたのはわかっていたが、さらに下の階があるとは思わなかった。


 もしやこれは、脱走に成功した者の映像なのではないのか。推測するに、罰を与える仕掛けはわれわれ参加者がいる部屋にしかないはずである。忍者屋敷でもあるまいし、この映像を捉えている防犯カメラくらいはあっても、建物のそこかしこに罠を張るなど考えにくい。


 いや、と優香は考えなおす。


 映像が始まる前に女性の悲鳴が上がったではないか。あれは、この部屋で最初に観せられた、何とかという女性のグロ動画が流れたときに聴いたものと同じだ。おかめ面が脱出経路をやすやすと参加者に教えるようなタマには思えない。きっと彼は助からないだろう。


「痛ってぇ……モロに腰打ったー。マジ、ハンパねー」


 倒れていた男は立ち上がると咳をしたり肩を怒らせたりしたあと、「てか、余裕で脱出成功ー!」と叫んで何事かをブツブツと喋りだした。誰かと会話をしているのではない。独り言である。何やら演出の甘いB級のホラー映画を観ている気分になってきた。


 もう何となく結末はわかっている。それでも面白い映画であれば観るかもしれないが、これは映画ですらない。ただ人が死ぬだけの映像だ。生き残るヒントでも映っていない限り、とくに観つづける意味はない。


 ノイズキャンセリング機能を備えたヘッドフォンまではまだ遠い。音声は仕方がないか、と優香は目を閉じた。


 そういえば、気になることがある。


 判定で抱えた負債は肋骨で支払った。が、作品は修正しなくてもよいのだろうか、という点だ。次の判定で重複して評価されては困る。常識的に考えれば、先ほどの判定以降に加筆された部分が次回の評価対象となるはずだが、おかめ面にそのような親切心があるとは思えない。


 先ほど考えた、ブルーオーシャンへ舞台を移せば解決というのは安易すぎる。麻酔の影響なのか、やはり頭が働いていないのだ。


【紅 朱音】

・文章作法に則っていない 370

・規定文字数未到達 300

・程度の低い表現 400

・重複表現 480


 とはいえ、規定文字数である一万字までの、残りの三千字ほどを書く気概はない。それに、程度の低い表現というのも、基準がわからないので直しようがない。


 重複表現が『頭痛が痛い』や『被害を被る』のようなものなのは知っている。だが、その箇所を約七千字のなかから探し出し、一つ一つ修正するのは容易な作業ではない。同様の理由で、文章作法がどうたらも、数十分やそこらでできるものではないと思われる。


 可能なら何も修正せずに済ませたいという、堕落した考えに傾いているのだ。肋骨を取られる前までは死の恐怖に怯えていた。しかし、罰を受ける仕組みを理解し、即座に命の危険がないとわかった途端にこれだ。


 水は低きに流れ人は易きに流れる。孟子の『水の低きに就くごとし』という性善説の説明から派生したものだが、元になった言葉と違ってこちらは読んで字の如く、良い意味では使われない。今の自分はまさにこの状態にある。


 野生動物が威嚇して唸っているような低い音と、何かが高速で回転しているような高い音で目を開けた優香は、「ザッケンナ! 誰だよッ!」という叫び声でモニターへと視線を移した。追っ手でも現れたのかと目を凝らす。画面内では下を向いたままで脚を何かに絡めてもがく、男の左半身が映し出されていた。


 これまたB級ホラー映画でありがちな、少し抜けたところのある主人公やヒロイン役へのテンプレ化された演出だ。怪物やバケモノに追われるなか、衣類の裾や袖がどういうわけか破れたフェンスや飛び出た釘などに引っ掛かり、逃げも隠れもできない状態で追っ手の近接を許してしまうというアレである。


「まだ動くなよ!」と男が叫んだ途端、まるでそれが合図にでもなったかのように、大きな音が鳴って彼の絡まる足場が蛇腹のように縮みだした。


「ヤメロッ! 誰かぁッ! と、止めッ!」


 一度にたくさんの薪がぜているのにも似た、男の骨が次々に粉砕されてゆく音が部屋に響く。


「りょかッ! かかかかかッ!」


 あれでどうやって声が出ているのか、と優香が恐怖と好奇心のないまぜとなった感情に目を細め、人間とは意外にも生命力の強い生き物なのだな、などと考えた次の瞬間、画面の左側から現れた大きな何かに圧し潰されて男の姿が消えた。


「と、止めッ! りょかッ! かかかかかッ!」


「え? だって今、この人」


 ライブ中継だと思っていた優香は、直前の映像と音声が繰り返されて思わず声を漏らした。録画した映像である。ならば、この男はいつ死んだのだ。これでは今までに流された映像も、過去に撮影されたものでないと言い切るのは難しくなってくる。


「と、止めッ! りょかッ! かかかかかッ!」


 実際、一体何人の参加者が生き残っているのかもわからない。果たして、私はこの不毛なゲームで、本当にまだ誰かと競い合っているのだろうか。すでに全員が死んでおり、残された自分だけが独り相撲を取っているのではないのか。


「と、止めッ! りょかッ! かかかかかッ!」


 同じ映像と音声が三度繰り返し流れ、動画を編集した人間の趣味の悪さに優香が吐き気を催したところで、モニターに『GAME OVER』という紫色の文字が浮かんで画面が暗くなった。


 無理だ。


 このゲームは参加者が勝てるような仕組みには元からなっていない。こちらが絶望する様子や殺人行為自体を観て楽しむ、快楽殺人者が考えるタイプのデスゲーム。一見、脱出口があるように思わせつつ、あらゆる手を使って参加者を妨害し、最終的には全員を死に至らしめる、いわゆるクソゲーのパターンだ。


 おかめ面は最高傑作を書けとは言っていたが、そのわりに参加者を簡単に殺しすぎる。つまり、奴の目的は完成した作品を読むことではない。要するにショーとしてこのデスゲームが盛り上がればそれでいいのだろう。


 そもそも奴は、作品を書き上げれば解放してやるとは言っていない。


 たとえルール違反で極刑を免れたとしても、一回でも罰を食らえばアウトなのだ。大きな手術ではなかったものの、術後の倦怠感が満ちた身体に朦朧とした意識のグロッキー状態では、新しいアイディアも文章も浮かんではこない。加えて冷房器具のない鬼のように蒸し暑い部屋で、集中力を保って執筆するなど誰ができよう。


 またいつ判定時間を繰り上げられるかもしれない。こうして天井を見上げているだけではダメなのはわかっている。わかってはいるが身体が動かない。もし次の判定でまた負債を抱えても、死にはしないのだからという考えが私を怠惰にさせる。


 映画やドラマで極限状態にある主人公が、気力を振り絞って必死に生き残ろうと努力するシーンがあるが、あんなものはやはり空想上の綺麗事でしかない。人はどんな状況であろうとも、易きに流れるときは流れる。それが人というものだ。

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